王都編2-24 二人の外出
数日後。
ルシアンは執務を終えると、エルナのもとを訪れた。
「王都に新しくできた菓子店を知っているか」
「はい。最近よく話題になっていますわ」
「明日の午後の予約が取れたんだ。よければ一緒に行かないか」
「行きたいです……!」
思わず声が弾む。
以前から評判は耳にしていたものの、人気店ゆえ予約が取れないと噂されていた。
一度は行ってみたいと思っていたが、ルシアンの予定も分からず、自分から誘うことはできずにいたのだ。
「前々から気になっていたので、とても嬉しいです。……ですが、よく明日の午後の予約が取れましたね」
「店主に掛け合ったら、ちょうど空きが出たらしい」
「そうだったのですね」
穏やかに答えるルシアンを見つめながら、エルナは胸の内でそっと微笑む。
今回も、忙しい執務の合間に時間を作ってくれたのだろうか。
そう思うだけで、胸がふわりと温かくなった。
明日は、ルシアンと二人で菓子店へ。
その約束を思い浮かべるだけで、自然と頬が緩んでしまうのだった。
私室へ戻ったエルナは、さっそく衣装部屋へ向かった。
(ルシアン様と二人で、お菓子屋さん……)
考えるだけで胸がふわりと浮き立つ。
ルシアンのことだ。評判だから一度訪ねてみたい――せっかくだから婚約者も連れて行こう。その程度の理由なのかもしれない。
けれど、今のエルナにとっては、そんなことは些細な問題だった。
(これは……デートということでよろしいのでないでしょうか?)
ルシアンと二人きりで外出するのは、白鳥湖へ散歩に出かけた日以来だった。
あのときは、ただ散歩をしただけだと思っていた。
けれど今になって思えば、あれもデートだったのではないだろうか。
(何を着ていきましょう)
エルナは外出用のドレスが並ぶ衣装箪笥を開く。
空色、水色、浅葱色、淡い若草色、薄黄色、淡い蜜柑色。
どれもルシアンが贈ってくれた、大切なドレスばかりだった。
「明日はルシアン様とお二人ですし、少しいつもと雰囲気を変えても素敵かもしれませんよ」
そう言って、ソフィーは隣の夜会用の衣装箪笥を開いた。
「夜会用でも、比較的軽やかなお召し物でしたら、お使いになれます」
何気なく視線を向けたエルナの目に、一着のドレスが留まる。
(あ……)
去年、シャルロットたちと一緒に仕立てたドレスだった。
辺境伯家を思わせる深緑と、公爵家を思わせる紺色を取り入れたその一着は、肩や胸元が少し開いた、大人びた意匠になっている。
エルナはそっと手に取り、しばらく見つめる。
けれど、静かに元の場所へ戻した。
「やっぱり、外出用の中から選びます」
「承知いたしました」
菓子店へ行くのなら、どのドレスがいいだろう。
ルシアンは服の色に頓着しない。
普段身につけているのも紺や青、黒ばかりだ。
それなら色を気にするより、自分に一番似合うものを選ぼう。
――せっかくなら、少しでも可愛く見てもらいたい。
そう思って手に取ったのは、澄んだ空色のドレスだった。
「ソフィー……」
「はい、お嬢様」
「明日は……このドレスに合わせて、少し可愛くしてください」
その一言に、ソフィーは一瞬だけ目を丸くした。
けれどすぐに、嬉しさを隠すように微笑み、深く一礼する。
「かしこまりました、お嬢様」
公子様に、お嬢様の可愛らしさが少しでも伝わりますように。
そんな願いを胸に、ソフィーはリボンや髪飾りを思い浮かべ始める。
その隣ではエルナもまた、どのリボンがいいだろう、どんな髪型なら喜んでもらえるだろうと、小さな期待に胸を弾ませていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
軽い昼食を終えたエルナは、澄んだ水色のドレスに袖を通し、ソフィーに髪を結ってもらっていた。
両サイドの髪を金糸と銀糸で星々が刺繍された青いリボンとともに細く編み込み、後ろで蝶々結びにする。残りはゆるやかなハーフアップにまとめると、エルナのくせのある毛先がふんわりと揺れた。
空色のフレアスカートと相まって、可憐で優しい雰囲気に仕上がっている。
耳元には小ぶりな真珠の耳飾り。
白いレースの手袋をはめ、足元には同じく白いレースをあしらった、水色の低めのヒールを合わせた。
