王都編2-27 王宮舞踏会
今シーズン最後の舞踏会とあって、王宮の大広間は華やかな熱気に包まれていた。
幾重にも連なる巨大なシャンデリアは無数の蝋燭を煌めかせ、その光を受けた大理石の床は鏡のように磨き上げられている。
高い天井には歴代国王の治世を描いた壮麗な天井画が広がり、金箔を施した柱の間には色とりどりの花々が飾られていた。
楽団が奏でる優雅な旋律に合わせ、色鮮やかな礼装の貴族たちが談笑し、笑い声が幾重にも重なる。
今夜で社交シーズンは幕を閉じる。
名残を惜しむように、誰もがこの最後の舞踏会を楽しもうとしていた。
エルナはルシアンたちとともに、国王への挨拶のため玉座の前へ進む。
「よく来たな」
国王は穏やかにそう声を掛けただけだった。
だが、その隣では声こそ発しないものの、三者三様の反応があった。
シャルロットはぱっと目を輝かせる。エリーゼはその視線を受け、微笑みながら静かに頷いた。王妃と王太后は、まるで孫娘の晴れ姿を眺めるように、感嘆の眼差しを向けている。
一方、レオンハルトだけはエルナに目を見張ったあと、ゆっくりとルシアンへ視線を移し、眉をひそめた。
(お前……何をやっている)
そんな無言の叱責が聞こえてきそうだった。
エルナたちが一礼して下がると、入れ替わるように次の貴族が玉座の前へ進み出る。
その一瞬の隙を逃さず、シャルロットが身を乗り出した。
「お義姉様、あのドレスですわ!」
「公爵夫人が手直しをなさったのでしょう。見事なものですね」
「……あのドレスとは、去年のか?」
確認をするように、レオンハルトが低い声で尋ねる。
「あなたたち?」
王妃の穏やかな、それでいて有無を言わせぬ一言に、三人はぴたりと口を閉ざした。
何事もなかったかのように背筋を伸ばし、次の貴族へ穏やかな笑みを向ける。
その様子を見た王太后は、小さく肩を震わせて微笑んだ。
レオンハルトとエリーゼの優雅なファーストダンスが終わるのを、エルナは名残惜しそうに見つめていた。
互いを信頼し、慈しみ合っていることが、言葉などなくとも伝わってくる。
(……本当に素敵なダンスでした)
二人の姿を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
自分とルシアンだって、仲が悪いわけではない。
それどころか、いつだって優しく接してくれる。
それは誰よりも分かっている。
「エルナ、私たちも」
「はい。ルシアン様」
――私が、期待しすぎているだけなのだ。
今だって、こうして真っ先にダンスへ誘ってくれる。
それはいつものこと。
けれど今日は、その「いつも」が少しだけ苦しかった。
ルシアンの手を取り、ともにホールへ進む。
一礼するルシアンへ返礼し、そっと手を重ねる。
ただそれだけのことなのに、胸の鼓動は落ち着かなかった。
腰へ添えられた手のひらの温もりが伝わる。
その熱に身体がわずかに震える。
けれど、胸の内で騒ぐ想いは、その温もりだけでは静まってくれなかった。
楽団の演奏に合わせ、二人は滑るように踊り始める。
すると、ふと周囲の視線が自分へ集まっているような気がした。
「皆様に……見られているような気がします」
不安そうに呟くエルナは、思わずルシアンを見上げた。
「そうだな」
一瞬だけ周囲へ視線を巡らせると、ルシアンはすぐにエルナへ目を戻した。
今夜は、誰もがエルナに見惚れるだろう。
誇らしく思う反面、本当は誰の目にも触れさせたくなかった。
今すぐ宝箱へしまい込み、このまま邸へ連れて帰りたいくらいだ。
(……デビュタントの時も、こんな気持ちだったな)
いや、今夜はあの時以上だ。
白い結婚。婚約解消。公子の心変わり。
そんな数々の噂を打ち消したデビュタントを経て、エルナは今や誰もが認める次期公爵夫人となった。
それを知ってなお、彼女へ向けられる無数の視線。
あの頃は羨望の眼差しも少なくなかった。
だが今夜は違う。
とりわけ、エルナへ熱を帯びた眼差しを向ける若い男たちの存在が、どうにも気に入らなかった。
「エルナ」
「はい」
見上げてくる茶色の瞳を見つめ返し、ルシアンは静かに口を開く。
「視線など、気にすることはない」
不埒な輩は近づかせない。
「私が側にいる」
「……」
一瞬きょとんと目を瞬かせたエルナだったが、やがて柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
