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【第4部】王都編2-12 春告鳥

 これは夢だ。


 ソフィーがカーテンを開ければ、朝日とともに消えてしまう夢。


 目が覚めれば、見ていたことさえ思い出せない――そんな類いの夢。


 真っ白な雪景色の中、崩れた屋根と折れた木材に埋もれた青年は、ぴくりとも動かなかった。


 青い瞳がこちらを見ることもない。


 素っ気ないのにどこか温かな声が、自分の名を呼ぶこともない。


 じわり、と。


 青年の左腕が赤く染まっていく。


「…………っ!」


 名を呼ぼうとしても、声は喉につかえて出てこない。


 伸ばした手は虚しく宙を掻き、駆け寄ろうとする足は、泥沼に沈んだように動かなかった。


 冷え切った空気だけが、静かに世界を満たしている。


 何度も、何度も。


 手を伸ばし、声にならない叫びをあげ、必死に前へ進もうとする。


 それでも届かない。


 やがて青年はゆっくりと立ち上がる。


 こちらを振り返ることなく、静かに背を向けた。


 心の中では確かに叫んでいるのに、その願いだけは最後まで声になることはなかった。



  ◇ ◇ ◇



 いつものようにエリーゼのお茶会が開かれた。


 香り高い紅茶からは湯気が立ちのぼり、三段のティースタンドには色とりどりの菓子が美しく並べられている。


 話題は自然と、先日開かれたアーヴェル伯爵家とマリステラ侯爵家、それぞれの夜会へ移っていた。


「――それでですね、王都では見かけない珍しいお菓子だと思いましたら、侯爵夫人がお義姉様のためにリュミエール王国から取り寄せてくださったそうなのですわ! しかも早馬で届けさせたそうですの!」


 シャルロットは身振りを交えながら、夜会で振る舞われた料理や菓子を楽しそうに語る。


「侯爵夫人らしい、心尽くしのおもてなしですわね」


「私もいただいてみたかったです……」


「どのようなお味でしたの?」


「ぷにぷに、ふわふわで、とっても甘くて美味しかったですわ!」


「…………?」


 あまりに感覚的な説明に、オリヴィア、クレア、エルナの三人は揃って首を傾げた。


 その様子に、エリーゼがくすりと笑う。


「今度、レオンに頼んで取り寄せてもらいましょう」


「本当ですの!? また食べたいですわ!」


 ぱっと表情を輝かせるシャルロットを微笑ましく眺めたあと、エリーゼはクレアへ視線を向けた。


「アーヴェル伯爵家の夜会はいかがでしたの?」


「はい。エルナ様とルシアン公子のご出席により、参加者は前年より十八・三%増加いたしました。マリステラ侯爵家の夜会と日程が重なったにもかかわらず、快挙と言える結果です。なお、同日に開催された他家の夜会は、例年より参加者が少なかったようですね」


