王都編2-20 ヴァレリオン公爵家夜会
その日、ヴァレリオン公爵家は朝から慌ただしかった。
料理人たちは早朝から晩餐の仕込みに取り掛かり、庭師は会場を彩る花々を整える。下働きの使用人たちは、招待客を迎えるあらゆる部屋を塵一つ残さぬよう磨き上げていた。
エルナは公爵夫人とともに、会場設営の最終確認のため、エントランスホールと大広間を何度も行き来する。
一方、ルシアンも朝から公爵や執事長とともに来客の確認や警備の打ち合わせに追われ、二人が顔を合わせる時間はほとんどなかった。
そうして慌ただしく準備を進めるうちに、あっという間に招待客を迎える刻限が訪れた。
◇ ◇ ◇
「ようこそお越しくださいました」
公爵夫妻を先頭に、ルシアンとエルナが並んで招待客を迎える。
最初に姿を現したのは、レオンハルトとエリーゼだった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
エリーゼは優雅に一礼する。その所作は無駄がなく、美しい。
「楽しみにしていた」
穏やかに微笑むレオンハルトの隣に立つエリーゼの姿は、誰の目にも理想の王太子夫妻だった。
互いに言葉を重ねなくとも自然と歩調が合う二人に、エルナは思わず見入ってしまう。
続いて、アイゼンベルク公爵夫妻とジーク、シャルロットが現れた。
「エルナ様!」
ぱっと表情を輝かせたシャルロットは、何かを言いかけて口を開く。
「シャール」
ジークが小さく名を呼ぶ。
その一言だけで、シャルロットは「あっ」というように口を閉じた。
「失礼いたしました。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
言葉はそれだけだった。
けれど、ジークへ向けるシャルロットの柔らかな笑みと、それを当たり前のように受け止めるジークの眼差しからは、揺るぎない信頼が伝わってくる。
次に現れたのは、ローゼンベルク侯爵家。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
オリヴィアは、葡萄酒を思わせる深い紫のドレスを優雅にまとい、家族とともに歩み寄る。
「ご準備、お疲れ様でした」
その一言だけ。
けれど、口元に浮かぶ余裕ある微笑みに、エルナの緊張が少しだけほぐれた。
「ありがとうございます」
短く言葉を交わし、オリヴィアは家族とともに大広間へ向かっていく。
続いてアーヴェル伯爵家。
「本日はよろしくお願いいたします」
クレアは礼儀正しく一礼した。
視線が合う。ほんの一瞬だけ。
(あとで全部聞きます)
そんな声が聞こえてきそうな瞳だった。
エルナは思わず笑みを深める。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
その後も招待客は途切れることなく続いた。
昨年は都合がつかず参加できなかった貴族には、「今年はお目にかかることができ、大変嬉しく思います」
初めてヴァレリオン公爵家の夜会へ招かれた令息や令嬢には、「どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
緊張した表情を見せる若い貴族には、安心させるように微笑みかける。
隣に立つルシアンもまた、自然に言葉を添えながら客人を迎えていく。
やがて最後の招待客を見送り、二人は大広間へ向かって歩き出した。
「……いい挨拶だった」
不意に隣から声がした。
エルナが顔を上げると、ルシアンは前を向いたまま続ける。
「今日は忙しくなるだろう。何かあれば、すぐ私のところへ来るといい」
「……はい」
その短い言葉だけで、胸が少しだけ温かくなる。
(気に掛けてくださっている……)
婚約者だから。
そう分かっている。
それでも、その優しさが嬉しかった。
公爵夫妻のダンスは、この場にダンス教師がいれば誰もが満点を付けるだろうと思わせるほど、完璧だった。
一歩一歩のステップ、優雅なターン、そのすべてが教本どおりでありながら、長年連れ添った夫婦だからこそ生まれる自然な呼吸がそこにはあった。
