王都編2-26 舞踏会の前に
翌日の午後。
王宮舞踏会の支度を始めようとした頃、エルナの部屋へ一つの大きな箱が運び込まれた。
中には、仕立て直されたドレスと、公爵夫人から託された紺色のショール。
公爵邸の針子たちが刻限ぎりぎりまで針を動かし、エルナのために仕上げてくれた一着だった。
そっとドレスを広げた瞬間、エルナは息を呑む。
「……あ……」
去年、皆で仕立てた大人びたドレスは、その面影を残したまま、さらに気高く、美しく生まれ変わっていた。
胸元や腕を彩る繊細な意匠はそのままに、公爵家を象徴する金糸がさりげなくあしらわれ、全体へ清廉な気品が添えられている。
まるで、最初からこの姿になることを待っていたかのようだった。
公爵夫人から託された薄手の紺色のショールにも、鳳凰と月桂樹の刺繍が金糸で丁寧に施されている。
その一枚を羽織るだけで、公爵家の女性としての品格が静かに寄り添ってくれるようだった。
「なんて……素晴らしいのでしょう」
思わず漏れた声は、感嘆とも感謝ともつかない震えを帯びていた。
たった一日で、ここまで変わるなんて。まるで魔法を見ているようだった。
だが、この一着を生み出したのは魔法ではない。
エリーゼたちの想い。公爵夫人の願い。
そして、公爵邸の針子たちが一針一針に込めてくれた心だった。
「お嬢様」
静かにソフィーが声を掛ける。
「心の準備は、できそうですか?」
エルナはもう一度ドレスを見つめ、小さく息を吸った。
胸はまだ少しだけ高鳴っている。恥ずかしさも、消えたわけではない。
それでも、このドレスを着たい。
皆の想いを纏い、ルシアンの前へ立ちたい。
「……はい」
その返事は、昨日よりもずっと力強かった。
「ソフィー、お願いします」
「お嬢様のお望みのままに」
恭しく一礼したソフィーが、静かにドレスへ手を伸ばした。
ドレスを纏ったエルナは、鏡台の前へ静かに腰を下ろした。
いつもの夜会であれば、栗毛はゆるやかに下ろしている。
けれど今日は違う。
ソフィーはふんわりと波打つ栗毛を一房ずつ丁寧に掬い上げ、細い指先で編み込みながら、少しずつ結い上げていく。
毛先が乱れぬように。どれほど舞踏会で踊っても崩れぬように。
そして――大切な主人の願いが、どうか叶いますように。
そんな祈りを、一編みごとに込めながら。
「お嬢様、お加減はいかがですか。痛むところはございませんか?」
「大丈夫です」
肩も、胸元も、背中も。慣れないほど布地が少なく、落ち着かない。
それでも髪が少しずつ引き上げられるたび、不思議と背筋まで伸びていく。
鏡へ映る自分は、一房編み込まれるたびに少しずつ変わっていった。
昨日までの辺境伯令嬢ではなく。
今日、この舞踏会へ向かう一人の淑女へ。
最後に髪飾りを留めると、ソフィーは満足そうに微笑み、一歩後ろへ下がった。
「お嬢様、お支度が整いました」
その声に促され、エルナはゆっくりと立ち上がる。
そして姿見の前へ向き直った瞬間、思わず息を呑み、目を見開いた。
「……これが、本当に私ですか?」
思わず漏れた声は、驚きとも戸惑いともつかない小さな吐息だった。
鏡の中に立っていたのは、見慣れた辺境伯令嬢ではない。
ふんわりと肩へ流れていた栗毛は美しく結い上げられ、細く編み込まれた髪は後頭部で幾重にも重なり、一輪の花のように咲いている。
その合間に散りばめられた青い宝石が、灯りを受けて夜空の星のように瞬いた。
露わになった首筋は驚くほど細く、長く。
耳元で揺れる青い耳飾りが、その横顔へ静かな気品を添えている。
胸元には、ルシアンの瞳を思わせる蒼い宝石。首元へ寄り添うように咲くそれは、呼吸をするたび小さく揺れ、夜空へ散る星屑のような光を返した。
思わず、自分の胸へ手を添える。
白い絹の手袋に包まれた指先が、そっと宝石へ触れた。
それだけの仕草さえ、いつもの自分とは違って見える。
視線はゆっくりとドレスへ落ちた。
紺色の上着は身体へ優しく沿い、金糸の刺繍が鳳凰の翼のように広がっている。
肩から掛けられた薄手のショールは軽やかに揺れ、公爵夫人が言っていたとおり、公爵家の女性としての品格を静かに纏わせてくれていた。
そして深緑のスカート。
夜の森を思わせるその色の上には、銀糸で縫い上げられた針葉樹。その間を悠然と歩む銀狼。
辺境伯家の誇りが、美しい刺繍となって裾いっぱいへ息づいている。
歩けば金糸が光を受け、まるで星明かりが森へ降り注いでいるようだった。
「……綺麗……」
それが誰への言葉なのか、自分でも分からない。