 手帳へ目を落としながら淡々と報告すると、クレアは顔を上げてエルナを見た。


「エルナ様。このたびは、本当にありがとうございました」


「お役に立てて何よりですわ」


「大人気でしたものね」


 オリヴィアが微笑むと、エルナは照れたように首を横へ振る。


「そんなことはありませんわ。オリヴィア様のほうが、私よりずっとお話がお上手ですもの」


「当たり前じゃない」


 即答するオリヴィアに、一同から笑い声がこぼれた。


 辺境伯家の賑やかさとも、夜会の華やかさとも違う。


 肩の力を抜いて笑い合える、この穏やかな時間に、エルナは自然と目を細めた。


「……エルナ様、少しお疲れですの?」


 エルナの表情を見たシャルロットが、不思議そうに首を傾げた。


「……そうですね。少しだけ」


 アーヴェル伯爵家の夜会以来、エルナは以前にも増して、茶会や夜会での交流に力を入れていた。


 あの日ほどではないものの、一人で令嬢や夫人たちと言葉を交わし、時には令息たちとダンスを踊ることも多い。


「公爵家の皆様は、辺境伯家のような賑やかさとは少し違いますものね」


 オリヴィアが穏やかに言うと、クレアは静かに侍女を呼び寄せた。


 侍女はあらかじめ用意されていた一冊の本を恭しく差し出す。


「生活環境も変わり、そろそろお疲れが溜まる頃かと思いました。そこで、気分転換になればと一冊ご用意いたしました」


「あなたらしいわね」


 エリーゼが微笑むと、クレアは照れ隠しのように眼鏡を軽く押し上げた。


「エルナ様、よろしければお読みください」


「ありがとうございます」


 本を受け取ったエルナの隣から、表紙を覗き込んだシャルロットがぱっと顔を輝かせる。


「『春告鳥』ですわ!」


「さすがシャルロット様、ご存じでしたか」


「もちろんですわ! 英雄となる騎士様と、その帰りを待ち続けるご令嬢のお話ですの!」


「英雄……お祖父様のお話でしょうか?」


 首を傾げるエルナに、クレアが静かに首を横へ振る。


「そこまで壮大ではありません。情景描写と登場人物の心理描写がとても繊細で、美しい作品です。物語の世界へ引き込まれますので、息抜きにも向いているかと」


「読ませていただきますわ」


「では、その続きは読んでからのお楽しみですわね」


 内容を語り始めようとしたシャルロットを、オリヴィアがそっと制する。


「シャール。先に話してしまっては楽しみがなくなりますわ」


「あっ……そうでしたわ!」


 くすくすと笑い声が広がる中、エリーゼは紅茶へ静かに口をつけ、優しく目を細めた。



  ◇ ◇ ◇



『春告鳥』


 東の大湖を望む小さな領地。


 春になると、湖畔には雪解け水が流れ込み、春告鳥のさえずりが里へ季節の訪れを知らせる。


 領主の娘リリアと、騎士家の嫡男エドガーは、幼い頃から毎日のように湖畔で遊んでいた。


 木陰で昼寝をし、花冠を編み、釣りをしては魚を逃がし、夕暮れになれば手を繋いで屋敷へ帰る。


「大きくなったら、立派な騎士になる」


 そう胸を張る少年を、少女は兄を見るような眼差しで見つめていた。


 やがて二人は成長する。


 エドガーは王都へ渡り騎士となり、リリアは領地で領主の娘としての務めを学び始めた。


 年に数度届く手紙には、王都での出来事や失敗談が綴られている。


『また湖で釣りがしたい』


 そんな一文を読むたび、リリアは自然と笑みをこぼした。


 月日は流れ、青年は戦で武勲を重ね、『若き英雄』と称えられるようになる。


 王都では令嬢たちが彼の名を囁き、夜会ではダンスの誘いが絶えないという。


 それを聞いても、リリアは嬉しかった。


 幼馴染が立派になった。


 それだけだった。


 ある年、王国を揺るがす大戦が勃発する。


 エドガーは最前線へ向かった。


 しかし戦の最中、味方の裏切りによって伝令が途絶え、王都にも領地にも情報が届かなくなる。


