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王都編2-13 白鳥湖

 あっという間に、白鳥湖へ出かける日となった。


 公爵夫人がエルナとルシアン、それぞれの予定を確認すると、公爵の「その日は私が見る」の一言で日取りはすぐに決まった。


(さすがは公爵様ですわ)


 エルナがエントランスホールの大きな窓から、馬車の準備をする使用人たちの様子を眺めていると、背後から聞き慣れた足音が近づいてくる。


「お仕事は、もうよろしいのですか?」


「ああ。父上に追い出された」


「まあ」


 思わずくすりと笑うエルナに、ルシアンもわずかに口元を緩めた。


 二人は並んで窓の外を眺める。


 やがて馬車の準備が整うと、オスカーが二人の前で恭しく一礼した。


「若様、エルナ様。ご準備が整いました」


 今日の外出では、オスカーが御者を務めることになっていた。護衛の騎士たちもすでに配置につき、出発の準備は万端だった。


 納屋倒壊事件で若様を危険に晒してしまったことは、今もなお彼の胸に残っていた。


 だからこそ今日は、何があろうと二人を無事に送り届け、無事に連れ帰る。


 その決意は、普段以上に固かった。


「今日はよろしくお願いします」


 エルナが微笑むと、オスカーは背筋を伸ばしたまま力強く答えた。


「お任せください。何があろうと、必ずお二人をお守りいたします」


「頼んだ」


 短い言葉に、オスカーは力強く頷く。


「行こうか」


「はい」


 ルシアンが差し出した手を取り、エルナは馬車へ乗り込んだ。


 隣へルシアンが腰を下ろし、扉が静かに閉まる。


 やがて馬車はゆっくりと走り出した。


 王都の高い城壁を抜けると、視界いっぱいに青空と広々とした平野が広がる。


 頬を撫でる風も、どこか王都の中とは違って感じられた。


 王都の外へ出る機会は滅多にない。


 それだけで、エルナの胸は弾んでいた。


「ルシアン様は、白鳥湖へ行かれたことはあるのですか?」


「ああ。街道の視察や治水の確認で何度か来ている」


「では、ゆっくり景色をご覧になったことは……」


「仕事だったからな」


 その答えに、エルナは嬉しそうに微笑んだ。


「では、今日はルシアン様もご一緒に楽しめますね」


「……そうだな」


 柔らかな笑顔を向けるエルナを見て、ルシアンも静かに頷く。


 ふと窓の外へ目をやったエルナは、遠くの牧草地で草を食む牛の群れを見つけた。


「あっ……!」


 思わず窓際へ身を寄せ、きらきらと目を輝かせる。


 王都では見ることのできない、のどかな景色。


 一つひとつに素直に心を躍らせるエルナの横顔を、ルシアンは穏やかな眼差しで見つめていた。




 馬車がゆるやかに速度を落とし、やがて静かに停まった。


「若様、エルナ様。白鳥湖へ到着いたしました」


 オスカーが扉を開けると、心地よい初夏の風がふわりと吹き込む。


 ルシアンに手を取られて馬車を降りたエルナは、目の前へ広がる景色に思わず息を呑んだ。


「……まあ」


 どこまでも澄んだ湖面は、青空をそのまま映し出している。


 風が吹くたび細かな波紋が広がり、水面は陽光を受けて宝石のようにきらめいた。


 湖畔には背の高い木々が木陰を作り、その足元には初夏の草花が色鮮やかに咲き誇っている。


 白い花の間を蝶が舞い、小鳥たちのさえずりが風に乗って聞こえてきた。


 遠くでは、寄り添うように泳ぐ二羽の白鳥が、ゆったりと湖面を滑っている。


 岸辺では数組の貴族たちが思い思いに散策を楽しみ、木陰では子どもたちが笑い声を上げながら走り回っていた。


 王都から馬車で半日足らず。


 古くから景勝地として親しまれてきた白鳥湖は、社交の喧騒を離れ、穏やかな時間を過ごすには最適な場所だった。


「とても……綺麗ですわ」


 思わず零れたその一言に、ルシアンは静かに頷く。


「ああ。今日は天気にも恵まれた」


 エルナは湖から吹き抜ける風を胸いっぱいに吸い込む。


 王都とは違う、草木と水の香り。


 それだけで胸の奥まで洗われるような心地がした。


 思わず駆け出したエルナは、湖のほとりで足を止めた。


 ドレスの裾が濡れないよう片手で持ち上げると、そっとしゃがみ込む。


 澄み切った湖面は陽光を受けてきらきらと輝き、少し先では小魚たちが群れを成して泳いでいた。


 空いた手を水へ沈める。


 ひんやりとした感触が指先を包み込み、底に転がる小石をころころと転がしてみる。


「……気持ちいいですわ」


 思わず頬が緩む。


 そのまま夢中になって水と戯れていたエルナは、ふと我に返って振り向いた。


 そこには、大判のタオルを抱えたソフィーが穏やかに微笑んでいる。


 まるで「いつでもどうぞ」と言わんばかりだ。


 その隣では、ルシアンが静かに様子を見守っていた。


 護衛として同行した若い騎士たちは、不思議そうにソフィーの抱えるタオルとエルナを見比べている。


 一方、オスカーや古くから公爵家に仕える騎士たちは、どこか察したような表情で成り行きを見守っていた。


 誰一人、止めようとはしない。


(……よろしいのですか?)