やがて曲が終わると、公爵が楽団へ静かに合図を送る。
新たな旋律が流れ始めると、レオンハルトとエリーゼがホールの中央へ進み、息の合った優雅なダンスを披露する。それに続くように、ジークとシャルロットをはじめ、次々と貴族たちがフロアへ歩み出した。
いつもなら、ルシアンが真っ先にエルナを誘ってくれる。
けれど今日は、公爵家の夜会を支える主催者としての役目がある。
戻ってきた公爵夫人と視線を交わしたエルナは、小さく頷くと、夫人がまだ挨拶を交わしていない他家の夫人たちや、普段の夜会では話す機会の少ない年配の貴族たちのもとへ足を運んだ。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
「お声がけいただき光栄ですわ。ヴァレリオン家の夜会はいつも軽食が美しく並んでおりますが、本日はさらに取り分けやすく工夫されておりますのね」
「ありがとうございます。温かい料理は冷めないよう、頃合いを見て新しいものと入れ替えております。どうぞたくさんお召し上がりくださいませ」
エルナが屈託なく微笑むと、夫人をはじめ、その場にいた貴族たちの表情も自然と和らいだ。
その受け答えは穏やかで、気配りも行き届いている。次期公爵夫人として申し分ない立ち居振る舞いだった。
けれど、どれほど歓談に集中しようとしても、気付けば視線はルシアンのもとへ向かってしまう。
(お似合いですわ……)
見目麗しい令嬢とルシアンが踊る姿は、まるでおとぎ話の挿絵のように美しかった。
どんな相手とも優雅に踊り、その魅力を自然に引き出してしまうルシアンを、エルナは誇らしく思っている。
けれど、その姿を次々と見せつけられるたび、胸の奥にぽっかりと穴が空いていくようだった。
見なければいい。そう分かっている。
歓談に集中しているはずなのに、相手の表情へ視線を向けるたび、その先にはルシアンの姿が映り込んでしまう。
何度も、何度も。
令嬢の手を自然に取り、貴公子らしい穏やかな笑みを浮かべながら、音楽に身を委ねる。
ルシアンと踊る令嬢たちの頬は、皆どこか上気して見えた。
(もっと、換気を良くするべきでしたね……)
胸の内に湧き上がる感情を打ち消すように、頭は無理やり別のことを考えようとする。
やがて一曲が終わると、今度はエルナのもとへ一人の令息が歩み寄ってきた。
「エルナ嬢、一曲お相手いただけないでしょうか」
「もちろんですわ」
差し出された手に自らの手を重ね、エルナもまたフロアへ歩み出る。
(社交ですもの)
自分だって令息と踊るのだ。
令嬢と踊るルシアンを気にしてしまう方が、おかしいのだから。
令息と踊るエルナを、ルシアンはじっと見つめていた。
「ルシアン、今おまえと話しているのは私なのだが?」
「もちろん、聞こえている」
「さっきまで踊り続けていたのですから、目の保養も必要でしょう」
ため息をつくレオンハルトを、ジークが苦笑しながらなだめる。その間も、ルシアンの視線はエルナから離れない。
「あの令息はターンが荒い。エルナがフォローしてやっていると分からんのか」
「たしかに、半歩足りませんね」
「エルナが自分で合わせている」
いつの間にかジークまでエルナたちへ視線を向けていた。
レオンハルトは呆れたように笑う。
「おまえ、婚約者が踊っているのを見て、最初にそこなのか」
「他に何を見る?」
「……」
「……」
ジークはエルナから視線を外し、レオンハルトと顔を見合わせた。
「エルナ嬢は、どなたとでも合わせられるのですね」
「相手を察するのが上手いんだ」
ルシアンは当然のように答える。
「相手が踊りやすいよう、常に半歩先を読んで動いている」
「ずいぶん見ているな」
にやりと笑ったレオンハルトに、ルシアンはあっさり頷いた。
「婚約者だからな」
「理由はそれだけですか?」
「あたりまえだ。癖が分かれば、疲れているかどうかも分かる」
平然と言い切るルシアンに、レオンハルトは思わず額を押さえた。
「それを普通は『よく見ている』と言うんだ」
