↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/70

王都編2-17 変わらない日常

 翌朝。


 ほとんど眠れないまま朝を迎えたエルナは、鏡の前で深く息をついた。


(いつも通りですわ)


 何度も自分へ言い聞かせる。


 昨夜、自分の気持ちに気づいただけだ。ルシアンは何も変わっていない。


 だから、自分だけが態度を変えるわけにはいかなかった。


 身支度を整え、部屋の扉を開ける。


「おはようございます、ルシアン様」


「おはよう」


 いつものように、ルシアンが廊下で待っていた。


 その姿を目にした瞬間、昨夜の結論が頭をよぎる。


(好きだから、だったのですね……)


 胸の奥が小さく熱を帯び、慌ててその想いを押し込めた。


 平静を装いながら隣へ並ぶと、ルシアンはエルナの顔をじっと見つめる。


「顔色が良くない」


「えっ?」


「昨日の疲れが残っているのではないか」


 昨夜はほとんど眠れなかった。確かに疲れは残っている。


 けれど、それ以上に心配を掛けたくなかった。


「大丈夫ですわ」


 小さく微笑むと、ルシアンはなおもエルナの様子を見つめていたが、やがて静かに頷いた。


「無理はするな」


「はい」


 いつもと変わらない、たったそれだけの会話。


 それなのに。


(昨日までとは、全然違いますわ……)


 胸が苦しくなる。


 ルシアンは何も変わっていない。幼い頃、「お兄様」と呼んでいた頃から。


 デビュタントを迎え、その呼び方を改めた後も、ルシアンは変わらず自分を気に掛け、世話を焼き、守ってくれていた。


 だからきっと、今も変わらない。


 自分を家族のように。妹のように。大切に思ってくれているのだ。


 それだけなのだ。


(それで十分でしたのに……)


 そう思おうとするほど、胸は苦しくなる。


 隣を歩くルシアンとの距離は、昨日までと何一つ変わらない。


 けれど、その距離の感じ方だけが、エルナの中で静かに変わり始めていた。




「いってらっしゃいませ、ルシアン様」


「ああ。早く終われば、迎えに行く」


 頷くルシアンに、エルナは一瞬だけ思考が止まった。


(迎えに来てくださる。――いえ、いつものことです)


 胸に芽生えた小さな喜びをそっと振り払うと、いつものように微笑んだ。


「ありがとうございます」


 朝食を終え、王宮へ向かうルシアンを見送ると、エルナは小さく息を吐いた。


 ルシアンの隣を歩き、いつもの席で朝食を食べる。


 ただ、それだけのことなのに、今日は隣にいるだけで胸が落ち着かなかった。


(今日は茶会の前に、夜会の打ち合わせをしなければいけないのです。ルシアン様のことを考えている場合ではありません)


 気持ちを切り替え、手帳を手に温室へ向かう。


「ようこそ、エルナお嬢様」


「夜会用のお花の確認をさせていただいてもよろしいですか?」


「もちろんでございます」


 公爵夫人から指示されているのは、公爵家を象徴する紺と金に合わせ、青と黄色を基調に、夏らしい涼やかさを演出する白を添えること。


 けれど、どの花を選ぶかはエルナへ任されていた。


「こちらは例年、エントランスホールを飾る百合でございます。このほか、薔薇や紫陽花もご用意できます」


「エントランスホールは、香りと華やかさを大切にしたいですわね……」


 庭師は、夜会当日にちょうど見頃を迎える花や、これまで使用してきた花々を一つひとつ説明していく。


「青や黄色で、香りの控えめなお花はございますか?」


「でしたら、こちらのデルフィニウムやユーストマがよろしいかと。デルフィニウムの花言葉は『清明』『高貴』でございます。ユーストマは――」


(ルシアン様に相応しい花ですね)


 花言葉を書き留めながら、エルナはふと、銀色の髪にはデルフィニウムよりも百合の方が似合うのではないか、と考えてしまった。


(……いけません。今はルシアン様のことではありません)