 一週間。二週間。一か月。


 届くのは噂ばかり。


「戦は劣勢らしい」


「英雄も討たれたそうだ」


「いや、生きている」


 誰の言葉も確かなものではない。


 雪はすっかり解け、湖畔には若葉が芽吹いていた。


 リリアは毎朝湖畔に足を運び、春告鳥の鳴き声を聞きながら空を見上げた。


「きっと帰ってきます」


 誰に言うでもなく、小さく呟く。


 その言葉だけを支えに、毎日を過ごした。


 やがて王都から知らせが届く。


 王国は勝利した。裏切り者も暴かれたそして英雄も、生きている。


 数日後。


 湖畔へ向かったリリアは、一人の青年が岸辺に立っているのを見つけた。


 鎧には無数の傷。日に焼けた横顔。


 けれど、その背中だけは幼い頃と何も変わっていなかった。


「……エドガー?」


 青年がゆっくりと振り返る。


 その姿を見た瞬間、張りつめていたものが音を立てて崩れた。


 嬉しい。安心した。会いたかった。


 そのどれとも違う想いが胸いっぱいに溢れ、気づけば涙が頬を伝っていた。


「どうして泣く」


 困ったように笑うエドガーへ、リリアは首を横に振る。


「私……ずっと、お兄様のような人だと思っていました」


 言葉にした途端、自分の胸の内がはっきりと形を持つ。


 違う。兄ではない。家族でもない。


 私は、この人が好きなのだ。


 離れて初めて、その想いに気づいた。


 エドガーは驚いたように目を見開き、それから静かに笑う。


「私はずっと前から知っていた」


 湖を渡る風が、二人の間を優しく吹き抜ける。


 遠くで春告鳥が、今年初めての歌を響かせていた。



  ◇ ◇ ◇



「素敵なお話でした……」


 うっとりと呟くエルナを前に、シャルロットとクレアが満足そうに頷いた。


 茶会や夜会の合間に少しずつ読み進めるつもりだった。


 それなのに、気がつけば夢中になり、あっという間に最後の一頁まで読み終えてしまっていた。


「クレア様、素敵な本をありがとうございました」


 読み終えた『春告鳥』を大切そうに差し出すと、クレアは静かに受け取る。


「お口に合いましたようで何よりです」


 その様子を微笑ましく見守っていたエリーゼが、紅茶へ口をつけながら尋ねた。


「どんなお話だったのかしら?」


「主人公のリリア様が、幼馴染の騎士エドガー様と戦で離ればなれになってしまうのですが、最後はご自身のお気持ちに気づいて結ばれるお話です」


「裏切り者のせいで戦況が分からなくなってしまうのですわ! あの場面は本当に心配でした!」


 実はシャルロットも、エルナと同じ頃に読み返していたらしい。


 身を乗り出して力説する姿に、一同から小さな笑みがこぼれた。


「印象に残った場面はどこでしたの?」


 オリヴィアの問いに、真っ先に手を挙げたのはシャルロットだった。


「わたくしは、最後に湖畔で再会する場面ですわ!」


「私もです」


 エルナも頷く。


「会えない時間が長かったからこそ、お互いの大切さが伝わってきました」


「……それだけ?」


 オリヴィアが思わず聞き返す。


「はい。……あとは、幼いお二人が湖畔で仲良く遊んでいる場面も、とても微笑ましかったです」


「その頃から、お互い想い合っていたのではなくて?」


「そうかもしれませんね」


 ふわりと笑うエルナを見て、オリヴィアは口元へ扇子を当てた。


(そこまで分かっていて、どうしてご自分のことになると気づかれませんの……)


「公子様と重なりませんでしたの?」


 今度はシャルロットが率直に尋ねる。


 エルナはきょとんと首を傾げた。


「なぜです? エドガー様は騎士様ですよ?」


 その一言に、エリーゼとオリヴィア、クレアは揃って視線を交わした。


(そこではないのだけれど。)


