王都編2-9 辺境伯家夜会
ノルドガルド辺境伯邸では、数日後に控えた夜会の準備で慌ただしい日々が続いていた。
エルナと共に出欠確認の最終確認をしていたヒルダは、招待客一覧へ目を通し、思わず呟く。
「ローゼンベルク侯爵家に、アーヴェル伯爵家……アイゼンベルク公爵家は、今年はご夫妻でいらっしゃるのね」
他にも、一昨年までは見かけなかった家名がいくつも並んでいる。
今年はずいぶんと顔ぶれが変わったものだ。
「王太子ご夫妻はご欠席……あら、王女殿下はいらっしゃるの!?」
何度も招待客一覧を見返すヒルダを見て、エルナも不思議そうに首を傾げた。
「シャルロット殿下は去年もお越しくださいましたが、確かに今年からという方も多いですわね」
ヒルダは昨年、産後間もなかったため辺境伯領で留守を預かっていた。
出欠リストへ改めて目を落とすが、自分と親交のある家々とはあまり重ならない。
「エルナの知り合いかしら?」
「そうですね……」
エルナは一覧を覗き込み、一つひとつの家名を指先でなぞっていく。
「ローゼンベルク侯爵令嬢とは、お茶会でご一緒しております。アーヴェル伯爵令嬢も同じですわ。この家は公爵家主催の夜会でご挨拶をいたしました。この方は――」
聞けば聞くほど、王都で築いてきた縁が少しずつ広がっていることが分かる。
(まったく、この子は……)
まだエルナ自身も詳しく知らない家もあるのだろう。
それでも、辺境伯令嬢として、あるいは次期公爵夫人として、新たな縁を結びたいと考える家々が増えてきた証でもあった。
昨年、初めて社交界へ送り出した義妹は、いつの間にか王族や名門貴族とも親しく交流する令嬢へと成長していた。
(本当に、大きくなったわね)
夜会の準備リストを真剣な表情で見つめるエルナに、ヒルダはそっと微笑んだ。
◇ ◇ ◇
ノルドガルド辺境伯邸には、招待時間より少し早く、ヴァレリオン公爵家が到着した。
「今年もルシアン様が一番お早いのですね」
「支度が早く終わったんだ」
エントランスホールで、にこやかに言葉を交わす二人を見て、公爵夫人はそっと微笑む。
(正確には、終わったのではなく終わらせた、でしょうけれど)
すべては、主催家として忙しく立ち働くエルナと、一分でも長く同じ時間を過ごすためだ。
その頃には、公爵と辺境伯はすでに領地のことや軍議の話へ花を咲かせている。
「ルシアン様、どうぞ」
「いつも助かる」
エルナはルシアンをソファへ促し、用意しておいたランチボックスを使用人に運ばせる。
間もなく、香り高い紅茶も運ばれてきた。
ルシアンは慣れた手つきで蓋を開けると、何のためらいもなくサンドイッチを口へ運ぶ。
「……あなたたち、何をしているの?」
思わず公爵夫人が尋ねた。
「軽食です」
「見れば分かります」
辺境伯家の面々は誰一人として不思議そうな顔をしない。
「ルシアン様は夜会では軽食を召し上がることがほとんどありませんので、いつも迎えに来てくださった時に、お渡ししておりますの」
「……そういうことね」
言われてみれば、確かに夜会で息子が食事をしている姿を見た記憶はほとんどない。
辺境伯家では、いつの間にか恒例になっていたらしい。
以前は何度注意しても聞かなかった息子が、今はエルナの隣で大人しくサンドイッチを頬張っている。
その様子に、公爵夫人は思わず目を細めた。
エルナはアルヴィンへそっと目配せをすると、ルシアンへ微笑む。
「最終確認がありますから、また後ほど伺いますね」
「ダンスの前には迎えに行く」
「はい」
「私も先に大広間へ参ります」
「どうぞ」
エルナのあとを、公爵夫人もゆっくりと歩き出した。
大広間では、北部の特産品を使った軽食や菓子が並べられ始め、鹿角細工や白樺細工を用いた飾り付けが、会場へ落ち着いた華やかさを添えている。