いつだって、ルシアンは優しい。
不安そうにしていれば気遣ってくれる。困っていれば、迷わず手を差し伸べてくれる。
その優しさを疑ったことは、一度もない。
だからこそ。
(違うのです……)
胸の奥で、小さく呟く。
欲しかったのは、その言葉ではない。
(いいえ……何を期待しているのでしょう)
自分を諭すように心の中で言い聞かせる。
空いたままの心の穴は埋まらなかったけれど、それ以上、この想いに振り回されるわけにはいかない。
エルナは静かに微笑み、音楽へ身を委ねた。
ダンスを終えた二人は、次の曲を踊る貴族たちと入れ替わるようにホールを後にした。
今夜は社交シーズン最後の舞踏会。
名残を惜しむように、次々と貴族たちがホールへ足を運んでいく。
「こちらへ」
人の流れを一目で見極めたルシアンが、そっとエルナを導く。
誰かにドレスの裾を踏まれないように。肩がぶつからないように。
絶えず周囲へ気を配りながら、人混みの少ない場所へとエスコートした。
ホールを離れた途端、その様子を見ていた令嬢や夫人たちが次々とエルナへ歩み寄る。
「今日のエルナ様、とても素敵ですわ」
「そのドレスはどちらでお仕立てになったのです?」
「最初はエルナ様だと気付きませんでしたわ」
次々に掛けられる称賛の言葉に、エルナは一瞬戸惑ったように目を瞬かせる。
だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、一人ひとりと言葉を交わし始めた。
その間も、ルシアンは一歩たりともエルナの側を離れない。
近づいてくる令息や当主とは適度に言葉を交わしながらも、その意識は常にエルナへ向けられていた。
ダンスへ誘おうと近付いてきた令息には、静かな視線だけで思い留まらせる。
ルシアンへ話しかけながら、横目でエルナを見つめる男がいれば、さりげなく立ち位置を変え、その視線を遮った。
やがて給仕が飲み物を載せた盆を運んでくると、ルシアンは声を掛けて呼び止める。
果実水のグラスを一つ取り、エルナへ差し出した。
「話していてばかりだろう。少し飲むといい」
「ありがとうございます」
エルナが喉を潤し、空になったグラスを手にしたままでいると、今度はその細い指へルシアンの手が伸びた。
「給仕に渡しておく」
「自分でできますわ」
「任せてくれ」
そう言って、ごく自然な仕草でグラスを受け取り、給仕へ手渡す。
その一連の流れるような気遣いに、その場にいた令嬢や夫人たちは思わず羨望の眼差しを向けていた。
「側にいる」
その言葉どおり、ルシアンはエルナの側を離れなかった。
けれど今のエルナにとっては、その優しさがかえって胸を揺さぶり、少しだけ苦しかった。
「あの……ルシアン様」
遠慮がちに声を掛けると、ルシアンが静かに視線を向ける。
エルナは少し目を伏せ、小さく口を開いた。
「お側にいてくださるのは心強いのですが、女性同士だけのお話というのもあるのです……」
これ以上、余計なことを考えてしまいそうだった。
少しだけ距離を置けば、この胸のざわめきも落ち着くだろう。
申し訳なさそうなエルナを見つめ、ルシアンは静かに頷く。
「すまなかった。少し向こうにいるから、何かあったらすぐに呼ぶんだ」
「ありがとうございます」
エルナから少し距離を置いたルシアンは、ほどなくして令息や当主たちに呼び止められた。
そこへ顔見知りの令嬢や夫人も加わり、穏やかな笑みを交わしながら言葉を交わしている。
(また、ですわ……)
自分から離れてほしいと頼んだのだ。
こんなことを思う資格などない。
それでも、女性たちに囲まれるルシアンの姿を見ているのは苦しかった。
(皆様にも、あんなふうに……)
胸の奥がちくりと痛む。
エルナはそっと視線を伏せ、小さく息をつくと、ルシアンへ背を向けた。
ルシアンが貴族たちと歓談していると、エルナの側を離れたことに気づいたレオンハルトとジークが歩み寄ってきた。
王太子の険しい表情を目にした貴族たちは、何かを察したように静かに距離を置く。
気づけば、その場には三人だけが残っていた。
「ルシアン、お前――エルナ嬢に何をした?」
周囲へ聞こえぬよう声は抑えられている。
だが、その問いは尋問とも叱責とも取れる鋭さを帯びていた。
当のルシアンは、不思議そうに首を傾げる。