 小さく首を振り、改めて花言葉を手帳へ書き留める。


 その後もエルナは、会場ごとの花の配置や香り、高さについて次々と質問を重ね、庭師は一つひとつ丁寧に答えてくれた。


 手帳がびっしりと文字で埋まる頃、エルナは庭師へ一礼する。


「教えていただき、ありがとうございました。また後日、ご相談させてください」


「いつでも、お待ちしております」


 恭しく頭を下げる庭師のもとを後にすると、今度は料理長のもとを訪れ、夜会の献立について相談を重ねた。


 やがてソフィーに茶会の支度の時間を告げられるまで、エルナの夜会準備は続いた。




 茶会を終えると、今朝話していた通り、ルシアンが迎えに来ていた。


「また公子様がお迎えにいらしているそうよ」


「羨ましいですわ……」


 近くにいた令嬢たちの囁きが耳に入る。


 今までは、ルシアンが優しいからだ、としか思っていなかった。


 けれど今日は、その言葉に思わず頬が緩みそうになる。


(いけません)


 小さく気を引き締め、いつものように微笑みを浮かべながら邸の外へ出る。


 車寄せには、すでにヴァレリオン公爵家の馬車が到着していた。


 ルシアンはいつものように馬車の外で待ち、エルナが姿を現すと静かに歩み寄る。


「今日もありがとうございます」


「予定通りに終わっただけだ。帰ろう」


「はい」


 差し出された手へ自分の手を重ね、エルナは馬車へ乗り込んだ。


 続いてルシアンも隣へ腰を下ろす。


 馬車がゆっくりと動き始めた。


(近いですわ……)


 今まで何度も隣へ座ってきたはずなのに、今日は妙に距離が近く感じられた。


 思わずルシアンへ視線を向ける。


 その瞬間――目が合った。


(……っ!!)


 馬車へ乗ると、ルシアンが眼鏡を外すことを、すっかり失念していた。


 遮るもののない青い瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。


(どうしましょう……)


 視線を逸らすのも不自然な気がして、身体が固まる。


 そんなエルナの様子に、ルシアンは小さく首を傾げた。


「どうした? 気分でも悪いなら、どこかで休もう」


「い、いえ、大丈夫です! ……今日のご報告をしようと思いまして」


 咄嗟に取り繕うと、ルシアンは短く頷く。


「ああ。聞こう」


 エルナは逃げ場を失ったまま、ルシアンへ向き直り、お茶会での出来事を話し始めた。


 今日話した内容。交わした会話。招待客の様子。夜会準備に活かせそうなこと。


 報告すべきことはいくらでもある。


(公爵邸には、まだ着かないのでしょうか……)


 話すことは尽きない。


 だからこそ、馬車の時間も終わらない。


 真面目に報告を続けながらも、エルナの鼓動だけは、今にも限界を迎えそうだった。




 夕方。


 招待客について確認するため、エルナはルシアンの執務室へ向かっていた。


 けれど、今日は少しだけ足取りが重い。


 馬車での出来事を思い出すたび、どうにも気恥ずかしくなってしまうのだ。


(確認しなければ、夜会の準備が進みません。確認したら、すぐ退室すれば良いのです……!)


 自分へ言い聞かせるように頷くと、自分用に書き写した招待客リストを抱え、意を決して扉を叩いた。


「失礼いたします」


「来たか」


 ルシアンは書類から顔を上げると、すぐにエルナを迎え入れた。


「招待客の皆様のことで、確認したいことがあって参りました」


「分かった。そこへ座るといい」


 ルシアンの執務机の隣には、小さな机と椅子が置かれている。


 エルナが公爵邸で学ぶようになってから用意された、自分専用の席だった。


 けれどエルナは首を横に振る。


「確認したら、すぐ退室いたしますから」


「メモを取るなら、その方が書きやすい」


「……そうですわね」


 もっともな理由を返され、反論はできなかった。


 エルナは大人しく椅子へ腰掛ける。


 本当は、ルシアンの隣へ座ることになるとは思っていなかった。


(立ったまま確認すれば良いと思っておりましたのに……)


