王都編2-25 前夜
ついに明日は、社交シーズンの締めくくりとなる王宮舞踏会の日だった。
後日、エリーゼから「最後にお茶会を開きましょう」と招待状が届いているものの、それ以外に茶会や夜会の予定はもうない。
つまり、ルシアンの婚約者として装う機会は、明日の舞踏会が実質最後だった。
結局、どれほどソフィーや侍女たちと相談し、流行を取り入れた装いをしても、求めていた言葉は一度も聞けなかった。
窓辺へ歩み寄ったエルナは、茜色に染まる空の向こう、夕日に照らされた王宮を静かに見つめる。
(ルシアン様にとって、私はただの婚約者でしかないのでしょうか……)
幼い頃から共に過ごしてきた、妹のような存在。
きっと、ルシアンもそう思っているのだろう。
自分だって、つい最近まで兄のように慕っていたのだ。
ルシアンが同じように思うのも、不思議なことではない。
けれど――。
もう、その理屈だけで自分の想いを押さえ込めるほど、エルナの恋心は幼いものではなくなっていた。
「お嬢様、明日の舞踏会のお召し物はいかがなさいますか?」
ソフィーの問いかけに、エルナは小さく表情を曇らせた。
二人は衣装部屋へ移り、夜会用の衣装箪笥を開く。
今ではその中に並ぶのは、公爵家の色である紺と金を基調としたドレスばかりだった。
どれもルシアンが贈ってくれた、大切な一着。
けれど、どのドレスを身にまとっても、ルシアンは穏やかに微笑み、「いい組み合わせだ」「よく考えられている」と頷くだけだった。
どうすれば、あの人は一人の女性として見てくれるのだろう。
(やはり、もっと大人びた女性がお好みなのでしょうか……)
ルシアンが贈ってくれたドレスを着るだけでは、欲しかった言葉はきっと届かない。
そんな気がしていた。
エルナの手が、一着のドレスの前で止まる。
公爵家の紺を基調に、辺境伯家を思わせる深緑をあしらったドレス。
胸元と肩は大きく開き、そっと持ち上げて背へ返すと、背中も大胆に開いた仕立てになっていることに改めて気づく。
「……っ」
頬が熱を帯び、思わず胸元へ抱き寄せた。
(これを……私が……?)
あの日。
オリヴィアの装いに憧れ、思わず「――オリヴィア様のドレスが素敵だと思いますわ」と口にしてしまった。
するとシャルロットが「――でしたら、作りましょう!!」と笑い、エリーゼやオリヴィア、クレアまでが手伝ってくれた。
完成したドレスを前に、恥ずかしくて着られないと俯いた自分へ、誰一人困った顔はしなかった。
「いつか、着ようと思える日が来ますわ」
そう笑って送り出してくれたのだ。
社交シーズンも、いよいよ明日の王宮舞踏会で終わる。
その準備に追われ、エリーゼがお茶会を開くことはなかった。
シャルロットやオリヴィア、クレアとも、ゆっくり私的な話をする機会はなかった。
きっと皆、この姿を見たら驚くに違いない。
もちろん、ルシアンも。
結局仕立てた後、恥ずかしくて、このドレスをルシアンへ見せたことは一度もなかった。
エルナは大切そうにドレスを見つめ、小さく息をついた。
(これを着れば……私を見てくださいますか……?)
ドレスを着たからといって、大人びいて見えるだけだろう。
美しくなれるわけではない。
綺麗とも、可愛いとも、言っていただけないかもしれない。
それでも――。
(せめて、似合っているくらいは、言ってほしい……)
胸の奥で膨らみ続ける願いは、もう見ないふりをできるほど小さくはなかった。
エルナは大切そうにドレスの裾をそっと撫でる。
(せっかく皆様と一緒に仕立てたのですもの。一度くらいは、着てみてもよいですよね……)
そう自分へ言い聞かせても、不安は消えない。
このドレスは、公爵家の紺を基調にしながらも、辺境伯家の深緑や銀を多く取り入れた一着だった。
公爵家の婚約者として考えれば、もっと金糸を増やしたほうがよかったのではないか。
青みがかった装飾も、夜会では控えめすぎるのではないか。
次々と不安が浮かんでは消えていく。
唯一の救いは、エリーゼが公爵家でも着られるよう工夫してくれたことだった。
上着は公爵家を象徴する紺色に仕立てられ、前が開いたデザインから辺境伯家を思わせる深緑のスカートが覗く。
二つの家を自然に結ぶよう、細かなところまで考え抜かれている。
それでも。
(……こんな装いを、奥様はお許しくださるのでしょうか)
胸元も肩も大きく開いたこのドレスを見つめるたび、頬が熱くなる。
本当に、自分がこれを着るのだろうか。
期待よりも恥ずかしさのほうが、まだずっと大きかった。
一着のドレスの前から動けずにいるエルナを見て、ソフィーが静かに口を開く。
「そちらになさいますか?」