最後に姿見の前へ立つと、ソフィーは満足そうに微笑む。
「お嬢様、とても可愛らしいですよ」
「ありがとうございます。ソフィーのおかげです。また腕を上げましたね」
「お嬢様のためですから」
にこにこと上機嫌なエルナにつられて、ソフィーも自然と笑みを浮かべた。
今日のエルナは、いつにも増して愛らしい。
夜ごと他の侍女たちと、編み込みや化粧の練習を重ねた甲斐があった。
「公子様も、きっとお喜びになりますよ。参りましょう」
「はい」
期待と少しの緊張を胸に、エルナは晴れやかな笑顔で部屋をあとにする。
ルシアンは、いつものように部屋の外で待っていた。
「お待たせいたしました」
「いや、待ってはいない」
手にしていた報告書を侍従へ渡すと、ルシアンは静かにエルナへ視線を向ける。
白いリボンを編み込んだ柔らかな栗色の髪。
ふんわりと揺れる毛先。
澄んだ水色のドレスは、歩くたびに軽やかに裾を揺らしていた。
自らエルナのために仕立てさせた一着なのだから、似合うのは当然だ。
当然なのだが――今日はいつも以上に可愛い。
思わず口をついて出たのは、そんな感想ではなく。
「……よくできている」
「ありがとうございます」
とりあえず礼は述べたものの、エルナは小さく首をかしげた。
(よくできている……とは?)
編み込みのことだろうか。
それとも、ソフィーの腕前のことだろうか。
ドレスはルシアンが贈ってくれたものなのだから、それを褒めたわけではない気がする。
では、全体の装いだろうか。
(褒めてくださった……ということで、いいのでしょうか?)
そっとソフィーへ視線を向けると、当の本人も困ったように苦笑していた。
「行こう」
いつものように差し出された手へ、エルナはまだ答えの出ない疑問を抱えたまま、自分の手を重ねた。
菓子店は、外から見れば可愛らしい雰囲気こそあるものの、男性でも気軽に立ち寄れそうな落ち着いた佇まいだった。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間、その印象は一変する。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
淡い若草色の壁には、桃色と金色で草花の装飾が繊細に描かれ、柔らかな薄黄色の天井からは、小ぶりなシャンデリアが温かな光を降り注いでいる。
壁にはアンティーク調の額縁や可憐なドライフラワーが飾られ、店内には焼きたての菓子と甘い果実の香りがふんわりと漂っていた。
可愛らしいのに、どこか上品。
まるで物語の中へ迷い込んだような空間だった。
「可愛いです……」
エルナは瞳を輝かせながら店内を見回す。
ショーケースには、宝石のように透き通るゼリー。花びらをあしらった繊細なクッキー。色とりどりのマカロンを積み上げた小さな塔。リボンを結んだような愛らしいムース。艶やかな季節の果実を贅沢に飾ったタルト。
どれも食べるのが惜しくなるほど美しく、一つひとつが芸術品のようだった。
目移りするエルナへ、給仕が優雅に一礼する。
「お席へご案内いたします」
「はい」
「侍女様、侍従様には別席を。護衛の皆様には、控室をご用意しております」
「まぁ、ありがとうございます」
ソフィーやオスカー達と別れて、店の奥へ進みながら、エルナはもう一つ驚いた。
どの席も、それぞれ趣が異なるのだ。
白い大理石調の丸テーブル。温もりを感じる木製のテーブル。繊細な彫刻が施されたアンティーク調のテーブル。
椅子までそれぞれの雰囲気に合わせて選ばれており、まるで席ごとに違う物語が用意されているようだった。
(何度来ても楽しめそうですわ……)
案内されたのは、店の一番奥。
鉢植えの木々がさりげなく視線を遮る、落ち着いた一角だった。
花の彫刻が施された木製の丸テーブルは、どこか庭園の東屋を思わせる温かな雰囲気をまとっている。
「こちらでございます」
給仕が椅子を引くと、エルナは嬉しそうに微笑みながら席へ腰を下ろした。
テーブルの中央には両手を大きく広げた木彫りのくまがちょこんと置かれていた。
その愛らしい姿で、「本日のおすすめ紅茶 三選」と書かれた小さなメニューを抱えている。
「熊さんがいますわ」
