王都編2-23 庭園散歩
茶会の帰り道。
馬車が石畳を軽やかに進む中、ルシアンがふと思い出したように口を開いた。
「茶会用の庭園に、人工池と東屋があるだろう。白鳥湖とまではいかないが……帰ったら散歩でもしないか」
公爵邸には用途ごとにいくつもの庭園がある。
エルナも公爵夫人主催の茶会で訪れることはあったが、ルシアンと二人で歩くのは今年に入って初めてだった。
素直に嬉しい。
「もちろんです……! ですが、執務の方はよろしいのですか?」
公爵領の内政を預かるルシアンには、片付けるべき仕事が山ほどあるはずだ。
心配そうに尋ねるエルナへ、ルシアンは穏やかに首を振った。
「急ぎのものはない。大丈夫だ」
安心させるようにそう言ってから、ふっと表情を和らげる。
「それに、今年は去年より忙しかっただろう」
「そうですね。茶会への招待も、去年より多かったです」
公務や晩餐会、茶会に夜会。
さらに公爵家夜会の準備も重なり、お互いに慌ただしい毎日を過ごしていた。
同じ邸で暮らしているのだから、それで十分。
廊下ですれ違い、食事の席で少し言葉を交わす――そんな僅かな時間だけでも満足していた。
「やっと落ち着けそうだな」
「ええ」
社交シーズンも終盤に入り、茶会や夜会への招待も次第に少なくなってきている。
(お互い時間ができたから、お誘いくださったのですわ)
観劇や白鳥湖へ出掛けたのは、シャルロットの提案があったから。
仕事の邪魔をしてはいけないと思い、エルナからルシアンを庭園へ誘ったことは一度もなかった。
ルシアンもまた、図書室で調べ物をするなど目的があれば長い時間を共に過ごすことはあっても、自ら散歩へ誘うことはなかった。
だからこそ、今日の誘いは嬉しい。
(婚約者なのですもの……)
そう自分に言い聞かせる。
一緒に過ごせることが嬉しくて胸が弾む。
けれど、その理由が「婚約者だから」なのだと思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
そんなエルナの隣で、ルシアンは二つ返事で頷いてくれた婚約者を見つめ、穏やかに目を細める。
エルナも、自分と同じようにこの時間を楽しみにしてくれている。
そのことが、ただ嬉しかった。
ヴァレリオン公爵邸には、用途ごとに趣の異なる庭園がいくつも設けられている。
二人が訪れた茶会用の庭園には、公爵家の技術を結集して造られた人工池と、白い大理石造りの東屋が静かに佇んでいた。
社交シーズンに合わせ、春から夏にかけて咲く花々が庭園を彩る。水面には白や淡紅、薄紫の睡蓮が幾重にも花を咲かせ、風が吹くたびに丸い葉がゆらりと揺れた。
「いつ見ても素敵ですわ」
「そうだな」
ヴァレリオン公爵邸へ招かれたのなら、一度は目にしておくべき庭園。
生垣や並木、石畳の小道によって緩やかに区切られた庭園は、それぞれ趣が異なり、一本の木、一輪の花に至るまで美しく見えるよう計算され尽くしている。
その景観を維持できるのは、多くの庭師と技師を抱えるヴァレリオン公爵家だからこそだった。
招かれた者だけが足を踏み入れられる、王都でも屈指の名園。
何度訪れても、その美しさに心を奪われる。
(今は、何も考えずに。この時間を楽しみましょう)
そう心に言い聞かせる。
美しい景色を眺め、ルシアンと他愛のない話をする。
それだけで十分なのだから。
胸の奥にある小さな痛みをそっとしまい込み、エルナは睡蓮の咲く人工池へと歩み寄った。
その背を見つめながら、ルシアンが穏やかに口を開く。
「今日は入っても大丈夫だ。池の水も北側の川から引いているから、綺麗だぞ」
エルナは目を丸くした。
(気にしてくださっていたのですか……?)