「見せてくれ」


「はい」


 手帳から招待客リストを取り出し、ルシアンへ差し出す。


 招待客一人ひとりの情報が細かく書き込まれた頁へ目を通すと、ルシアンはわずかに目を見開いた。


「よくまとめられているな」


「ありがとうございます」


 たった一言褒められただけ。


 それだけなのに、胸の奥がふわりと温かくなり、口元が緩みそうになる。


「こちらの伯爵家は、昨年はいらっしゃらなかったと伺いまして――」


「ああ。その年は当主が地方視察中だった。今年は長男も同行する」


「そうでしたか」


 エルナは手早く余白へ書き込んでいく。


 その間にも、ルシアンは確認するように身を乗り出し、同じ手帳へ視線を落とした。


 すぐ隣から聞こえる落ち着いた声。


 肩が触れそうなほど近い距離。


 エルナがペンを動かすたび、腕が触れてしまいそうになる。


(こんなはずでは、なかったのですが……)


 平静を装いながらも、細心の注意を払ってペンを走らせる。


 招待客の情報は、一つも漏らすことなく書き留めたい。


 けれど今は、それ以上に隣にいるルシアンを意識しないことの方が難しかった。



  ◇ ◇ ◇



 またある日の夕方。


「少し付き合ってくれ」


 そう言って、ルシアンはエルナを図書室へ誘った。


 公爵邸の図書室には、歴代ヴァレリオン公爵家の財力と知識の積み重ねを物語るように、新旧さまざまな本が所狭しと並んでいる。


 去年からようやく腰を据えて読めるようになったが、まだ手をつけられていない本も数多い。


「こっちだ」


 ルシアンの後について歩くと、一つの本棚の前で足を止めた。


 迷うことなく背表紙へ手を伸ばし、二冊の本を取り出す。


「観察眼のすすめ」「危険察知と危機管理」


「この本を読んだことは?」


「ありませんわ」


「参考になる」


 そう言って、ルシアンは二冊の本をエルナへ差し出した。


 時折一緒に読書をすることはあっても、ルシアン自ら本を勧めてくるのは珍しい。


 不思議そうに見つめるエルナへ、ルシアンは静かに続けた。


「どうしたら周囲の変化へすぐ気づけるのか。この前、尋ねていただろう」


「……はい」


 アイゼンベルク公爵家の夜会。


 シャルロットやルシアンが、誰よりも早く客人の変化へ気づいていたこと。


 その帰りの馬車で、自分は確かに尋ねた。


「わざわざ、探してくださったのですか?」


「おおよその内容と場所は把握している。探したというほどではない」


 いかにもルシアンらしい返事だった。


「ありがとうございます」


 エルナは両手で二冊の本を受け取る。


 ずっしりとした重みが腕へ伝わる。


 けれど、不思議と胸の中はそれ以上に温かかった。


(覚えていてくださったのですね……)


