王都編2-5 ローゼンベルク侯爵家夜会
辺境伯邸の談話室では、ルシアン、辺境伯、アルヴィンの三人が夜会用の礼服に身を包み、トランプに興じていた。
今遊んでいるのは、最初の手札こそ運に左右されるものの、その後は駆け引きと読み合いが勝敗を分けるゲームだ。
ローゼンベルク侯爵家の夜会へ向かうため、女性陣はまだ身支度の最中。
夕日が差し込む談話室には、静かな緊張感が漂っていた。
「これでどうだ……」
今度こそ――。
アルヴィンは手札で温存していた一組のカードを、ゆっくりと場へ置く。
「……」
「悪いな、アルヴィン」
無言のままルシアンがカードを重ねる。
さらに辺境伯も、何食わぬ顔でカードを重ねた。
「どうして二人とも、いつも息ぴったりなんだ!」
「合わせたつもりはない」
「ないな」
ルシアンは場に出たカードと残る手札から、辺境伯とアルヴィンの手札を読み切っていただけ。
辺境伯もまた、ルシアンとアルヴィンの手札を読み、その一手を選んだにすぎない。
互いに相手を読んだ結果、選ぶ手が偶然一致しただけだった。
「そんな偶然が毎回あるか!」
頭を抱えるアルヴィンへ、二人は涼しい顔を向ける。
その時、談話室の扉が軽く叩かれた。
「失礼いたします」
ノックとともに、夜会の支度を終えたヒルダが姿を現した。
「また来ていたの?」
「当たり前だ」
あまりにも当然と言わんばかりの返事に、ヒルダは眉をひそめた。
夜会があれば、ルシアンは必ずエルナを迎えにやって来る。
それだけならまだしも、ここ最近は毎週エルナの予定を確認し、時間が合えば早めに辺境伯邸へ来ては、こうして家族とくつろいでいた。
他家でのお茶会が終わる頃を見計らい、そのまま迎えに行ったこともあるらしい。
「……暇なの?」
「まさか」
疑いの眼差しを向けるヒルダへ、ルシアンは肩をすくめた。
「殿下に一日の仕事量を制限されただけだ。終わったら帰っていいと言われている」
「……それで仕事を早く終わらせて、うちへ来ていたのね」
「ああ。会議がある日は時間が読めなくて困る」
「……でしょうね」
呆れ返るヒルダの横で、辺境伯とアルヴィンは苦笑を浮かべる。
そこへ、夜会の支度を終えた辺境伯夫人とエルナが談話室へ姿を現した。
「お待たせいたしました」
「辺境伯たちとトランプをしていた。待ってはいない」
「そうでしたのね」
エルナは安心したように微笑む。
ルシアンはドレス姿のエルナへ目を向けると、小さく満足そうに頷いた。
手早くトランプを片付け、そのままエルナの前へ歩み寄る。
自然な動作でその手を取り、辺境伯へ一礼した。
「頼んだぞ」
「もちろんです」
短いやり取りを交わすと、ルシアンはエルナを伴い、一足先に談話室を後にした。
◇ ◇ ◇
ローゼンベルク侯爵家の夜会は、華やかさの中にも落ち着きを感じさせる空間だった。
友人として招かれたシャルロットは、次々と声を掛ける貴族たちと談笑し、クレアは壁際で手帳へ静かにペンを走らせている。
エルナとルシアンが人の流れの合間で言葉を交わしていると、オリヴィアが優雅な足取りで近づいてきた。
「お楽しみいただいているかしら」
長い睫毛を伏せるように微笑む姿に、エルナは思わず見とれてしまう。
大きく開いた首元を彩る宝石も、美しく肩を見せるドレスも、彼女が身につければ飾りではなく、その美しさを引き立てるために存在しているようだった。
今日のオリヴィアは主催家の令嬢として、いつも以上に華やかだ。
まるで夜に咲く、一輪の薔薇のようだった。
「オリヴィア様……とってもお美しいです」
思わず漏れた感嘆の声に、オリヴィアは柔らかく微笑む。
「あなたに褒められると、悪い気はしませんわね」
「いつも素敵ですが、今日は特にです」
「エルナ様も十分可愛らしいですわよ」