「何もしていないが?」
「何もしていないわけがあるか!」
レオンハルトは思わず声を荒げかけ、慌てて音量を抑えた。
「リゼとシャールから、あのドレスの話は聞いているぞ」
あれほど恥ずかしいと頑なに袖を通そうとしなかったドレスだ。
そのエルナが、一年越しに自ら身にまとって舞踏会へ現れた。
何もなかったはずがない。
罪悪感のある者なら、その剣幕だけでたじろいでしまうだろう。
しかし、ルシアンは少しも動じる様子を見せなかった。
「逆に、何もしていないからこそ……という可能性もあるのではありませんか?」
「そうなのか?」
ジークの言葉に、レオンハルトは再びルシアンへ詰め寄った。
「あの後からは、エルナとの時間を作って、よく散歩や外出もした。……気持ちも伝えているぞ」
「本当だろうな?」
疑いの眼差しを向けるレオンハルトに、ルシアンは迷いなく頷く。
「ああ」
「ちなみに、どのように?」
試すように問うジークへ、ルシアンはつい先ほどの出来事を思い返した。
「視線が気になると言うから、『私が側にいる』と言った」
「……それは、あくまで今のお話ですよね?」
「たしかに」
ジークの指摘に頷き、ルシアンはさらに記憶を辿る。
「……最近は、外出するときによくめかし込んでいるな。そういう時期なんじゃないのか?」
自分のため、という発想は毛頭ない。
乙女心というものは、どうにも理解が及ばなかった。
「……駄目ですね」
ジークは小さく額へ手を当てた。
「その手の話は、俺たちでは埒が明かんな」
レオンハルトも深く肩を落とす。
三人の視線の先では、エルナが穏やかな笑みを浮かべ、多くの令嬢や夫人たちと歓談していた。
「……今日は、エルナ嬢の周りが一番人が多いかもしれないな」
「まるで別人のようですからね」
「ああ。綺麗だろう」
「…………」
レオンハルトとジークは、ゆっくりと顔を見合わせた。
(今、何と言った?)
あのルシアンが。
婚約者を。
しかも、自分たちの前で。
綺麗だと認めた。
あまりの衝撃に、二人はそれ以上追及する気力を失う。
――ルシアンは、エルナを美しいと思っている。
その事実だけで十分だった。
その想いを本人へ伝えたのか。
そこまで考えが及ぶことはなかった。
レオンハルトとジークが去り、ルシアンはエルナのもとへ戻ろうと足を向けた。
その時だった。
ふと視線の先に、一組の男女が映る。
傍目には、令嬢と令息が談笑しているようにしか見えない。
しかし、壁を背にした令嬢の表情はどこか硬く、行き場を失ったように視線を泳がせていた。
対する令息は、さりげなく逃げ道を塞ぐように令嬢の前へ立っている。
(……アーヴェル伯爵の姪の男爵令嬢か)
今年デビュタントを迎えたばかりの令嬢だったはずだ。
まだ婚約者も決まっていない。
相手は、放蕩で名の知れた侯爵家三男。
家格だけを見ても、男爵令嬢では分が悪い。
そして、そのことを相手も十分承知しているのだろう。
見つけてしまった以上、見過ごすわけにはいかなかった。
柱と豪奢な花飾りの陰になっているせいで、角度によっては二人の様子に気付かない者も少なくない。
ルシアンが歩み寄ると、その姿に気付いた令嬢が、縋るような眼差しを向けてきた。
「――失礼。アーヴェル伯爵夫人がレディを探しておられます」
「どこの……っ、公子様!?」
ルシアンの姿を認めた令息は、慌てて姿勢を正した。
その一瞬の隙に、令嬢はさっとルシアンの隣へ移る。
「レディをお借りします」
有無を言わせぬ穏やかな口調で告げると、そのまま令嬢を伴って場を離れた。
人目の多い場所まで移動したところで、令嬢は深々と頭を下げる。
「公子様、ありがとうございました」
「王宮の舞踏会といえども、死角はあるものです。どうぞ、お気をつけください」
「はい、そのようにいたしますわ」
安堵したように微笑んだ令嬢は、ふと遠くで歓談するエルナへ目を向けた。
「公子様が婚約者様だなんて、エルナ様がお幸せなのも頷けますわ」
にこりと微笑み、続ける。
「エルナ様も今日は一段とお綺麗で、本当にお似合いですわね」
裏表のないその賛辞に、ルシアンは思わず目を細めた。
「レディにも、素敵な出会いがあることでしょう」
「今年は散々でしたわ」
自分の見る目のなさを思い返したのか、令嬢は肩を落として苦笑する。