シャルロットが可愛いと言って笑ったレース。オリヴィアが整えた気品。クレアが考え抜いた動きやすさ。エリーゼが選んだ二つの家を繋ぐ色彩。
公爵夫人と針子たちが、一晩で縫い込んでくれた公爵家の誇り。
そして、自分だけが密かに忍ばせた、ルシアンの瞳と同じ青。
皆の想いが、一つも欠けることなくそこにあった。
装い一つで、ここまで変われるのだろうか。
髪を結い上げるだけで、これほど大人になれるのだろうか。
鏡の中の女性は、自分の顔をしている。
それなのに、まるで別人だった。
「私なのですね……」
震える声で呟く。
けれど鏡の中の女性は、もう辺境伯令嬢の少女ではない。
未来の公爵夫人として、そして一人の女性として、大切な人の前へ歩き出そうとしているエルナだった。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
誇らしげに目を細めるソフィーへ、エルナはゆっくりと振り返った。
胸の奥が、温かさで満ちていく。
「ソフィーは……最高の侍女です」
「ありがとうございます」
嬉しそうに微笑むソフィーへ、エルナも小さく笑みを返した。
そしてもう一度、姿見へ視線を向ける。
鏡の中には、紺と深緑を纏った一人の淑女が立っていた。
(……本当に、私なのですね)
昨日までの自分とは、どこか違う。
装いだけではない。覚悟を決めた、その心が違っていた。
もう、後戻りはできない。それでいい。
ルシアンは、もう「お兄様」ではない。
幼い頃から寄り添い、笑い合い、守られてきた日々。
胸が苦しくなるほど大切な思い出は、何一つ失われるわけではない。
それでも、「お兄様」と呼んでいた少女の自分は、今日で終わりにしよう。
その思い出をそっと宝箱へしまい込み、エルナは静かに蓋を閉じた。
これから向かう先にいるのは、兄ではない。愛する人だ。
エルナは姿見へ最後に一度だけ微笑みかけると、迷いなく背を向けた。
「ソフィー、参りましょう」
「はい、お嬢様」
静かに扉が開かれる。
きっと、その先ではルシアンが待っている。
◇ ◇ ◇
いつものようにエルナの部屋の前で待っていたルシアンは、扉が開く音に本から顔を上げた。
そして――
息をすることさえ忘れた。
(……エルナ、なのか)
部屋から姿を現したのは、紛れもなくエルナだった。
それなのに、ルシアンの知るどのエルナとも違う。
ふんわりと肩へ流れていた栗毛は、一輪の花のように美しく結い上げられ、細く白い首筋を惜しげもなくさらしている。
薄く紅を差した唇。頬へ宿る淡い朱真っ直ぐこちらを見つめる茶色の瞳。
視線が合っただけで、鼓動が一つ大きく跳ねた。
やがて視線は、その装いへ吸い寄せられる。
深い紺と深緑が織りなすドレス。大胆に開いた肩と胸元は、決して下品ではない。
むしろ、その気高さゆえに、容易く触れてはならないもののようだった。
金糸と銀糸が灯りを受けてきらめく。
鳳凰。 月桂樹。針葉樹。銀狼。
一針一針想いが縫い込まれたようなその装いから、目が離せない。
薄く羽織った紺色のショールが揺れるたび、公爵家の気品が静かに漂った。
そして。
結い上げた髪の隙間から覗く首筋へ、蒼い宝石が光を落とす。
(…………)
美しい。そんな言葉では足りない。
(月の湖に棲む精霊か――)
ふと浮かんだ考えに、自分で呆れて首を振る。
そんなものがいるはずもない。いるのは、エルナだけだ。
「ルシアン様?」
呼ばれて、ようやく意識が現実へ戻る。ルシアンは慌てて本を侍従へ預けた。
胸の奥では心臓が煩いほど鳴っている。
何か言わなければ綺麗だと。
その一言だけでいい。
そう思うのに。
喉までせり上がった言葉は、最後まで形にならなかった。
代わりに伸ばしたのは、いつもと同じ左腕。
「行こうか」
「……はい」
エルナは一瞬だけ何かを待つような表情を浮かべた。
けれど、すぐに小さく微笑み、遠慮がちにその腕へ手を添える。
ルシアンは、その意味に最後まで気付かなかった。
◇ ◇ ◇
王宮へ向かう馬車は、すでに邸の正門前で待機していた。
エントランスでは、公爵夫妻が二人を待っている。
ルシアンの手を取り、ゆっくりと階段を降りてきたエルナの姿を見て、公爵夫妻は揃って目を細めた。
「まあ……」
公爵夫人は思わず息を漏らす。
昨日まで屋敷で見慣れていた少女とは思えない。
気高く、美しく。
公爵家の名を背負うに相応しい淑女が、そこに立っていた。
「とてもよく似合っていますよ、エルナ」
「ありがとうございます、奥様」