思わず頬を緩めるエルナを見て、ルシアンも木彫りへ目を向けた。
「ルシアン様は、どの紅茶になさいますか?」
「エルナと同じものでいい」
「では……」
おすすめは三種類。
清涼感とコクを併せ持つウバ。ほのかにスパイスが香るダージリン。柑橘の爽やかな香りを楽しめる、アールグレイのフレーバーティー。
(甘いお菓子と合わせるなら……)
少し考えた末、エルナは顔を上げた。
「ウバにしますわ」
「かしこまりました」
給仕は丁寧に一礼すると、注文を伝えるため静かに席を離れていった。
その姿を見送ってから、エルナは改めてルシアンへ向き直る。
「とっても素敵なお店ですわ。今日は連れてきてくださって、ありがとうございます」
「エルナなら気に入ると思った」
短い一言だった。
けれど、その言葉だけで十分だった。
エルナは嬉しそうに店内を見回し、頬を綻ばせる。
その笑顔を眺めながら、ルシアンもまた、自然と口元を緩めていた。
予約を取りに店を訪れたとき、この空間をひと目見て思ったのだ。
――これは、きっとエルナが好きだ。
その予想は間違っていなかった。
店内には女性同士で語らう客もいれば、恋人同士と思しき男女の姿もある。
柔らかな笑い声と紅茶の香りに包まれ、誰もが穏やかな時間を楽しんでいた。
エルナが店内の内装について楽しそうに話していると、給仕がガラスケース付きのアンティーク調のワゴンを押してやって来た。
「失礼いたします。本日のおすすめをお持ちいたしました」
ガラスケースの中には、まるで宝石店のように色鮮やかな菓子が並んでいる。
艶やかな季節のフルーツタルト。リボンやハートの形をした可愛らしいムース。色とりどりのマカロン。花模様をあしらった焼き菓子。光を受けて宝石のように輝くゼリー。
どれも芸術品のような美しさだった。
「本日は、お一人様三品までお選びいただけます」
「どれも素敵で、悩みますわ……」
給仕の説明を聞きながら、エルナは真剣な表情で一つひとつを見比べる。
少し迷った末に選んだのは、桃のタルト、花模様の焼き菓子、そしてグレープフルーツのゼリーだった。
一方のルシアンは、メロンのタルト、リボンの形をしたムース、色鮮やかなマカロンを選ぶ。
給仕は手際よく皿へ盛り付け、最後に香り高い紅茶を注いで一礼した。
その背へ、ルシアンが声を掛ける。
「皿を一枚、追加してもらえるだろうか」
その瞬間、エルナも慌てて口を開いた。
「……いえ、二枚でお願いしますわ!」
一瞬きょとんとした給仕だったが、すぐに笑顔で頷く。
「かしこまりました」
ほどなくして、二枚の小皿と取り分け用のナイフ、フォークが運ばれてきた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「助かった」
「ありがとうございます」
給仕が一礼して去ると、ルシアンはごく自然な手つきでナイフとフォークを手に取った。
「迷っていただろう」
「半分こですね」
ルシアンは慣れた手つきで菓子を半分ずつ切り分け、それぞれの皿へと取り分けていく。
綺麗に並べられた六種類の菓子を眺めながら、エルナはふと幼い日のことを思い出した。
「子どもの頃も、ルシアン様がよく取り分けてくださいましたね」
料理長が選べるようにと、苺のケーキと林檎のタルトを用意してくれた日のことだった。
どちらも美味しそうで選びきれず困っていると、ルシアンが「半分にしよう」と取り分けてくれたのだ。
苺のケーキは倒れこそしなかったものの、少し歪な形になってしまっていた。
「あの頃は、ケーキを崩さずに切るのが難しかった」
「でも、とても嬉しかったですわ」
ルシアンが、そのことを今でも覚えていてくれたことも嬉しい。
「何でも半分にしようとしていたから、そのうち菓子は最初から同じものを頼むようになったな」
「そうでしたわね」
二人は笑い合いながら、それぞれの皿へ手を伸ばす。
繊細な甘さや果実の香りを楽しみながら味わっていたはずなのに、いつしか話題は幼い頃の思い出へと移っていた。
気が付けば、エルナの記憶に残っていたのは菓子の味よりも、昔話をしながら過ごした穏やかな時間のほうだった。
楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまうものだった。