「殿方のことは、クレア嬢に尋ねなかったのですか。色々と教えてくれたでしょう」
彼女の観察眼と情報網は、王都でも屈指だ。
あの眼鏡の奥で、社交界の噂はほとんど把握している。
「今年は一人で頑張ってみたかったのです。来年は大人しく、クレア様に相談いたしますわ」
肩をすくめる令嬢に、ルシアンも小さく頷いた。
その後も二言三言言葉を交わし、令嬢は改めて礼を述べると、人混みの中へ去っていく。
これでようやく、エルナのもとへ戻れそうだった。
ルシアンがレオンハルトとジークと話をしている頃、彼がその場を離れたのを見計らったように、オリヴィアとクレアがエルナのもとへ歩み寄ってきた。
「ついに、そのドレスを着ようと思える日が来ましたのね」
感慨深げに微笑むオリヴィアの隣で、クレアも静かに頷く。
「私たちが仕立てた頃よりも、公爵家の未来の女主人に相応しくなられました。さすがは公爵夫人のご指導です」
「オリヴィア様、クレア様……」
気心の知れた友人たちの姿に、エルナはふっと表情を和らげた。
「本当によくお似合いですわ」
「私たちの見立ては、間違っておりませんでしたね」
「でも、やっぱり恥ずかしいですわ……」
頬を染めて俯くエルナに、二人は顔を見合わせ、くすりと笑う。
「以前は『絶対に着られませんわ』と仰っていましたものね」
「ええ……。やっと着られるようになりましたわ」
照れくさそうに微笑むエルナへ、オリヴィアは優しく目を細めた。
「でも、お似合いになると信じておりましたもの。ようやくそのお姿を拝見できて、嬉しいですわ」
「去年とは、まるで別人です」
クレアが淡々と告げる。
「そんなに変わりましたか?」
「ええ。装いだけではございません」
「堂々としていらっしゃいますもの」
その言葉に、エルナは少しだけ照れたように笑った。
「お二人や、公爵夫人のおかげですわ」
「それにしても」
ふと思い出したように、オリヴィアが笑みを深める。
「今日はルシアン様が、一歩たりともエルナ様のお側を離れませんでしたわね」
「男性方が近づく隙もございませんでした」
クレアもさらりと続ける。
「そう……なのでしょうか?」
きょとんと首を傾げるエルナに、二人は思わず吹き出した。
「ご本人はお気付きではないのですね」
「公子様は終始、周囲を警戒しておられました」
「殿方が視線を向ければ、その前に公子様が立ってしまわれますもの」
「果物水まで運んでくださいましたし」
「空になった杯も、すぐに下げていらっしゃいました」
「そんな……」
エルナは思い返すように目を瞬かせる。
言われてみれば、確かにそうだった気がした。
「今日は公子様のほうが、落ち着かないご様子でした」
クレアの一言に、オリヴィアもくすくすと笑う。
「本当に、大切にされておりますのね」
そう言われると、エルナはますます恥ずかしくなり、耳まで赤く染めた。
「もう、お二人とも……」
その初々しい反応に、オリヴィアとクレアは再び顔を見合わせて笑う。
「では、わたくしたちはそろそろ失礼いたします」
「また後ほど、お話しいたしましょう」
「はい。本日はありがとうございました」
二人を見送りながら、エルナは自然と笑みを浮かべていた。
心が少しだけ軽くなった気がして、自然と視線がルシアンを探す。
少し向こうにいると言って離れ、その後はレオンハルトやジークと話をしていたのは見えていた。
けれど、いつの間にかその姿が見当たらない。
(どちらへ行かれたのでしょうか……)
人混みの向こうへそっと視線を巡らせる。
その時だった。
(あ……)
少し離れた場所で、ルシアンが一人の男爵令嬢と向き合っていた。
穏やかな表情で言葉を交わし、令嬢も安心したように微笑んでいる。
二人は何を話しているのだろう。
その光景が目に入った瞬間、胸の奥に灯っていた温かなものが、すうっと冷めていくのを感じた。
(また、ですわ……)
オリヴィアたちは「ルシアンは一歩も側を離れなかった」と笑っていた。
あれは、視線が気になると言った自分を気遣ってくださっただけ。
あの方なら、誰が相手でも同じようになさるのだろう。
離れても構わないと口にしたのも、自分だった。
大切にされていることは分かっている。
守られていることも。
けれど――。
その優しさは、決して自分だけに向けられるものではない。
困っている人がいれば手を差し伸べ、誰にでも穏やかに接する。