 エルナはそっと視線を落とし、靴へ手を伸ばしかける。


 けれど、湖畔を散策する貴族たちの姿が目に入り、その手はぴたりと止まった。


「…………」


 少しだけ名残惜しそうに湖面を見つめる。


 そして手のひらで水をすくうと、ぱしゃり、ぱしゃりと静かに水面を叩いて遊んだ。


 それだけで満足したように立ち上がり、ルシアンのもとへ戻る。


「いいのか?」


 首を傾げるルシアンに、エルナは少しだけ照れたように笑った。


「もう子どもではありませんもの」


「そうか」


 そう答えながらも、ルシアンは湖面へ名残惜しそうに視線を送るエルナを見て、思わず口元を緩めた。


「この先に、小さなせせらぎがある」


「せせらぎですか?」


「あそこなら浅い。昔、葉で船を作って流したことがあっただろう」


 その言葉に、エルナの表情がぱっと明るくなる。


「覚えております! あの時はルシアン様の船の方がずっと遠くまで流れて……」


 悔しそうに頬を膨らませた幼い日の記憶が蘇る。


「ぜひ参りましょう! 今度は負けませんわ!」


 弾む声に、ルシアンは静かに頷いた。


「少し距離がある。馬で向かおう」


 その一言に、エルナの茶色の瞳はさらに輝きを増した。


「乗ってもよろしいのですか!?」


 ぱっと表情を輝かせたエルナに、ルシアンは静かに釘を刺す。


「横乗りだぞ」


「わかっています」


 少しだけ口を尖らせながらも、エルナは素直に頷いた。


 ふと何かに気づいたように首を傾げる。


「……わざわざ横乗り用の鞍をご用意してくださっていたのですか?」


「あくまで可能性の一つとしてだ」


 絶対とは言い切れない。


 だが、エルナが望むかもしれないと思い、昨日のうちにオスカーへ準備を頼んでいた。


「どの馬がいい?」


 騎士たちの馬が繋がれている場所へ向かうと、エルナは一頭ずつゆっくりと見て回った。


 穏やかに草を食む馬。人懐こく鼻を寄せてくる馬。落ち着きなく耳を動かし、今にも駆け出したそうにしている馬。


 やがて、一頭の栗毛の前で足を止める。


「この子がいいですわ」


 耳をぴんと動かし、ぱたぱたと尻尾を振る、どこか活発そうな馬だった。


「どうなんだ?」


 ルシアンが尋ねると、オスカーは一目見て頷いた。


「その馬なら問題ございません。速駆けは好みますが、人の指示はよく聞きますし、人見知りもしない賢い馬です」


「だそうだ」


 ルシアンが視線を向けると、エルナはもう馬のそばへ歩み寄っていた。


 拳をそっと鼻先へ差し出す。


 馬は匂いを確かめるように鼻を寄せ、安心したように小さく鼻を鳴らした。


「お名前は何といいますの?」


「スウィフトです」


 オスカーが答えると、エルナは嬉しそうに微笑む。


「スウィフトさん。今日はよろしくお願いしますね」


それから辺りを見回した。


「ご主人様は、どなたですの?」


「あ、私です……」


 少し緊張した面持ちの若い騎士が、おずおずと前へ出る。


「スウィフトさんを、お借りしてもよろしいでしょうか?」


「もちろんです。その……若様がよろしければ」


 ルシアンは迷うことなく頷いた。


「エルナが気に入ったのなら問題ない」


「ありがとうございます」


 エルナはそっとスウィフトの首筋を撫でる。


 するとスウィフトは甘えるように鼻先を肩へ押し付けた。


「まあ。頼もしいですわ」


 嬉しそうに笑うエルナを見て、若い騎士は少しだけ目を丸くした。


 その様子に気づいたルシアンが静かに声を掛ける。


「安心しろ。エルナなら、大抵の馬は扱える」


「……え?」


 ぽかんとする若い騎士へ、オスカーが苦笑交じりに耳打ちした。


「エルナ様は、ノルドガルド辺境伯家のお嬢様ですから」


「なるほど……?」


 納得したような、していないような表情を浮かべる若い騎士を残し、オスカーはルシアンの馬を選ぶため、別の騎士たちのもとへ歩いていった。




 木漏れ日の中を、二頭の馬が並んでゆっくりと歩いていた。