気が付けば、店を出る時間になっていた。
エルナは公爵夫妻や、屋敷で留守番をしている侍女たちへの土産を選び、丁寧に包んでもらう。
土産を受け取った途端、この外出も終わってしまうのだという実感が胸に広がった。
(もう、帰らないといけないのでしょうか……)
ルシアンは多忙な身だ。それでも、こうして時間を作ってくれた。
だから、ここで帰るのが当然だと頭では分かっている。
それでも――。
(できることなら、もう少しだけ、ご一緒したい……)
菓子店を出て周囲へ視線を向けたその時、少し先に一軒の本屋が見えた。
(聞くだけなら……いいですよね)
聞かずに後悔するくらいなら、勇気を出してみよう。
馬車へ乗り込む直前、エルナは意を決してルシアンへ声を掛けた。
「あの、ルシアン様……」
「どうした?」
特に探している本があるわけではない。
けれど、本屋ならルシアンもきっと楽しめる。
少しだけなら、付き合ってもらえるかもしれない。
「もし、この後のご予定に差し支えなければ……少しだけ、本屋さんにも、お付き合いいただけないでしょうか」
緊張で途切れ途切れになりながらも、どうにか言い切る。
ルシアンは迷うことなく頷いた。
「もちろんだ」
その一言だけで、エルナの胸はぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
思わずこぼれた笑顔に、ルシアンも穏やかに目を細めた。
◇ ◇ ◇
本屋へ足を踏み入れると、店内に満ちた紙とインクの香りがふわりと鼻をくすぐった。
(私が誘ったのですから、とりあえず何か良さそうな本を探しましょう)
エルナは静かに店内を歩き始める。
途中でルシアンが興味を引かれる本を見つけたら、その時は一緒に見ればいい。
そう思いながら棚を眺めていると、ほどなく一冊の本が目に留まった。
「南方野草図録――拡大解説版」
(エリーゼ様やマリステラ侯爵夫妻様とお話しする際の話題になるでしょうか……)
手に取って頁をめくると、大きく描かれた草花の挿絵とともに、生育地や特徴が分かりやすくまとめられている。
「見やすいですね……」
思わず小さく呟きながら頁をめくっていると、不意に隣から声がした。
「気になる本か」
「はい。南方の草花がたくさん載っているそうです」
エルナが本を少し傾けると、ルシアンも隣から頁を覗き込んだ。
「王宮庭園の温室にも載っている草花がいくつかあるな」
「そうなのですか?」
「この花だ」
挿絵の一つを指し示され、エルナは目を丸くする。
「今度、庭園へ伺った時に探してみます」
嬉しそうに微笑むエルナを見て、ルシアンも小さく頷いた。
本を棚へ戻した二人は、そのまま並んで店内を歩く。
次に目を引いたのは、庭園文化の歴史をまとめた一冊だった。
何気なく目次へ視線を落とすと、ヴァレリオン公爵家の庭園について記された章がある。
(こちらも気になります……)
数頁ほど目を通したあと、本を棚へ戻す。
その頃には、ルシアンも別の棚の前で足を止めていた。
「西部大山脈新説」
(……これは、アイゼンベルク家公認なのか)
幼なじみの顔を思い浮かべながら本を開く。
ざっと内容を確認すると、一応は許可を得て執筆されたものらしい。しかし、考察には推測が多く、確たる裏付けには欠ける印象だった。
(所詮は新説か)
静かに本を棚へ戻し、さらに奥へ進む。
今度は東方の鉱山技術書が目に留まった。
目次を開き、気になった項目を読み始める。
新しい採掘法に関する記述を追っていると、自然と文章へ意識が引き込まれていった。
ふと気配を感じて顔を上げる。
いつの間にか、すぐ隣にエルナが立っていた。
思ったよりも近い距離に、ルシアンはわずかに目を瞬かせる。
エルナは本の表紙へ視線を向けたまま、穏やかに微笑んだ。
「新しい鉱山技術書なのですね。何か気になることが書かれていたのですか?」
「ああ。東方で試されている採掘法についてだ」
ルシアンは図解の載った頁を開き、簡潔に説明する。
専門的な内容だったが、エルナは興味深そうに耳を傾けた。
「公爵領でも役立つかもしれないのですね」
「実用性があれば、いずれ検討することになるだろう」