ルシアンとは、そういう人なのだ。
胸の奥へ小さくため息を押し込め、エルナは静かに視線を伏せた。
その時、こちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
顔を上げると、ルシアンがいつもの穏やかな表情で近づいてくるところだった。
(いやです……)
何に対してそう思ったのか、自分でも分からない。
自分に対してなのか。
ルシアンに対してなのか。
それとも、あの男爵令嬢に対してなのか。
来なくていいのに。
今は、優しくしないでほしい。
いっそのこと、婚約者だからという理由だけで接してくだされば、どれほど楽だっただろう。
エルナを見つめたルシアンは、心配そうに眉をひそめた。
「少し休みに行くか?」
「大丈夫ですわ」
――ほら、まただ。
「ドレスは重くないか?」
「平気ですわ」
「靴は痛くないか?」
「履き慣れておりますもの」
なおも気遣うような眼差しが、まっすぐ自分へ向けられる。
「私、そんなにひどい顔をしていますか?」
表情には出さないよう努めていた。
それでも隠し切れていなかったのだろうか。
不安そうに尋ねるエルナへ、ルシアンは静かに首を振る。
「顔には出ていない。ただ、疲れているように見えた」
「…………」
まったく、この人は。
「ルシアン様は心配しすぎです。体調管理くらい、自分でできます」
「ならいいのだが」
その一言にも、偽りのない安堵が滲んでいる。
だからこそ、苦しかった。
もうすぐ夜会が終わってしまう。
この想いを、どうすればよいのか。
エルナには、もう分からなかった。
「そろそろ最後の曲です」
楽団の演奏が静かに止み、指揮者の声が広間へ響き渡る。
夜会も、いよいよ終わりを迎えようとしていた。
「私たちも」
ルシアンが穏やかに手を差し出す。
「はい」
エルナは小さく微笑み、その手へそっと自分の手を重ねた。
この一曲が終われば、次に共に踊るのは、また来年の春。
社交シーズンの締めくくりを飾る最後のダンスを求め、多くの貴族たちが広間の中央へと歩み始める。
ルシアンは人波からエルナを守るように、半歩前を歩いた。
長いドレスの裾を踏まれぬよう歩幅を合わせ、人とすれ違うたびにさりげなく肩を寄せる。
その仕草は、今日一日と何ひとつ変わらない。
「こちらだ」
自然に導かれるまま、エルナも歩みを進める。
やがて二人は踊りの輪へ加わり、広間いっぱいに軽やかな三拍子が流れ始めた。
社交シーズンの終わりを惜しみながらも、来年の再会を祝福するような、明るく華やかな最後のワルツだった。
もうやめよう、と心の中の自分が叫んでいる。
それでもエルナは笑みを絶やすことなく、軽やかな旋律に身を委ねた。
どれほど心が乱れていても、ルシアンとのダンスが乱れることはない。
幾度となく重ねてきた歩みは、今や身体が覚えていた。
視線が合うたび、ルシアンは穏やかに目を細める。
「最後だな」
「そうですわね」
「今季はよく頑張ったな」
「……ありがとうございます」
その優しさは、少しも変わらない。
だからこそ、胸が苦しかった。
(物語のようには、いかないものですね……)
小説の中なら。
ここで彼は、きっと言ってくれる。
「綺麗だ」と。
けれど、現実は物語ではない。
そんな都合よく、言葉は紡がれない。
(最後くらい……)
その時だった。
「エルナ」
不意に名を呼ばれ、エルナははっと顔を上げる。
「はい、ルシアン様」
胸が高鳴る。
もしかしたら。
最後だから。
今なら。
そんな期待が、抑えきれず膨らんでいく。
ルシアンは満足そうに目を細め、静かに口を開いた。
「さすがは、私の婚約者だ」
「……っ」
いつもだったら、その一言だけで胸がいっぱいになっていただろう。
婚約者と認められることが、何より嬉しかった。
けれど、今夜だけは違った。
その言葉が、胸の奥にひびを入れる。
彼が見ているのは、婚約者としての自分。
それ以上ではないのだと、突きつけられた気がした。
砕けそうな心を必死に繕い、エルナは微笑みを崩さない。
もう、それ以上言葉を返すことはできなかった。
軽快なワルツは終盤へと向かい、祝福するような旋律が広間を満たしていく。
やがて最後の一音が響き渡り、二人は静かに一礼した。
華やかな拍手が沸き起こる。
こうして、王宮舞踏会は幕を閉じた。




