王都編2-11 アーヴェル伯爵家夜会
辺境伯家が帰領してから、数日が過ぎた。
エルナの公爵邸での暮らしは穏やかだった。
使用人たちは皆優しく、公爵は何か不自由はないかと折に触れて声を掛けてくれる。公爵家主催の茶会や夜会の準備を手伝えば、公爵夫人は的確な助言を惜しまなかった。
毎朝、ルシアンとは部屋の前で合流し、並んで食堂へ向かう。
他家の茶会へ出席すれば、公務を早く終えたルシアンが迎えに来てくれることもある。
夜会の前には二人で軽食を取り、変わらず手を差し出してエスコートしてくれる。
何一つ不満はない。
それでも――。
辺境伯邸のように、廊下から賑やかな笑い声が聞こえてくることはなかった。
ヒルダの明るい声も。アルヴィンの豪快な笑いも。父の朗らかな声も。
(少し……静かですわね)
冬の間は、公爵夫人とともに視察へ赴き、慣れない夫人教育に追われる毎日だった。
けれど今は、ふとした静けさの中で、辺境伯家の賑やかな日々を思い出してしまう。
格式高く、落ち着いた空気に包まれた公爵邸。
そんな穏やかな日々を過ごしていたある日。
ソフィーが一通の封筒を手に部屋へやって来た。
「お嬢様、夜会の招待状が届いております」
差し出された封筒には、アーヴェル伯爵家の紋章が刻まれていた。
クレアからの夜会の招待状だった。
◇ ◇ ◇
「エルナ様!! ぜひ!! ルシアン公子様とご一緒に、我がアーヴェル家の夜会へお越しください!!」
「……もちろんですわ。ちょうどお返事もお送りしたところです」
エリーゼの茶会へ出席したエルナは、着席するや否や、珍しく必死な形相のクレアに両手を掴まれ、思わずこくりと頷いた。
「ありがとうございます!」
「去年はご都合が合いませんでしたから、今年はぜひ、お二人を我が家でお迎えしたかったのです」
「クレア様のご招待ですもの。喜んで伺いますわ」
公爵夫人へ相談したところ、「次期公爵夫妻として出席なさい」と快く送り出してくれた。
公爵夫妻は、同日に催されるマリステラ侯爵家の夜会へ出席する予定だ。
「去年はオリヴィア様にお越しいただきました。今年も、お待ちしております」
「……客寄せですわね」
オリヴィアがくすりと笑う。
クレアはほんの一瞬だけ視線を逸らしたあと、小さく頷いた。
「……否定はいたしません」
「え?」
「……?」
事情が分からず、エルナとシャルロットが揃って首を傾げる。
「例年、アーヴェル家の夜会は伯爵家を中心に、子爵家や男爵家のご出席がほとんどです。侯爵家以上は、懇意にしている数家ほど」
クレアは淡々と説明を続けた。
「しかも今年は、マリステラ侯爵家の夜会と日程が重なっております」
王国と南方諸国を結ぶ貿易港を治めるマリステラ侯爵家は、王家とも縁の深い名門侯爵家だ。
王太子夫妻も毎年出席するため、招待客の多くがそちらへ向かうことは避けられない。
「ですが、今年はエルナ様もお越しくださいます」
そこまで言うと、クレアは真面目な顔で続けた。
「エルナ様がお越しになるところに、ルシアン公子ありです」
「クレア様……」
エルナは困ったように笑った。
「私は、アーヴェル家の夜会が少しでも賑わえば、それで十分です」
それは嘘ではなかった。
「私は今年もアーヴェル家へ伺いますわ」
オリヴィアが紅茶を口に運びながら微笑む。
「クレア様とは去年、『来年も』と約束しておりますもの」
「ありがとうございます」
クレアが深々と頭を下げる。
「ただ、父と母、それに姉夫婦はマリステラ侯爵家へ出席いたしますわ」
「侯爵家としては、そちらへご挨拶しなければなりませんものね」
エリーゼが穏やかに頷いた。
「シャール。あなたは私たちとご一緒に、マリステラ侯爵家へ参りましょうね」
「分かっていますわ……」
シャルロットは少しだけ頬を膨らませる。
「でも、私もクレア様のおうちの夜会へ行きたかったですわ」
その素直な一言に、お茶会の面々から自然と笑みがこぼれた。
◇ ◇ ◇
アーヴェル伯爵家の夜会は、例年にも増して賑わいを見せていた。