 エルナとルシアンだ。


 時折足を止めては景色を眺め、ルシアンは道端に咲く花や薬草、木々について静かに教えてくれる。


「これは傷薬の材料になる花だ。こちらは染料にも使われる」


「同じ色でも、花によって染まり方が違うのですね」


 スウィフトの背に揺られながら耳を傾ける時間も、エルナにとっては心地よかった。


 やがて木々の間を抜けると、小さなせせらぎが姿を現す。


「こちらも、とても素敵な場所ですわ」


 スウィフトから降りたエルナは、思わず辺りを見回した。


 岩肌の間を澄んだ水がさらさらと流れ、その音に応えるように木々が葉を揺らす。


 岸辺には黄色や桃色の小さな花々が咲き、蝶がひらひらと舞っていた。


「この川は、ヴァレリス川まで続いている」


「こんなに小さな川が、あんなに大きな川になるのですか?」


「ああ。途中でいくつもの支流と合流するからな」


「地図で見た時、たしかに支流がたくさんありました」


 感心したように頷くエルナを見て、ルシアンも静かに頷いた。


 その時だった。


「……あっ、ルシアン様。ご覧ください」


 エルナが一枚の葉を摘み上げる。


 手のひらほどの大きさで、舟を作るにはちょうどよさそうな葉だった。


 さらにもう一枚摘むと、そのうちの一枚をルシアンへ差し出す。


「作り方、覚えていらっしゃいますか?」


「もちろんだ」


 初めて葉の舟を作った日のことを思い出す。


 作り方を教えてくれたのはエルナだった。


 それなのに、不思議なことに舟はいつもルシアンの方が遠くまで流れていく。


 そのたびにエルナが悔しそうに頬を膨らませていたことを、今でもよく覚えていた。


 二人は並んで葉を折り、舟を作る。


 出来上がると、せせらぎへそっと浮かべた。


 二艘の葉舟は仲良く並んで流れ始める。


 けれど、少し進んだところでエルナの舟は小枝に引っ掛かって止まってしまった。


「ああ……」


 残念そうに肩を落としたあと、すぐに笑顔へ戻る。


「またルシアン様の勝ちですわ!」


 悔しそうにしながらも、その声はどこか楽しそうだった。


「今度はもっと遠くまで進ませてみせます!」


 そう宣言すると、エルナは早速よさそうな葉を探し始める。


「ルシアン様も、もう一艘作ってくださいね」


「承知した」


 エルナから渡された葉を受け取り、ルシアンも再び舟を折り始める。


 葉舟を作っては流し、流してはまた作る。


 子どもの頃と何一つ変わらない遊び。


 けれど、こうして肩を並べて過ごす時間は、あの頃よりもずっと穏やかだった。


 無邪気に笑うエルナを眺めながら、ルシアンの口元にも自然と笑みが浮かんでいた。




 せせらぎを後にした二人は、再び馬へ乗り、白鳥湖をゆっくりと一周した。


 湖面を滑る白鳥の番を眺め、木陰に咲く草花へ足を止める。


 時折吹き抜ける風に木々がざわめき、小鳥たちのさえずりが心地よく響いていた。


「この辺りは秋になると紅葉が見事なんだ」


「また違った景色が見られるのですね」


「冬には白鳥ももう少し増える」


「では、一年を通して楽しめるのですね」


 穏やかな会話を交わしながら馬を進めていると、いつの間にか出発した場所へ戻ってきていた。


「若様、お嬢様。昼食のご用意が整っております」


 オスカーの声に、ルシアンとエルナは馬を止める。


 ルシアンが先に馬から降りると、エルナへ手を差し伸べた。


「ありがとう、スウィフトさん」


 エルナは名残惜しそうに首筋を撫でる。


「また遊びましょうね」


 スウィフトは返事をするように小さく鼻を鳴らし、エルナの肩へ鼻先を寄せた。


「ふふっ」


 嬉しそうに笑うエルナを見て、若い騎士もほっと胸を撫で下ろす。


「ありがとうございました」


 愛馬を受け取ると、スウィフトはどこか誇らしげに胸を張っていた。


 その様子を見届けてから、ルシアンはエルナへ声を掛ける。


「昼にしよう」


「はい」


 二人が木陰へ向かうと、護衛の騎士たちは少し離れた場所へ下がり、オスカーとソフィーが手際よく敷物を広げ始めた。