北部らしい質実剛健さはそのままに、去年より柔らかな印象を受けた。
公爵夫人は会場を見渡し、小さく頷く。
「去年より、休憩用の椅子とテーブル装飾が増えたかしら?」
「はい。今年はご令嬢方も多くお越しになりますし、他家の夜会と比べますと、昨年は少し控えめだったように思いまして。お母様へ提案させていただきました」
「このくらいがちょうど良いわ」
「ありがとうございます」
嬉しそうに一礼すると、エルナは再び使用人たちのもとへ向かい、配置の最終確認を始めた。
その背中を見送りながら、公爵夫人が目を細めていると、辺境伯夫人が穏やかに声を掛ける。
「去年より、頼もしくなったでしょう」
「ええ。そのようね」
「あなたのおかげではなくて?」
辺境伯夫人は穏やかに微笑んだ。
「冬の間、あれほど見てくださいましたもの」
公爵夫人は小さく首を横に振る。
「いいえ。気づいたのは、あの子自身です」
「そう……」
「私は、少し背中を押しただけよ」
感心したように頷いた、その時だった。
「クラリス様」
ひょっこりとヒルダが顔を覗かせる。
「自慢の義妹ですから、大切にしてあげてくださいませ」
公爵夫人は思わず目を丸くし、やがて穏やかに笑った。
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
初めてノルドガルド辺境伯家の夜会へ出席したオリヴィアとクレアは、主催家の面々を見渡し、小さく頷き合った。
――この家あって、エルナあり。
辺境伯は節度を保ちながらも客人たちと豪快に笑い合い、辺境伯夫人は鷹揚な微笑みを絶やさない。
次期辺境伯アルヴィンは柔軟さと芯の強さを兼ね備え、その隣に立つヒルダは明るく、転んでもただでは起きなさそうな逞しさがある。
領地には戦の英雄と称えられる初代辺境伯がおり、人懐っこい次男もいると聞く。
賑やかでありながら、どこか居心地の良い空気が屋敷全体を包んでいた。
「この方々が北部を守っていらっしゃるのですね……」
クレアが静かに手帳へペンを走らせていると、エルナが二人のもとへやって来た。
「オリヴィア様、クレア様。本日はお越しくださり、ありがとうございます」
一礼するエルナへ、二人も笑顔で挨拶を返す。
「素敵なご家族ですこと」
「エルナ嬢がこのようなお人柄になられた理由が、よく分かりました」
「ありがとうございます……?」
クレアの言葉に少し首を傾げながらも、エルナは嬉しそうに微笑んだ。
その時、大広間が歓声と拍手に包まれる。
どうやら、辺境伯夫妻と次期辺境伯夫妻によるファーストダンスが始まったようだった。
辺境伯夫妻の踊りは、長年連れ添った夫婦らしく穏やかで安定感がある。
一方、アルヴィンとヒルダは格式を崩さないまま、ターンや支え方に若々しい勢いがあり、自然と目を惹きつけられた。
「楽しそうなご夫婦ですこと」
「辺境伯ご夫妻とは対照的ですね」
「お兄様もお義姉様も、今日は一段と楽しそうですわ」
エルナも嬉しそうに頷く。
やがて二組のダンスが終わると、聞き慣れた穏やかな声が響いた。
「エルナ」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
差し出された手を、エルナは迷うことなく重ねる。
「はい、ルシアン様」
「ご令嬢方、失礼する」
オリヴィアとクレアへ軽く一礼すると、ルシアンはごく自然な所作でエルナをホールの中央へ導いていった。
「『一曲お願いできますか』すら仰らないのですね」
「こういうところだけは、お二人とも息がぴったりです」
思わず感心する二人の前で、ルシアンとエルナが踊り始めた。
静かに流れるような二人の踊りに、派手な技はない。
それでも、一歩一歩が美しい。