 誰もが同じことを思う。


 そんな空気にも気づかず、エルナは微笑んだ。


「お祖父様は、お祖母様のことを『情熱的な方だった』と仰っておりました。このお話のような思い出も、きっとあったのでしょうね」


「…………」


 どうして、そこまで物語を理解していて、祖父母のお話になるのだろう。


 四人が視線だけで会話を交わす中、最初に沈黙を破ったのはシャルロットだった。


「そうですわ! この機会に、湖畔へ行ってみてはいかがでしょうか?」


「湖畔ですか?」


 思いがけない提案に、エルナは小さく首を傾げた。


「王都から日帰りで行ける場所に、お散歩にぴったりの湖がありますの!」


「白鳥湖のことですか?」


 クレアが尋ねると、シャルロットは満面の笑みで頷いた。


「そうですわ!」


 その名を聞いたエリーゼとオリヴィアも、「あそこね」と納得したように笑みを浮かべる。


「皆様、ご存じなのですか?」


「王都に滞在する貴族なら、一度は訪れる景勝地ですもの」


「昔から、いろいろな噂がある場所でもあるわね」


 エリーゼとオリヴィアの説明を受け、クレアが眼鏡を押し上げた。


「お聞きになりますか?」


 その口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいる。


「現在は恋愛成就の名所として知られております」


「わたくし、ジーク様とお散歩に行きましたわ!」


 嬉しそうに胸を張るシャルロットへ、クレアは淡々と言葉を続ける。


「ですが、三十年ほど前は『破局の名所』として語られていたそうです」


「えっ……?」


 シャルロットの笑顔がぴたりと止まる。


「まだジーク様とは仲良しですわよね……?」


「殿下。ただの噂です」


「そう、そうですわよね……」


 ほっと胸をなで下ろすシャルロットに、エリーゼがくすりと笑った。


「ちなみに、王太后様がお若い頃は『逢瀬の場所』として有名だったそうよ」


「お祖母様も、お祖父様と行かれたのですか?」


「それは、ご本人に聞いてごらんなさい」


 ころころと表情を変えるシャルロットにつられ、一同から笑みがこぼれる。


 そんな和やかな空気の中、クレアが静かに話を戻した。


「噂はさておき、白鳥湖は散策にはおすすめです。白鳥のつがいや、時期によってはカルガモの親子が見られることもあります」


「わたくしはカルガモの親子を見ましたわ! とっても可愛らしかったですの!」


 シャルロットが楽しそうにその日の思い出を語る。


 話を聞いているうちに、エルナの胸にも「一度訪れてみたい」という気持ちが芽生えていた。


 けれど、その一方で別の考えが頭をよぎる。


「……ですが、ルシアン様は毎日、公務に社交にとお忙しいですもの。遠出は、ご負担になってしまうかもしれません」


 公爵邸の庭園にも、美しい人工池と東屋がある。


 ゆっくり過ごすだけなら、それでも十分なのではないだろうか。


 そう思う一方で、白鳥湖の景色を見てみたいという気持ちも、少しずつ大きくなっていく。


 そんなエルナの迷いを見透かしたように、オリヴィアが優しく微笑んだ。


「だからこそ、たまには書類に手の届かない場所へお連れするのも、よろしいのではなくて?」


「エルナ様が『ご一緒したい』と仰れば、ルシアン公子は喜んでお時間を作られると思いますよ」


 エリーゼの穏やかな言葉に、エルナは少しだけ背中を押されたような気がした。



  ◇ ◇ ◇



 夕食も終盤を迎え、デザートを食べ終えようという頃。


 エルナは紅茶のカップをそっと置き、ためらいがちに口を開いた。


「今日はエリーゼ殿下のお茶会で、白鳥湖のお話を伺ったのですが……」


「行こうか」


 言い終わるよりも早く、ルシアンが即答した。


「ルシアン。エルナの話は最後まで聞きなさい」


 公爵夫人に穏やかに窘められ、ルシアンは一瞬だけ母へ視線を向ける。


「……失礼しました、母上」


 すぐに気を取り直し、改めてエルナへ向き直った。


「続きを聞こう」


「ありがとうございます」


 エルナは小さく頷く。


「今は昼も夜もお忙しいですし、白鳥湖へ行けば帰る頃には夕方になってしまいます。ですから……社交シーズンが終わる頃でしたら、お時間もございますでしょうか」


 ルシアンは静かに考え込んだ。


 頭の中で予定を一つずつ整理していく。書類仕事なら前倒しにできる。問題は会議や夜会、晩餐会の日程だった。


「……二十七日後なら空けられる」


「そんなに先まで……」


「その頃なら、一日空けても支障はない」


 エルナは少し安心したように微笑む。


「でしたら、その頃にいたしましょう。私も予定を確認いたしますわ」


 二人のやり取りを見守っていた公爵夫妻は、そっと顔を見合わせた。


 やがて公爵が静かに口を開く。


「ルシアン。一日くらいなら、私が仕事を引き受けよう」


「父上。しかし――」


「私では務まらないと?」


「……いえ」


 短く答えるしかなかった。


 その様子を見て、公爵夫人が優しく微笑む。


「では決まりね」


 二人へ穏やかな眼差しを向けた。


「たまには家のことも忘れて、二人でゆっくりしていらっしゃい」


「奥様……ありがとうございます」


 エルナが頭を下げると、公爵夫人は首を振る。


「気にすることはありません。二人とも、いつもよく頑張っていますもの。このくらい、ご褒美だと思いなさい」


 隣では、公爵も静かに頷いている。


 その温かな眼差しに包まれながら、エルナはもう一度、小さく礼を述べた。


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