落ち着いた歓談を好む伯爵家らしく、華美な装飾や派手な催しはない。それでも今年は、広間のあちこちで談笑の輪が広がり、穏やかな熱気に包まれている。
理由は明らかだった。
ヴァレリオン公爵家の次期公爵夫妻が出席する。
その知らせは、社交界を静かに駆け巡っていたのだ。
エルナがルシアンの手を取り、アーヴェル伯爵邸の扉をくぐると、真っ先にクレアが出迎えた。
今日は主催家の令嬢らしく、いつもの夜会用ドレスよりも刺繍やレースがふんだんにあしらわれ、宝飾品も華やかさを添えている。
「お待ちしておりました、ルシアン公子様、エルナ様。両親はこちらでございます」
胸をなで下ろすように一礼したクレアが視線を向ける先では、一組の夫妻が客人たちと穏やかに歓談していた。
二人とも眼鏡を掛け、どこか知的で落ち着いた空気を纏っている。
クレアに気づいた伯爵夫妻は、談笑を切り上げると、柔らかな笑みを浮かべてルシアンとエルナのもとへ歩み寄った。
「父上、母上。本日の主賓です」
「…………」
淡々とした娘の紹介に、伯爵夫人が小さくため息をついた。
「クレア。ご友人とその婚約者様とはいえ、『主賓』ではなく、お客様でしょう?」
「失礼いたしました」
クレアは表情一つ変えず、言い直す。
「ヴァレリオン公爵家次期当主、ルシアン公子様と、ノルドガルド辺境伯家令嬢、エルナ様です」
あっさりと紹介を終えた娘に、伯爵夫妻は顔を見合わせて肩をすくめると、ルシアンとエルナへ向き直った。
「娘の無礼をお許しください。ようこそお越しくださいました、ルシアン公子、エルナ様。本日はアーヴェル家へお越しいただき、誠にありがとうございます」
「ご招待いただき、ありがとうございます。伯爵の幅広いご交友は、私もかねてより伺っております。本日は父に代わり、ご挨拶に参りました」
ルシアンが一礼すると、エルナも続く。
「お招きいただき光栄です。クレア様には、いつもたくさんのお話を教えていただいております。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
礼を尽くす二人の姿に、伯爵夫妻はどこか安堵したように表情を和らげた。
「お会いできて嬉しく思いますわ、エルナ様。クレアからは、いつもあなたのお話を聞いておりますの」
「私、ですか?」
不思議そうに首を傾げるエルナに、クレアは眼鏡をそっと押し上げた。
「エルナ様は、私の大切な友人ですから」
『本当に友人としてだけかしら?』
そう茶化してくれるオリヴィアは、今はこの場にはいない。
代わりに、ルシアンの眼鏡へ親しげな視線を向けながら口を開いたのは伯爵だった。
「公子も読書をなさるのですか?」
「……仕事の資料を読むことが多いですね」
「殿下の側近としてご活躍だと伺っております」
「最近は、野外活動に関する技術書なども読むようになりました」
「ほう、それは興味深い」
公務以外の話題で穏やかに言葉を交わすルシアンは、どこか新鮮だった。
その様子を見つめながら、エルナは自然と口元を綻ばせる。
(素敵なご両親ですわね)
そこへ、新たな招待客の到着が告げられた。
「失礼いたします。また後ほど、ぜひごゆっくり」
伯爵夫妻は名残惜しそうに微笑み、迎えのため玄関へ向かっていく。
「それでは、お二方は私が大広間までご案内いたします」
クレアに促され、ルシアンとエルナは頷く。
いつものようにルシアンの手を取ると、エルナはクレアの案内で大広間へと向かう。
扉が開き、二人が姿を現した瞬間、穏やかな談笑に包まれていた広間は、一瞬だけ静まり返った。
エルナのドレスは、辺境伯家を象徴する深緑と銀を基調としながらも、公爵家の名代としてルシアンと並び立つため、深い紺色と金糸が上品に織り込まれている。
辺境伯家の令嬢であり、未来の公爵夫人でもある。
その二つの立場を映すような一着だった。
ふと視線を巡らせると、招待客たちと次々に目が合う。
好奇心、憧れ、緊張――さまざまな眼差しが二人へ注がれていた。
その静寂を破ったのは、クレアだった。
「皆様、ヴァレリオン公爵家次期当主、ルシアン公子様と、ノルドガルド辺境伯家令嬢、エルナ様がお越しくださいました」
