王都編2-21 夜会のあとに
エントランスホールで最後の招待客を見送ると、エルナは張り詰めていた糸がふっと切れたように、全身から力が抜けていくのを感じた。
(無事に終えられて、何よりですわ……)
身体も心も疲れ切っている。けれど、まだ夜会は終わっていない。片付けが残っているのだから。
疲れているのは、自分だけではない。
エルナは公爵夫人とともに、大広間へ戻ると、片付けを始めた使用人たちへ向き直った。
「皆様、本日は朝早くから本当にありがとうございました。こうして無事に夜会を終えられましたのも、皆様のお力添えあってこそですわ」
労いの言葉に、使用人たちは一斉に頭を下げる。
エルナはとりわけ料理長をはじめ、厨房で働き続けた者たちのもとへ足を運んだ。
「お嬢様のおかげでございます。お料理もお飲み物も、皆様に大変喜んでいただけました」
料理は取り分けやすさを工夫し、温かなものは頃合いを見て新しい皿へ差し替える。
果実水をはじめとした飲み物も、氷室で冷やしたものを絶えず補充した。
そのすべてが、エルナの提案だった。
「軽食卓の花も好評でございました。お料理の香りを邪魔せぬよう工夫されていたと、皆様感心しておられましたよ。バルコニーのお花も、とても素敵でした」
「ありがとうございます。それは庭師の皆さんが詳しく教えてくださったおかげですわ」
誇ることなく周囲の働きへ感謝を返すエルナに、使用人たちも自然と笑みを浮かべる。
その様子を見守っていた公爵夫人が、小さく頷いた。
「本当によく頑張りましたね、エルナ」
その一言だけで、不思議と身体の重さが少し軽くなった気がした。
やがて公爵夫人が最後の指示を終えると、迎えに来た公爵とともに大広間を後にする。
広間には、片付けを進める使用人たちと、帰り支度を始めた楽団員だけが残された。
「本日は素晴らしい演奏を、ありがとうございました」
王都の楽師たちは楽器を丁寧に片付けながら一礼する。
エルナはその一人ひとりへ礼を伝え、公爵家お抱えの楽団員にも労いの言葉を掛けた。
その時だった。
「エルナ」
静かな広間に、聞き慣れた声が響いた。
「ルシアン様は、もうよろしいのですか?」
「ああ」
ルシアンは静かにエルナを見つめた。
夜会の間、その姿は何度も目にしていた。
令息と踊る姿も、貴婦人たちと穏やかに言葉を交わす姿も。
けれど、ゆっくりと言葉を交わせたのは今が初めてだった。
ようやく隣に立てた。
その事実だけで、不思議と肩の力が抜けていく。
「今日は、本当によく頑張ったな」
「ありがとうございます」
聞き慣れた穏やかな声に、エルナは張り詰めていた心がほどけていくのを感じた。
夜会も終わり、残る務めは婚約者としてルシアンを見送ることだけ。
そう思っていた。
「ルシアン様もお疲れでしょう。明日も公務がございますから、そろそろお休みになられてはいかがですか?」
「その前に――」
ルシアンは一歩、エルナへ歩み寄る。
「今日は一曲も踊れなかった」
「……そうですね」
一曲どころか、ひと言も話せなかった。
ようやく、二人でいられる。
忙しさの中へ押し込めていた想いが、胸の奥から静かにあふれ出してくる。
ふと寂しげな表情を浮かべたエルナへ、ルシアンは恭しく一礼した。
「最後に、私と踊っていただけますか?」
煙水晶の眼鏡の奥で、澄みきった青い瞳が真っ直ぐにエルナを映している。
(……ずるいです)
そんなふうに見つめられて、断れるはずがない。
「喜んで」
差し出された左腕へ、そっと右手を添える。
二人は並んで大広間の中央へ歩み出た。
広間の中央で向かい合うと、ルシアンが優雅に一礼する。
エルナも静かに返礼し、再び顔を上げる。
次の瞬間、ルシアンの右手がそっとエルナの腰へ添えられた。
触れられた場所から、熱がゆっくりと胸の奥へ広がっていく。
夜会の喧騒が嘘だったかのように静まり返った大広間には、二人だけの時間が静かに流れ始めていた。
静かな大広間で踊り始めようとする二人を見て、公爵家お抱えの楽団長が、残っていた団員たちへ静かに目配せをした。
ほどなくして、宴を終えた広間に、穏やかな湖面を思わせるワルツが流れ始める。
その旋律に身を委ねるように、エルナとルシアンはゆっくりと踊り出した。
誰に見せるためでもない。二人だけの、静かな時間だった。
エルナを導きながら、ルシアンは自然と頬を緩める。
夜会の間は主催者として互いに忙しく、ゆっくり話すことも、一曲踊ることも叶わなかった。
だからこそ、こうして隣にいられる今が、心地よかった。
「今日のダンスも、よく踊れていた」
「あのくらい、当然ですわ。ルシアン様と、たくさん練習しましたもの」
幼い頃から、何度もダンスの相手をしてくれた。
ステップを間違え、転びそうになれば、そのたびに支えてくれた。
ルシアンもまだ子どもだったはずなのに、一度も嫌な顔を見せることはなかった。
「合わせられるのは、エルナが上手いからだ」
思いがけない言葉に、エルナは小さく息をのんだ。
自分を見ていてくれている。それだけで、胸が少しだけ温かくなる。
(……ルシアン様と踊るのが、一番踊りやすいですわ)
この人との踊りは、もう身体が覚えている。
言葉を交わしながらでも、自然と足が動く。
二人は水面を滑るように、大広間を静かに舞い続けた。
音楽に気付き、大広間をのぞきに来た公爵夫妻は、扉の陰でそっと足を止める。
互いに顔を見合わせ、小さく微笑み合う。
けれど、踊る二人はその気配にも気付かなかった。
(来年の公爵家の夜会も……きっと、一緒には踊れないのでしょう)
そのたびに、今夜のように誘ってくださるのだろうか。
――婚約者だから。
胸の奥に、小さな痛みが広がる。
ふと曇ったエルナの表情に気付き、ルシアンは眉を寄せた。
「すまない。疲れているのなら、ここで切り上げよう」
「いいえ」
どんな理由でもいい。このひとときを、自分から手放したくはなかった。
「最後まで、踊らせてください」
ルシアンは穏やかに頷く。
「わかった。望みのままに」
その一言に、エルナの胸が小さく揺れた。
初めから一つの生き物のように息の合った動き。
流れる水のように自然な足取りで、二人は舞を紡いでいく。
(望みのままに、だなんて……)
どうして、そんな言葉を口にするのだろう。
そんなふうに望んでくださるのなら。婚約者としてではなく、一人の女性として望んでほしい。
やっと踊ることができた。こんなにも近くで触れ合っている。それなのに、胸に空いた穴は少しも埋まらなかった。
ルシアンはすぐ隣にいるはずなのに。今のエルナには、その距離がどこまでも遠く感じられた。
やがて音楽は静かに終わりを迎え、二人も足を止める。
名残惜しそうにルシアンはエルナを見つめ、それから穏やかに微笑んだ。
「部屋まで送ろう」
「ありがとうございます」
どこまでも優しいその笑みに、胸がまた少しだけ痛んだ。
差し伸べられた手を、エルナはそっと重ねる。
その温もりは確かに近いのに、心だけは届かないまま、二人は静かな大広間を後にした。