短いやり取りを交わしたあと、ルシアンは本を閉じる。
(これは後でゆっくり読もう)
侍従へ本を預けると、他にも興味深い本がないか、再び店の奥へ歩みを進めた。
ルシアンが本を選び始めたのを見て、エルナはほっと胸をなで下ろす。
本屋へ誘ったのは自分だ。
もし興味を引く本が見つからなければ、退屈な時間を過ごさせてしまうかもしれないと、少し気にしていた。
しかし、店内をひと回りしたルシアンは、新刊の並ぶ棚の前で足を止め、じっくりと本を眺めている。
(よかった……)
安心したエルナは、そっとルシアンの隣へ歩み寄った。
新刊を見つめる横顔は真剣そのものだった。
次々と背表紙へ視線を移し、時折一冊手に取っては目次を開く。
仕事中ともまた違う、純粋に知識を求める青年らしい表情に、エルナは思わず見入ってしまう。
しばらく眺めていたが、ルシアンは本に夢中で、エルナの視線には気づいていないようだった。
(……ふふ)
夢中になっていらっしゃる。
その姿が何だか微笑ましくて、エルナは小さく笑みをこぼした。
(私も何か探してみましょう)
そう思って視線を巡らせると、「話題の新作」と書かれた棚が目に入る。
その中の一冊に、思わず足を止めた。
風を受けて裾をなびかせる、美しいドレス姿の令嬢が描かれた表紙だった。
(あまり、このような恋愛小説は読まないのですが……)
表紙に惹かれ、本を手に取る。
ぱらりと頁をめくると、あらすじが目に入った。
主人公は伯爵令嬢。
幼なじみの騎士と兄妹のように育った彼女は、ある夜会で初めて大人びた装いを披露する。
その姿を見た騎士は思わず足を止め、『今日は……いつもと違うな』と目を奪われる。
その日を境に、幼なじみではなく、一人の女性として彼女を意識し始める――そんな物語だった。
エルナはその一文を、しばらく静かに見つめた。
(……何か、参考になることがあるかもしれませんわ)
そっと本を閉じ、隣に控えていたソフィーへ差し出す。
ソフィーは何も尋ねることなく、小さく頷いて本を受け取った。
その後も二人は店内を巡り、ルシアンは歴史書や技術書を、エルナは植物図鑑や物語を何冊か選ぶ。
会計を済ませると、それぞれ侍従と侍女が本を受け取り、一行は静かな本屋をあとにした。
◇ ◇ ◇
帰邸したエルナは普段着用のドレスへ着替え、ソフィーに髪を解いてもらっていた。
今日は、とても楽しい一日だった。
菓子店はまるで物語の世界へ迷い込んだように可愛らしく、ルシアンとの会話も心地よかった。
本屋では、知識を求めて夢中で本を選ぶ、青年らしい一面を見ることもできた。
けれど――邸を出る前から胸にあった疑問だけは、最後まで解決しなかった。
「ソフィー」
「はい、お嬢様」
「結局、ルシアン様は褒めてくださっていたのでしょうか……」
部屋まで送ってもらうその時まで、「可愛い」も「似合っている」も、一度も口にはされなかった。
「褒めてくださっていたのだと思いますよ」
ルシアンがエルナを見つめる穏やかな眼差しを思い返しながら、ソフィーは静かに頷く。
本当に、あの公子様は昔から言葉選びだけは壊滅的だった。
ソフィーはそう言うが、エルナには、婚約者として装い全体を評価されているだけのように思えてならない。
(可愛いだけでは、満足していただけないのでしょうか……)
思い浮かぶのは、王都で出会った数多くの令嬢たち。
誰もが美しく、大人びた魅力をまとっていた。
(ルシアン様は、どのような女性がお好きなのでしょう)
ふと、衣装箪笥の奥にしまった、大人びたドレスが脳裏をよぎる。
けれど、それを身にまとった自分を想像するだけで、胸の奥がむず痒くなった。
◇ ◇ ◇
それからも外出のたび、夜会のたびに、エルナはルシアンが贈ってくれたドレスを身にまとい、ソフィーは流行を取り入れながら丁寧に髪を結い、装いを整えてくれた。
けれど、ルシアンは「いい組み合わせだ」「よく考えられている」と穏やかに微笑むだけだった。
その眼差しは優しく、昔と何ひとつ変わらない。
(……本のようには、いきませんわね)
可愛いとも、似合っているとも言われないまま、時間だけが静かに過ぎていく。
胸の奥に芽生えた小さな不安は、消えるどころか、少しずつ積み重なっていった。