 湖から吹く涼しい風が、初夏の草花を優しく揺らしている。


 木漏れ日が降り注ぐ絶好の場所で、二人だけの昼食が始まろうとしていた。


 用意された敷物へルシアンとエルナが並んで腰を下ろす。


 ソフィーは手際よくバスケットを開き、皿やカップ、冷えた飲み物の入ったボトルを並べていった。


「どうぞ、お召し上がりください」


 ランチボックスの蓋が開いた瞬間、エルナは思わず声を上げた。


「可愛いですわ……!!」


 中に並んでいたのは、丸パンのサンドイッチ。


 けれど、その一つひとつが小さな動物になっていた。


 レーズンでできたつぶらな瞳。


 野菜で作られた耳やひげ。


 切り込みから覗くハムやチーズは、花びらのように美しく巻かれている。


「兎さんに、猫さんです!」


 嬉しそうに指を差すエルナへ、ソフィーが微笑んだ。


「犬や熊もおりますよ」


「これは……」


 隣で見つめていたルシアンが、小さく呟く。


「料理……なのか?」


 エルナは思わず笑みをこぼした。


「料理長さんへ、サンドイッチを可愛くしてほしいとお願いしたのです」


「……そうか」


 あの、コック帽より甲冑の方が似合いそうな料理長へ。


 よりにもよって「可愛く」という、あまりにも抽象的な注文をしてしまったのか。


 改めてサンドイッチを見渡す。


 兎、猫、犬、熊。ほかにも、アヒルや牛など様々な動物たちがちょこんと顔を覗かせていた。


 どれも見事に特徴を捉えており、料理長の並々ならぬ本気が伝わってきた。


「可愛くて、食べるのがもったいないですわ」


 にこにこと眺めるエルナ。


 そう言った次の瞬間だった。


「でも、お腹が空きましたので、いただきましょう」


「……そうだな」


 可愛いから食べない。


 そんな選択肢は、エルナには存在しないらしい。


 小さな口で、迷うことなく兎の頭へかぶりつく。


「美味しいです!」


 嬉しそうに笑う姿を見て、ルシアンもようやく熊のサンドイッチへ手を伸ばした。


 こちらを見つめるようなレーズンの瞳と一瞬目が合い、ほんの少しだけ躊躇する。


 それでも一口食べると、自然と肩の力が抜けた。


「よかったな」


「はい。帰ったら、料理長さんへお礼を申し上げなくては」


 そう言うとエルナは、今度は犬のサンドイッチへ手を伸ばした。


 やがてランチボックスの中身が空になる頃、ソフィーが果物の盛り合わせを差し出す。


「お嬢様、こちらもどうぞ」


 半分に切った小ぶりのメロンは、縁が花びらのように飾り切りされている。


 その隣には、兎の形に飾り切りされたオレンジ。


 隙間を彩るように、赤いさくらんぼが添えられていた。


「こちらも可愛いです……!!」


「料理長様が、お嬢様に喜んでいただけるようにと考えられました」


「……食べてもいいのか?」


 再び困惑するルシアンへ、エルナは満面の笑みで頷く。


「もちろんです。早速いただきましょう」


 そう言うや否や、飾り切りの兎へ迷いなくフォークを刺した。


「ルシアン様。甘くて、とても美味しいですよ」


「……ああ」


 可愛いと喜びながらも、食べることに一切のためらいはない。


 夢中で果物を頬張るエルナを見つめながら、ルシアンは堪えきれず、小さく笑みを零した。




 昼食を終え、ソフィーは手際よく食器やランチボックスを片付けると、ルシアンとエルナへ一礼した。


「私たちはあちらにおります。何かございましたら、すぐにお呼びください」


 少し離れた場所では、オスカーが騎士たちと馬の世話をしている。


 ソフィーもそちらへ向かうと、この場にはエルナとルシアンだけが残された。


 午後の穏やかな風が二人の間を吹き抜ける。


 木々が葉を揺らし、湖面には小さな波紋が広がっていた。


 やがて、一組の白鳥がゆっくりと舞い降りる。


「ルシアン様、白鳥さんですわ」


「ああ」


「仲良しさんです」


「そうだな」