ルシアンが首を傾げた、そのとき。
話しかけたそうにこちらを見つめていた令嬢と目が合う。
「失礼する」
「ああ、また後でな」
令嬢と穏やかに談笑するルシアンを見送りながら、レオンハルトがぽつりと呟いた。
「本当に、エルナ嬢しか見ていないよな」
「まったくです」
付き合いの長い二人だからこそ分かる。
エルナを見つめるときの眼差しと、今、令嬢へ向けている穏やかな視線は、似ているようでまるで違っていた。
その違いに気づいていないのは、本人だけだった。
ダンスを終えたエルナは、再び歓談へと戻った。
(もう、見ないようにいたしましょう)
胸の奥に生まれた小さな痛みを振り払うように、そう心の中で言い聞かせる。
今日はヴァレリオン公爵家の夜会だ。次期公爵夫人として、自分には果たすべき役目がある。
視線を向けるべきは客人たち。ルシアンではない。
途中、ルシアンがレオンハルトとジークと談笑している姿が目に入り、エルナは小さく安堵の息をついた。
令嬢たちに囲まれているわけではない。
それだけで十分だった。
「エルナ、マリステラ侯爵夫妻がご挨拶したいそうですよ」
公爵夫人に呼ばれ、振り向くと、一組の男女が温かな笑みを浮かべていた。
「本日はお目にかかれて光栄でございます。先日はご招待いただきましたのに、お伺いできず申し訳ございませんでした」
頭を下げるエルナに、侯爵夫妻は気にすることはないと穏やかに笑う。
「公子様とエルナ嬢が参加されたアーヴェル伯爵家の夜会は、大変な盛況だったと聞いております。次はぜひ我が家にもお越しください」
「もちろんでございます」
「エリーゼ殿下のお茶会へもよく招かれていらっしゃるそうですわ。今度ぜひ、そのお話を聞かせてくださいませ」
「マリステラ夫人のお誘いでしたら、エリーゼ殿下もお喜びになると思いますわ」
公爵夫人も交え、しばし穏やかに言葉を交わす。
辺境伯家で親しくしてきた貴族たちとはまた違う。
商船で栄えた一族らしく、白波のように朗らかで活気に満ちた夫妻だった。
夜会も後半へ差しかかる。
エルナは初めて公爵家の夜会へ招かれた令嬢や令息に声を掛け、不自由はないか、料理は口に合うかと気を配る。
途中で令息にダンスへ誘われれば快く応じ、使用人たちには料理や果実水の補充が滞りなく進んでいるかを確認する。
忙しく動き回っているうちに、不思議とルシアンのことを考える時間もなくなっていた。
――そのはずだった。
昨年参加できなかった侯爵夫妻へ挨拶をしようと歩き出した、その時だった。
何気なく視線を上げた先で、ルシアンが一人の令嬢へ穏やかに微笑み掛けている姿が目に入った。
陽光を閉じ込めたような金髪に、澄んだ青い瞳。
誰もが目を奪われる、王都の華にふさわしい令嬢だった。
冬の湖のように静かなルシアンを、溶かしてしまいそうなほど柔らかな笑みを浮かべている。
(綺麗な方……)
エルナは思わず歩みを止めた。
ルシアンの隣で、気負うことなく優雅に微笑む令嬢。
その笑みに応えるように、ルシアンもまた穏やかな笑みを浮かべていた。
(ルシアン様のお隣にいても、何の違和感もありませんわ……)
そう思った瞬間。どくん、と胸が大きく脈打つ。
ルシアンと二人でいる時の高鳴りとは違う。
胸を締め付けられるような、息が詰まるような、心の奥で静かに警鐘が鳴り響くような鼓動だった。
まるで一枚の絵画のように美しい二人。誰もが認める美男美女に、思わず目を奪われる。
――隣にいるべきなのは、私なのに。
ふいに胸をよぎったその想いに、エルナは目を見開いた。
(いま、私は……何を考えて……?)
そんなことを思うなんて。今日はヴァレリオン公爵家の大切な夜会なのに。
ルシアンは、自分を婚約者だと言ってくれた。ならば、それに応えられる自分でいなければならない。
小さく息を吐き、エルナは静かに視線を逸らした。
それからは、挨拶へ伺う予定だった侯爵夫妻のもとを訪れ、久方ぶりに夜会へ参加した貴族たちへも一人ひとり声を掛けて回る。
次期公爵夫人としてあるべき姿を懸命に務めるうちに、夜会は静かに終わりの刻を迎えた。