 ルシアンは、ただ質問に答えようとしただけなのだろう。


 それでも、自分の言葉を心に留め、こうして本を選んでくれたことが、エルナには嬉しかった。



  ◇ ◇ ◇



 また、ある日の昼食。


 その日はルシアンが早めに王宮から戻り、エルナとともに食堂で夜会の試作料理を確認することになった。


「お嬢様のご要望に沿った献立を考案いたしました」


 料理長が一礼すると、次々と試作料理が運ばれてくる。


 月桂樹の葉を模した仔羊の香草包み焼きは、皿の上で月桂樹を描くように美しく並べられていた。


 薄切りの鴨のローストは、くるりと巻かれて一口大の花のような形になり、その周囲には色鮮やかな温野菜が添えられている。


 少し小ぶりな丸パンには、ヴァレリオン公爵家の紋章が焼き印されていた。


 手のひらほどの可愛らしいケーキには、繊細に絞られたクリームと飾り切りの果物が彩りを添えている。


「牛フィレ肉のステーキは飾り串へ刺し、三角錐のスタンドへ盛り付ける予定でございます」


 料理長が一つひとつ説明するたび、エルナの瞳は楽しそうに輝いた。


「料理長さん、素晴らしいですわ」


「お褒めいただき、光栄でございます」


 料理長が恭しく頭を下げると、ルシアンがエルナへ視線を向けた。


「料理長へ、何を頼んだんだ?」


「公爵家の夜会のお料理は、どれも見事で芸術性も高いのですが……」


 エルナはこれまでの夜会を思い返す。


 塊のまま美しく焼き上げられた牛フィレ肉。鳳凰を模して盛り付けられた温野菜。見事な装飾が施された大きなケーキ。


 どれも見惚れてしまうほど美しい反面、崩してしまうことを思うと、手を伸ばしづらかった。


「見栄えはそのままに、皆様が取りやすく、召し上がりやすいお料理にしていただけないかとお願いしました」


「なるほど」


 ヴァレリオン公爵家の夜会といえば、洗練された品格と格式。


 料理もまた、その一部だった。


 それを損なうことなく、より食べやすくしてほしいというのは、料理長にとって決して簡単な注文ではない。


 以前、サンドイッチをお願いした時と同じように、今回もまた難題を持ち込んでしまったのだろう。


「公爵様や奥様にも、お見せしたかったですわ」


 公爵は王宮で執務中、公爵夫人は茶会へ出席しており、今日は不在だった。


 残念そうに呟くエルナへ、料理長は穏やかに微笑む。


「どうぞ、お召し上がりくださいませ。料理は出来たてが一番でございます」


「そうですわね。いただきます」


 エルナが料理へ手を伸ばそうとした、その時だった。


 ルシアンがごく自然な手つきで、エルナの皿へ料理を取り分けていく。


「ルシアン様。私、もう子どもではありませんわ」


「そうか」


 それでも、ルシアンの手は止まらない。


 いつものように盛り付けるルシアンへ、エルナは少しだけ口を尖らせた。


「では、ルシアン様のお皿は私がお取りします」


 そう言うと、彩りや量のバランスを考えながら丁寧に料理を盛り付け、ルシアンの前へ置く。


「これで、おあいこですわ」


「ありがとう」


 ルシアンは小さく微笑み、礼を口にした。


 そのたった一言だけで、エルナの口元も自然とほころぶ。


 少し離れた場所では、料理長とソフィーが顔を見合わせていた。


「……本来は、私どもがお取り分けするのですが」


 その小さな呟きは、楽しげに試食を続ける二人の耳へ届くことはなかった。



  ◇ ◇ ◇



 そして、ある日の夜会では。


(今日もルシアン様は人気者です……)


 社交シーズンも後半だというのに、相変わらずルシアンの周りには多くの貴族たちが集まっていた。


(いつも、何をお話しされているのでしょうか)


 エルナだって、茶会や夜会で交わす話題には困らない。


 見聞を広めたい。親交を深めたい。


 それは貴族にとって、ごく当たり前のことだった。


 けれど――。


(今日は、ほとんどお話しできませんでしたわ)


 ふとルシアンへ視線を向ける。


 目が合うたび、ルシアンは小さく微笑み返してくれた。


 それだけでも嬉しい。


 けれど今日は、それだけでは少し物足りなく感じてしまう自分がいた。


(いけません。今日は主催家の夜会ですもの)


 気持ちを切り替えようと、手にしていた果実水へ口をつける。


(……ぬるいですわ)


 いつの間にか氷は溶け、爽やかな甘みだけが口の中へ残る。


 わずかな寂しさを胸へしまい込み、エルナは再び歓談へ戻っていった。




 夜会が終わり、馬車へ乗り込んでようやく肩の力が抜けた。


「今日もよくやった」


「ありがとうございます」


 たったそれだけの会話なのに、不思議と胸の奥がほっとする。


 二人きりの馬車の中で、エルナはようやく自然な笑みを浮かべた。



  ◇ ◇ ◇



 自室で「危険察知と危機管理」を読んでいたエルナは、ぱたりと本を閉じた。


(こんな生活、耐えられませんわ)


 正確には、耐えられないわけではない。


 耐えられる。


 けれど、このままでは精神が保たない。


 次期公爵夫人としての務めは、きちんと果たせていると思う。


 夜会の準備や、日々の茶会や夜会も。


 けれど、その合間に、毎日のようにルシアンのことで一喜一憂してしまう。


 迎えに来てくれたこと。馬車で隣に座ったこと。執務室で褒められたこと。本を探してくれたこと。


 どれも今までと何一つ変わらないはずなのに、自分だけが勝手に振り回されている。


(……私らしくありませんわ)


 エルナは小さく苦笑した。


 一人で考えていても、答えは出そうになかった。


(皆様のお知恵を、お借りしましょう)


 明日は、エリーゼのお茶会。


 きっと皆なら、このどうしようもなく落ち着かない気持ちを、どうすればよいのか教えてくれるはずだ。


 そう思うと、少しだけ胸のつかえが軽くなった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。