 二羽は寄り添いながら湖面を泳ぎ、ときおり魚をついばんでは、互いの羽を丁寧に整えている。


 その穏やかな光景を眺めていたエルナは、ふと思いついたようにルシアンへ向き直った。


 両足を揃えて座り直すと、自分の膝を軽く叩く。


「ルシアン様、お膝へどうぞ」


「…………」


 ルシアンの動きがぴたりと止まった。


「ルシアン様?」


 不思議そうに首を傾げるエルナへ、ルシアンはゆっくりと首を横へ振る。


「……それは、駄目だ」


「なぜです? お兄様はよく、お義姉様のお膝でお昼寝をしておりましたわ」


「それは、アルヴィン殿とヒルダ殿だからだ」


「私とルシアン様も婚約者ですわ」


「それはそうだが……」


 返答に詰まり、ルシアンは小さく息をつく。


 少し考えてから、静かに尋ねた。


「……私を寝かせたかったのか?」


「はい。お昼寝をすると疲れが取れますよ」


 嬉しそうに頷くエルナを見て、ルシアンの表情がわずかに和らぐ。


「そういうことなら」


 眼鏡を外して畳み、胸元へしまう。


 そのままエルナの隣へ横になると、一度だけエルナへ視線を向けた。


「これでいいか」


「はい」


 満足そうに微笑んだエルナは、傍らへ置いてあった一冊の本を手に取る。


「北方野草図録」


 公爵邸の図書室で見つけた、お気に入りの本だった。


(……エルナらしい)


 恋愛小説でも詩集でもない。


 そんなところに、思わず口元が緩む。


 木漏れ日が揺れ、涼しい風が頬を撫でていく。


 ページをめくる音と、小鳥のさえずり。


 その静かな音色へ耳を傾けながら、真剣な表情で本を読むエルナを眺め、ルシアンはゆっくりと目を閉じた。


 やがて、穏やかな寝息が聞こえ始める。


 エルナは本から顔を上げ、そっと隣を見つめた。


 陽の光を受けた銀色の髪は柔らかく輝き、長い睫毛が静かな影を落としている。


 陶器細工のようになめらかな肌。整った鼻筋。穏やかに緩んだ唇。


 毎日顔を合わせているはずなのに、今日はなぜだか目が離せなかった。


(ずっと、このままでいたいですわ……)


 湖も。乗馬も。せせらぎも。昼食も。


 どれもあっという間だった。


 けれど、どれも楽しかった。


 ルシアンも少しは羽を伸ばせただろうか。


 自分ばかりが楽しんでしまったのではないかと心配していたが、その穏やかな寝顔が、杞憂だったと教えてくれているような気がした。


「お嬢様、若様。そろそろお時間ですよ」


 呼びに来たソフィーは、身体を起こしたルシアンと、その隣で静かに微笑むエルナを見て、小さく口元を綻ばせた。


  ◇ ◇ ◇



 夕暮れ時。


 白鳥湖を後にした馬車は、王都へ向かってゆっくりと街道を進んでいた。


 エルナは隣に座るルシアンへ改めて一礼をした。


「ルシアン様、今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」


「それはよかった」


 ころころと表情を変えながら、湖も、馬も、せせらぎも、昼食も心から楽しむエルナを眺めていた一日。


 昼寝もあってか、ルシアンの表情もいつもより穏やかだった。


「帰ったら、公爵様と奥様にも、お礼を申し上げなくてはなりませんね」


「ああ。今日の話をすれば、父上も母上も喜ぶだろう」


「そういたしますわ」


 嬉しそうに頷くエルナを乗せ、馬車は平野を抜けていく。


 やがて、夕日に染まる王都の城壁が見え始めた。


「……また来ても、よろしいでしょうか?」


「もちろんだ」


 その返事に、エルナはほっとしたように笑みを浮かべる。


 ――次は、もっと思い切り遊ばせてやりたい。


 今日一日、周囲に気を遣いながら我慢していた姿を思い返し、ルシアンは静かに考える。


 レオンハルトに相談すれば、何か良い方法があるかもしれない。


 今日の出来事を楽しそうに語るエルナへ相槌を打ちながら、ルシアンは一人、そんなことを思っていた。

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