「そうしてみたい気持ちは、少しあるのですが……奥様は、どう思われるでしょう」
その声には、期待と迷いが入り混じっていた。
ソフィーは微笑み、小さく頷く。
「奥様へ、ご相談なさってみてはいかがでしょうか」
エルナもう一度、手元のドレスへ視線を落とした。
着てみたい。けれど、その想いだけで袖を通してよいものなのだろうか。
公爵家の婚約者として相応しい装いかどう、それを自分一人で決めるわけにはいかない。
それを確かめられるのは、ただ一人。
小さく息を吸い込み、エルナは静かに頷いた。
「奥様のもとへ参ります」
◇ ◇ ◇
私室で紅茶を口にしながら、公爵夫人は静かに今季の社交シーズンを振り返っていた。
エルナは、次期公爵夫人として期待以上の成長を見せた。
礼儀作法。社交術。公務への姿勢。
どれを取っても申し分なく、公爵家を背負う覚悟も十分に備わっている。
能力も、心構えも、もはや教えることは多くない。
ルシアンとの関係も同じだった。
互いを信頼し、支え合い、隣に立つことを当然のように受け入れている。
夫婦として見れば、何一つ不安はない。
ただ一つ――恋愛だけを除いては。
もう少し早く「お兄様』」と呼ぶのをやめさせていれば、何かが変わっていただろうか。
そんな考えが脳裏をよぎる。
だが、あの頃は二人ともまだ幼かった。
家族のように育った時間を、無理に断ち切ることが正しかったとも思えない。
公爵夫妻が密かに思い描いている予定では、エルナが公爵家へ嫁ぐのは、デビュタントから三年目の秋。
恋人になろうとならなかろうと、その頃には式を挙げるつもりでいた。
あの二人なら、夫婦として歩んでいける。その確信があったからだ。あとは、いつ本人たちへ切り出すか。それだけが残された問題だった。
だが最近になって、エルナに変化が見え始めた。
ルシアンとの外出や夜会では、以前にも増して装いに心を配るようになり、息子へ向ける眼差しにも、淡い恋心が滲み始めている。
ようやく、ここまで来たのだ。
だからこそ、公爵夫人は迷っていた。
予定どおり話を進めるべきか。それとも、もう少しだけ二人を見守るべきか。
明日の王宮舞踏会で、今季の社交シーズンは幕を閉じる。
結婚の話はひとまず胸にしまい、水面下で準備だけを進めるか。
あるいは冬になれば再び公爵領へエルナを招き、その頃の二人の様子を見極めるか。
答えは、まだ出ていなかった。
そのとき、扉の外から控えめなノックが響く。
「奥様。エルナ様がお見えです」
公爵夫人は小さく目を見開いた。
公爵家の夜会を終えてから、エルナが自らこの部屋を訪ねてくることはなかった。
まして明日は、王宮舞踏会。
(何かあったのね)
そう直感した公爵夫人は静かに紅茶を置き、「お通しして」と穏やかに告げた。
迷いと不安を抱えながらも、どこか覚悟を決めたような表情で、エルナは一着のドレスを抱えて公爵夫人の私室を訪れた。
夫人に促されるまま向かいのソファへ腰を下ろす。
温かな紅茶が運ばれ、優しい香りが部屋に満ちる。
その香りに少しだけ緊張が和らいだ頃、エルナは意を決して口を開いた。
「……奥様に、ご相談があって参りました」
「ええ、聞かせてちょうだい」
エルナは小さく頷き、ソフィーへ目配せをする。
静かに広げられたドレスを見て、公爵夫人はわずかに目を見開いた。
「ルシアンが贈ったものではありませんね」
本人に悪気はないのだろう。
息子がエルナへ贈るドレスは、どれも肩や胸元を控えめに覆った、淑女らしい意匠ばかりだった。
だからといって、エルナが一人でこのような大胆なドレスを仕立てるとも思えない。
「去年、エリーゼ殿下のお茶会で皆様にご相談して、一緒に仕立てていただいたものです。あの時は……恥ずかしくて、着ることができませんでした」
そう答えながらも、エルナの視線は自然とドレスへ落ちる。
今もなお、袖を通す勇気が湧いたわけではない。奥様へ相談に来たことが、本当に正しかったのか。その迷いさえ、まだ胸の奥に残っている。
それでも、何もしないまま後悔するのだけは嫌だった。
いつもどおりルシアンが贈ってくれたドレスを選び、そのまま明日の舞踏会を迎えてしまえば、きっとまた同じ後悔を繰り返す。
だからこそ、今ここへ来たのだ。
エルナは夫人をまっすぐ見つめる。
「明日の舞踏会で、このドレスを着ていくことは……可能でしょうか」
「――そういうことでしたか」
公爵夫人は穏やかに微笑み、静かに目を細めた。
エルナは、息子が用意する婚約者でいたいのではない。
息子に見てほしい、一人の女性になりたいのだ。
その想いを悟った公爵夫人は、ドレスへそっと手を伸ばした。
仕立てを確かめるように布地を撫で、胸元や肩の開き、刺繍の一つひとつまで丁寧に目を通していく。