白鳥湖を訪れた時、自分が湖へ入りたそうにしていたことを。
あの時のことを、ルシアンは覚えていてくれたのだ。
「ありがとうございます。ですが、眺めるだけで十分ですわ」
自然と笑みがこぼれる。
気にかけてもらえたことが、何より嬉しかった。
「あの時も申し上げましたが、私、もう子どもではありませんもの」
白鳥湖では周囲の目もあり、水辺ではしゃぐことはしなかった。
そして今は――。
ルシアンの前で無邪気に水遊びをするには、あまりにも胸が落ち着かなかった。
「そうか」
ルシアンはどこか感慨深げに頷く。
無邪気に笑っていた少女は、いつの間にか淑女らしい振る舞いが板につくようになっていた。
「遊びたくなったら、いつでも入るといい」
「もう……!」
思わず頬を膨らませるエルナを見つめ、ルシアンは穏やかに目を細めた。
その青い瞳は、どこまでも優しい色をしていた。
「……でも、池の水がいつも綺麗なのは嬉しいですわ」
「そうだな。この池の水は北側を流れる川から取水している。一度あちらの貯水池へ送ってから、高低差を利用して噴水へ流しているんだ」
ルシアンは人工池の仕組みを淡々と説明し始めた。
取水の方法や水路の構造、庭師と技師の役割まで話は広がっていく。
時折聞き慣れない言葉もあったが、ルシアンはエルナの表情を見ながら言葉を選び、一つひとつ丁寧に説明してくれた。
「つまり、水が澱まないよう工夫されているのですね」
「ああ、その通りだ」
エルナが理解したことに気づくと、ルシアンはわずかに口元を緩めた。
説明はやがて人工池から庭園の歴史へと移っていく。
「……すまない。つい話しすぎた」
我に返ったようにルシアンが苦笑する。
エルナといると、気づけば余計なことまで話してしまうのだ。
「いいえ」
エルナは嬉しそうに首を振った。
「ルシアン様のお話は、とても分かりやすいですもの」
一対一だからこそ、理解できているか確かめながら話してくれる。
そんな真剣な横顔を眺める時間も、エルナは好きだった。
「東屋のお話の続きも聞きたいですわ」
「祖父が建て直しを命じたのだが、その時の職人たちが円柱にするか四角柱にするかで意見が割れてな――」
「まあ……!」
結局、その日は庭園を歩きながら、公爵家の歴史や庭園造りの話に花が咲いた。
穏やかな時間は、あっという間に過ぎていった。
ルシアンに私室まで送ってもらったエルナは、ソファへ腰を下ろして小さく息をついた。
ソフィーが淹れてくれた紅茶を口に含み、窓の外へ目を向ける。
沈みゆく夕日が、庭園を柔らかな茜色に染めていた。
(ルシアン様とのお話は、本当に楽しいです……)
エルナの知らないことを、いつも分かりやすく教えてくれる。
難しい話でも、理解できているか確かめるようにゆっくりと言葉を選び、エルナの反応を見ながら説明してくれる。
その真剣な横顔を見ていると、まるで自分だけを見てくれているような気がして、胸が温かくなった。
けれど――。
その温もりが残っているからこそ、少しだけ物足りなさを覚えてしまう。
今日は二人きりで庭園を歩き、穏やかな時間を過ごせた。
それだけで十分なはずなのに。
ルシアンは、今日もいつもと変わらなかった。
(私ったら、何を期待していたのでしょう……)
もっと一緒にいたい。もっと話をしたい。
そして――婚約者としてではなく、一人の女性として見ていただきたい。
胸の奥から湧き上がるその願いに、エルナはそっと目を伏せた。
なんて浅ましいのだろう。
これほど大切にしてもらっているのに、それでも足りないと思ってしまうなんて。
けれど、一度芽生えた想いは、理性では押さえ込めそうになかった。
夜会の日に胸へ宿った小さな願いが、少しずつ形を持ち始めている。
(どうすれば……)
答えを探すように考えを巡らせた、その時だった。
ふと、夜会でルシアンと親しげに話していた、美しい令嬢の姿が脳裏をよぎる。
(あのような方がお似合いなのかもしれません……)
自分の容姿が平凡であることは、エルナ自身がよく分かっていた。
町娘に扮する時には便利だったその顔立ちも、王都に集う華やかな令嬢たちの中では、どうしても埋もれてしまう。
静かに紅茶を飲み干しても、その胸の内に生まれた小さな迷いだけは、消えることなく残り続けていた。