凛とした声が広間へ響く。
クレアは二人を広間の中央まで案内すると、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。
「お二人とも――本日は、何卒よろしくお願いいたします」
その眼差しには、主催家としての責任と、友人としての信頼が込められていた。
ルシアンとのダンスを終えたエルナは、瞬く間に令嬢や夫人たちの輪に迎えられた。
大広間へ到着した直後から次々と声を掛けられていたが、人の波は途切れる気配がない。
ふと視線を巡らせると、少し離れた場所でオリヴィアと目が合う。
オリヴィアは「頑張って」とでも言うように、優しく微笑んで頷いた。
さらにその先では、ルシアンが令息や各家の当主たちに囲まれ、街道整備や徴税、領地運営について語り合っている。
一方のクレアは、歓談の合間を見つけるや否や手帳とペンを取り出し、伯爵夫人に「後にしなさい」と穏やかに窘められていた。
「エルナ様、いつもの深緑のドレスも素敵ですが、本日の紺色もよくお似合いです」
「ありがとうございます。ルシアン様も一緒に選んでくださいました。――そのリボンとお揃いの耳飾り、とても素敵ですわ」
「辺境伯家の夜会、とても楽しかったです。北部は雪が多いと伺いましたが、大変ではありませんの?」
「お越しいただき、ありがとうございました。北部は雪が降ることを前提に暮らしておりますので、慣れてしまえば不便ばかりではありませんわ。晴れた日の雪景色は本当に美しくて、空気も澄んでおりますの」
「公爵邸で夫人教育を受けていらっしゃると伺いました。大変ではございませんか?」
「公爵様も使用人の皆様も親切ですし、何より奥様がいつも温かく導いてくださいますので、安心して学ばせていただいております」
ヴァレリオン次期公爵夫人は、春の日差しのような方。
その噂は、本当だった。
誰かを卑下することもなく、過度に持ち上げることもない。
相手の言葉に耳を傾け、必要なら一歩引き、必要ならそっと手を差し伸べる。
その距離感が絶妙で、気づけば誰もが彼女の前では肩の力を抜いている。
真っ直ぐで眩しい夏の日差しのようなシャルロット王女とは、また違う。
エルナのそばにいると、張り詰めていたものが、いつの間にかほどけていく。
春の日差しのような温もり。それが、今のエルナを知る者たちの評判だった。
「……公子様ったら、またエルナ様をご覧になっていらっしゃるわ」
「エルナ様も、時折公子様を目で追っていらっしゃいますもの」
「本当に仲睦まじいこと」
『薄氷の貴公子』と呼ばれる青年も、婚約者の前では別人なのだと、誰もが微笑ましく見守っていた。
エルナもまた、何気なくルシアンへ視線を向ける。
街道の整備や野盗対策、野獣被害について語る横顔は真剣そのものだった。
同じ広間にいる。視界に入れば、すぐ見つけられる。それなのに今日は、一言二言交わす時間さえない。
辺境伯家の賑やかさとは違う、人に囲まれる慌ただしさ。
楽しいはずなのに、胸のどこかが少しだけ落ち着かなかった。
「公爵夫人様とは仲がよろしいと伺いましたが、私はどうにも義母との会話が続かなくて……」
「あら。普段はどのようなお話をなさっているのですか?」
相手の話に耳を傾け、何を求めているのかを考え、言葉を返す。
ルシアンもきっと、自分以上に巧みに相手と向き合っているのだろう。
ふと視線を上げると、ちょうどルシアンと目が合った。
青い瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかく細められる。
それだけで、自然と口元が綻んだ。
その夜、最後のダンスが始まるまで、エルナがルシアンと言葉を交わす機会は訪れなかった。
◇ ◇ ◇
アーヴェル伯爵家の夜会も幕を閉じ、エルナは公爵家の馬車へ乗り込んだ。
ほどなくして、いつものようにルシアンが隣へ腰を下ろす。
扉が閉まり、馬車が静かに走り始めた。
ようやく肩の力が抜けたエルナは、小さく息をついて背もたれへ身を預ける。
ルシアンは眼鏡を胸元へしまうと、エルナへ微笑みかけた。