ルシアンはエルナが最も踊りやすい歩幅で導き、エルナも何の迷いもなくその歩みに寄り添う。
互いに余計な力は入っておらず、その姿は一枚の絵画のようだった。
やがて曲が終わると、ルシアンはエルナを再びオリヴィアとクレアのもとへ送り届ける。
「また後で」
「はい」
自然に微笑み合う二人を見て、オリヴィアとクレアも思わず口元を緩めた。
ルシアンとのダンスを終えたエルナは、主催家の令嬢として、そして次期公爵夫人として、招待客への挨拶や歓談に追われていた。
その合間にも、ダンスの誘いは絶えない。
「エルナ様、今日はいつもよりお誘いが多いですわね」
休憩用の長椅子へ腰掛けたオリヴィアが微笑む。
その隣では、クレアが手帳へ静かにペンを走らせていた。
「日頃はルシアン公子の存在がありますから。今日は既に、いつもの夜会より多くお誘いを受けています」
「……よく記録していますわね」
視線の先では、エルナが子爵家嫡男と穏やかに踊っている。
洗練されたダンスではあるが、ルシアンほど流れるようではない。
一方、シャルロットはジークと踊っていた。
ダンスの最中に何か囁かれたのだろう。シャルロットの表情が、ころころと愛らしく変わっていく。
王女と公子の可憐な踊りは、見ているだけで頬が緩んだ。
「クレア様は、今日も壁の花でいらっしゃるの?」
「お誘いいただければ踊りますが、私の目的は観察です」
気配を消したクレアがダンスフロアへ立つことは稀だった。
もっとも、一度踊れば初めての相手とも歩幅もリズムも寸分違わず合わせてしまうのだから、それはそれで末恐ろしい。
「オリヴィア様こそ、社交界の華が壁際でよろしいのですか?」
「今日はエルナ様の夜会ですもの。主役を差し置くわけにはいきませんわ」
ふっと笑みを浮かべる。
「……私が踊った回数も記録しているのでしょう?」
「当然です」
クレアは頷いた。
相手の男性を自然と引き立てながら、視線や所作だけで会場の人々まで魅了してしまう。
そんなオリヴィアの踊りも、しっかり記録済みだった。
ふとクレアが視線を上げる。
「ルシアン公子は、エルナ様がお忙しいのをいいことに、今日も大人気ですね」
令嬢や夫人たちに囲まれ、ルシアンは一人ひとりへ丁寧に応対している。
「ええ。でも――」
オリヴィアはくすりと笑った。
「視線だけは、エルナ様ばかり追っておりますけれど」
そんな雑談をしているうちに、今度はオリヴィアへ令息たちが歩み寄ってきた。
視線だけでクレアへ別れを告げると、オリヴィアは優雅に輪の中へ加わっていく。
一人残ったクレアは、再び静かにペンを走らせた。
ダンスを終えたエルナは、軽く息を整えながらクレアのもとへ戻った。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
ふと視線を上げると、ルシアンはいつものように令嬢や夫人たちに囲まれていた。
辺境伯家の夜会とはいえ、相変わらずの人気ぶりだ。
「やはり、ルシアン様は人気者ですね」
そう呟いた時だった。
会話の合間に、一人の令嬢が親しげにルシアンの腕へ手を伸ばす。
けれどルシアンは、話を続けながら自然に半歩身を引き、その手は触れることなく空を切った。
その様子を見た瞬間――
「……」
胸の奥から、小さく息が漏れる。
「……今、安心しました?」
隣で静かに見守っていたクレアが、不意に口を開いた。
「え?」
思わず聞き返す。
安心。何に、だろう。
あの日から一か月以上が経っている。ルシアンの腕はとっくに治っているはずだ。
心配する理由など、もうない。
それなのに、ほんの一瞬、「よかった」と思った自分がいた。
「……」
エルナは答えを見つけられないまま、もう一度ルシアンへ視線を向けた。