胸元から腕に掛けられてあしらわれた繊細なレースは、大人びた意匠でありながら、どこか少女らしい愛らしさを残していた。
――これは、シャルロット殿下でしょうね。
あの王女らしい、華やかな遊び心が感じられる。
次に視線を落としたのは、深緑色のスカートへ大きく刺繍された辺境伯家の紋章だった。
辺境伯家の紋章を思わせる針葉樹。しなやかな針葉樹の間を歩む銀狼は、力強く、それでいて気高い。
ただ美しいだけでは終わらせない気品がある。
――オリヴィア嬢かしら。
さらに裾の広がりや切り替えを確かめる。
立った姿だけではない。歩く姿も、踊る姿も美しく映えるよう計算され尽くしている。
――こちらはクレア嬢ですね。
そして最後に、公爵夫人は紺色の上着と深緑色のスカートを静かに見比べた。
二つの色が互いを引き立て合い、公爵家と辺境伯家、どちらの品格も損なわず調和している。
生地の選び方も見事だった。
――全体をまとめたのは、エリーゼ殿下でしょう。
ふと、目に留まる。
紺と深緑の間へ、ひっそりと縫い込まれた青い刺繍。
ルシアンの瞳を思わせる、その澄んだ青。
思わず、公爵夫人の口元が緩む。
これは、エルナ自身の願いなのだろう。
昨年のエルナは、まだデビュタントを終えたばかり。
王太子妃も、王女も、侯爵令嬢も、伯爵令嬢も。皆で楽しみながら仕立てた一着だったに違いない。
それでも、この完成度。
さすがはエリーゼ殿下と、そのお茶会に集う令嬢たちである。
公爵夫人は静かに頷いた。
「少しだけ、公爵家を表す意匠と金糸が足りませんね」
そう口にしながらも、その声音に否定はなかった。
「ですが、全体としては十分によくできています」
伯爵家や侯爵家の夜会であれば、このままでも申し分ない。
王宮舞踏会となれば、あと一歩。
公爵家らしさを添えれば、次期公爵夫人にふさわしい礼装となる。
公爵夫人は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「邸の針子たちを総動員しましょう。明日の舞踏会までに、必ず仕上げます」
「奥様、針子の皆様を総動員するなんて……」
思わず目を見開く。
そんなことを、自分一人のために。
「明日の舞踏会が最後ですもの」
公爵夫人は穏やかに微笑んだ。
「あなたのためなら、今夜くらい針子たちも喜んで夜を明かしますよ」
公爵邸の使用人たちは皆、エルナを次期公爵夫人として心から認めていた。
身分に驕ることなく、誰に対しても敬意を忘れず、感謝の言葉を惜しまない。
失敗を責めるより先に気遣いの言葉を掛け、どんな小さな仕事にも目を向ける。
そんな主人に仕えたいと思うのは、ごく自然なことだった。
「邸の針子たちは、王都でも指折りの腕前です。きっと、最高の一着へ仕上げてくれます」
恥ずかしくて着ることができなかった――そうエルナは言っていた。
今もドレスを見つめる頬は、ほんのりと朱に染まっている。
明日、袖を通しても、その恥ずかしさが消えることはないのだろう。
それでも、その想いに勝る願いがあるからこそ、この部屋を訪ねてきた。
義娘のたっての願いを、叶えないわけにはいかない。
「それから明日は、私のショールをお貸ししましょう。薄手のものがありますから、このドレスをより美しく見せてくれるはずです」
「そんな……奥様の大切なショールを、お借りするなど……!」
目を見開き、慌てて首を横へ振るエルナを見て、公爵夫人は穏やかに微笑んだ。
「私のショールをお貸しする、と考える必要はありません」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「公爵家の女性が身に着けるショールを、あなたが纏う。それだけのことです」
その一言に、エルナは息を呑んだ。
「……よろしいのですか?」
震えるような声で問いかける。
「もちろんです」
迷いなく頷く公爵夫人を見つめ、エルナは何度も瞳を瞬かせた。
「本当に……?」
「ええ」
公爵夫人はそっとエルナの手を包み込む。
「あなたはもう、公爵家の大切な娘なのですから」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「ありがとうございます……っ」
声になりきらない感謝を零しながら、エルナは強く頷いた。
ルシアンが、このドレス姿を見て何を思うのかは分からない。
それでも、公爵夫人の想いも、針子たちが込めてくれる心も、決して無駄にはしたくなかった。
どれほど恥ずかしくても、このドレスを纏い、胸を張って舞踏会へ向かおう。
エルナは静かに、そう心へ誓った。