「今日はよく頑張ったな。疲れただろう」
「はい……。でも、ルシアン様はいつもこのようなお役目をこなしていらっしゃるのですね」
夜会がない日でも、ルシアンは晩餐会や懇談会、会議へ招かれ、屋敷を空けることが少なくない。
たった一晩で頭も気力も使い果たしたというのに、それがルシアンにとっては日常なのだ。
「いつものことだ。気にするようなことではない」
何でもないことのように答えるルシアンに、エルナは改めてその横顔を見つめた。
「ルシアン様は、本当にすごい方です」
自然と背筋を伸ばすエルナを見て、ルシアンはわずかに口元を緩める。
「そのまま楽にしていればいい」
「いえ、ルシアン様が隣にいらっしゃると、少し元気が出てきました」
「……それは良かった。無理はするな」
「はい」
それから二人は、夜会で誰とどのような話をしたのかをゆっくりと語り合った。
穏やかな時間はあっという間に過ぎ、気がつけば馬車はヴァレリオン公爵邸へ到着していた。
◇ ◇ ◇
「父上へ報告をしてくる。エルナは先に休むといい」
公爵邸へ戻ると、ルシアンはそう言い残し、公爵の執務室へ向かっていった。
エルナも自室へ戻ろうとしたところで、使用人に静かに呼び止められる。
「エルナ様。奥様が私室でお待ちでございます」
「奥様が……?」
不思議そうに首を傾げながら使用人の後について行くと、公爵夫人の私室では、クラリスがソファに腰掛け、湯気の立つ紅茶を前にエルナを待っていた。
髪はすでに下ろしているものの、まだ夜会のドレス姿のままだ。
帰邸してから、それほど時間は経っていないのだろう。
「いらっしゃい、エルナ」
柔らかな笑みで迎えられ、エルナも向かいのソファへ腰を下ろす。
ほどなくして使用人が温かな紅茶を運び、静かな夜の語らいが始まった。
「おかえりなさい。今日はどうでしたか?」
「ただいま戻りました、奥様。……今日は、たくさんの方とお話をさせていただきました」
ルシアンがアーヴェル伯爵と読書の話で盛り上がっていたこと。
ダンスよりも歓談や相談を受けることの方が多かったこと。
ルシアンは令息や各家の当主たちと、領地や政について話をしていたこと。
クレアが主催家の令嬢として立派に務めを果たしていたこと。
エルナの報告を、公爵夫人は時折頷きながら、最後まで穏やかな笑みで聞いていた。
「辺境伯家の賑やかさと、夜会の賑わいは違うでしょう。今日はいつも以上にお疲れだったのではありませんか?」
「……はい。少しだけ。ルシアン様にも同じことを言われてしまいました」
「そうでしょうね」
夫人はくすりと微笑む。
「ですが、今日のようなことにも慣れなければなりません」
エルナは姿勢を正した。
「次期公爵夫人として、皆様とお話をし、親交を深めることも大切なことですから」
その瞳には、迷いはなかった。
ただひたすら前を向き、少しでも公爵家の力になろうとしている。
そんなエルナを見つめ、公爵夫人は小さく 息をついた。
「そういうところよ」
「……?」
「今日は辺境伯家の皆様もいらっしゃいませんでした。それに、ルシアンともあまり一緒にいられなかったのでしょう?」
その言葉に、エルナは少しだけ考え込む。
「……そうですね」
最初と最後のダンス。
それ以外は、それぞれ招待客に囲まれ、一言二言しか言葉を交わせなかった。
「ですが、皆様にとても親しくしていただきました。それも大切なお務めです」
自分に言い聞かせるように答えるエルナを見て、公爵夫人は静かに微笑んだ。
「もう少し早く、お話ししておくべきでしたね」
「奥様?」
「……エルナ。家族と夫婦は、少し違うのですよ」
思いがけない言葉に、エルナは首を傾げる。
「夫婦は……家族ですよね?」
何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。
不安そうに見つめるエルナへ、公爵夫人は優しく頷いた。
「ええ。あなたも、いつかわかりますよ」
そう答えてから、少しだけ目を細める。
エルナはその意味が分からず、小さく瞬きを繰り返した。