エルナは柔らかく微笑み、一礼する。
その笑顔を見て、公爵夫人の胸はじんわりと熱くなった。
結婚式でもない。
今日、公爵家へ嫁ぐ日でもない。
それなのに、どうしてこんなにも胸がいっぱいになるのだろう。
(本当に……綺麗になりましたね)
嬉しい。誇らしい。
けれど――
その笑顔の奥に、ほんの少しだけ翳りが滲んでいることを、公爵夫人は見逃さなかった。
一方、ルシアンはエルナから一瞬たりとも視線を逸らせずにいた。
公爵が何やら声を掛けている。
「今日は若い貴族も多い。余計な輩を近づけるな――」
「……はい」
返事はした。
だが、何を言われたのかまでは覚えていない。
耳には届いているはずなのに、その意味は頭へ入ってこなかった。
視界に映るのは、エルナだけ。
それでも本人は努めて平静を装う。
「そろそろ、出発した方がよろしいのではないでしょうか」
いつもと変わらぬ声音。いつもと変わらぬ表情。
その様子を見届け、公爵夫妻は先に馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まると、公爵夫人は小さくため息をつく。
「あの二人……本当に大丈夫でしょうか」
ルシアンへ一言、釘を刺すべきだったか。
せめて――
「エルナを褒めたのか?」
そう尋ねるくらいは、してもよかったのではないか。
そんな夫人の迷いを察したように、公爵は苦笑して首を横へ振る。
「やめておけ」
「ですが……」
「あれは、あいつ自身が越えなければならん壁だ」
公爵は窓の外でエルナをエスコートする息子へ目を向け、小さく笑った。
「もっとも、当人は壁があることにすら気付いていないようだが」
公爵夫人は思わず肩を落とす。
「……本当に、誰に似たのでしょうね」
「私ではないな」
その言葉に、公爵夫人は思わず吹き出した。
「ふふっ……そういうことにしておきましょう」
夫婦は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
◇ ◇ ◇
王宮舞踏会とあって、御者も正装に身を包み、オスカーが手綱を握っていた。
「今日もよろしくお願いします」
「お任せください」
エルナが馬車へ乗り込むと、ルシアンもいつものように隣へ腰を下ろす。
馬車が静かに動き始めると同時に、胸の奥へじわりと失意が広がっていった。
(せっかく皆様がお力を貸してくださいましたのに……何も仰ってくださらないなんて……)
エリーゼも、シャルロットも。オリヴィアも、クレアも。公爵夫人も、ソフィーも。
そして一晩かけて仕立て直してくれた針子たちも。
皆の想いが詰まったこの一着を、勇気を振り絞って身に纏った。
なのに――。
ルシアンへ見せた今、本当はすぐにでも脱いでしまいたいと思っている自分がいた。
ソフィーは「お綺麗です」と言ってくれた。
公爵夫人も「とてもよく似合っています」と微笑んでくれた。
二人の言葉がお世辞ではないことくらい、エルナにも分かっている。
それでも、どうしてルシアンは、何も言ってくれないのだろう。
(お好みでは……なかったのでしょうか)
自分が仕立てたドレスではないからといって、機嫌を損ねるような人ではない。
では、肩や胸元を見せるなど、淑女らしくないと呆れられてしまったのだろうか。
「エルナ」
「はい!」
不意に名を呼ばれ、エルナは肩を震わせる。
隣では、ルシアンが心配そうにこちらを見つめていた。
「寒くはないか?」
「……大丈夫ですわ」
その視線が胸元や肩へ向くたび、落ち着かない。
そんなに見ないでほしい。
そう思う反面、見てくれていることが嬉しい自分もいて、余計に胸が苦しくなる。
「じきに気温も下がる。無理はするな」
「ありがとうございます」
いつもと変わらない穏やかな声音。怒っているわけではない。
むしろ、気遣ってくれているのだと分かる。
だからこそ、その優しさが今は少しだけ恨めしかった。
(ルシアン様は……何を考えていらっしゃるのでしょう)
答えの出ないまま、馬車は王宮へと近づいていく。
公爵邸から王宮までは、ほんのわずかな距離だった。
窓の向こうに壮麗な王宮の城壁が見えた瞬間、エルナは小さく息を吸う。
胸を満たしていた翳りを、そっと奥へ押し込めた。
(まずは舞踏会です)
ルシアンの婚約者として。未来の公爵夫人として。
いっときの感情に振り回され、醜態を晒すわけにはいかない。
(あとのことは……それから考えましょう)
エルナは静かに背筋を伸ばし、王宮へ向かう覚悟を新たにした。