頬を緩めるエルナを見届けると、オリヴィアはゆっくりとルシアンへ向き直った。
「ヴァレリオン公子様も、ごきげんよう」
「ご招待いただき、ありがとうございます。ローゼンベルク嬢」
挨拶を交わしたオリヴィアは、ふっと意味ありげに微笑む。
「……それで、毎回エルナ様をお迎えにいらっしゃっているそうですわね」
「婚約者ですから」
艶のある声で話しかけられれば、多くの男性は自然と表情を和らげる。
だが、ルシアンはいつも通り淡々としていた。
「そこまでなさる婚約者は、そうそうおりませんわ」
「問題はないかと思いますが」
少しも揺るがない返答に、オリヴィアは肩をすくめる。
「ルシアン様は、昔からお優しいのです」
隣でエルナが嬉しそうに微笑む。
「エルナ様へのように、もう少し親しくお話しになれば、令嬢方も喜びますのに」
「その必要はございません」
「ルシアン様は、いつも皆様へ丁寧ですわ」
「……そういうことではありませんのよ」
「?」
二人とも、まるで伝わっていない。
オリヴィアは小さくため息を飲み込み、壁際からこちらを見ていたクレアへそっと目配せした。
「それでは、引き続き夜会をお楽しみくださいませ」
見る者を惹きつける鮮やかな笑みを残し、オリヴィアは次の客人のもとへ歩み去っていった。
「やっぱりオリヴィア様は素敵です」
「そうか?」
オリヴィアの後ろ姿をうっとりと見送るエルナ。
その横顔を、ルシアンは静かに見つめていた。
オリヴィアが去ると、ルシアンの周囲には再び幾重もの人垣ができていた。
ようやく人の流れが落ち着いたエルナは、少し離れた場所で軽食を楽しんでいた。
今日のお気に入りは、薄く切り分けられたローストチキンだ。香ばしく焼き上げられた鶏肉に甘酸っぱいオレンジソースがよく合い、思わず頬が緩む。
昨年はもう少しゆっくり食事を楽しめた気がするが、最近は意識して食べなければ、気づけば何も口にしないまま夜会が終わってしまうことも多い。
(シャルロット様は、デザートだけは制覇すると仰っていましたが……流石ですわ)
王女であるシャルロットのもとには絶えず人が集まる。それでも笑顔を絶やさず、ちゃっかり甘味を楽しんでいるのだから大したものだ。
夜会も後半に差しかかり、大広間を見渡す。
ルシアン、シャルロット、オリヴィア。
男女の比率こそ違えど、三人の周囲には相変わらず人の輪が絶えなかった。
その時、ふとエルナはあることに気づく。
(そういえば……ルシアン様がお食事を召し上がっているところ、見たことがありませんわ)
手にしているワイングラスは何度も見かけた。
けれど、料理へ手を伸ばしている姿は――。
(今年だけではありませんわ。昨年も、一度も……?)
思い返せば思い返すほど、その記憶はなかった。
(どうして、今まで気づかなかったのでしょう)
祖父から教わった言葉が脳裏をよぎる。
――食べられる時に食べろ。
北部で生きる者にとって、それは当たり前の教えだった。
(これはいけませんわ)
ルシアンは夜会へ来れば、いつだって多くの人に囲まれている。
あれでは食事を取る時間などないのも無理はない。
エルナは小さく頷いた。
(そうですわ。迎えにいらしてくださった時に、軽食をご用意いたしましょう)
最近は迎えに来る時間も少し早い。
今日も辺境伯やアルヴィンとトランプをして待っていてくれたのだから、政務で遅くならない限り、食事をする時間くらいはあるはずだ。
(馬車の中でも召し上がれるものが良いですわね)
料理長へ相談してみよう。
名案を思いついたエルナは満足そうに頷き、もう一度ルシアンへ視線を向けた。
いつの間にか、その周囲には先ほどよりもさらに多くの令嬢や夫人たちが集まっていた。
(あら……)
いつの間にか、ルシアンの周囲には令嬢や夫人たちの姿が増えていた。
皆、穏やかな笑みを浮かべながら言葉を交わし、その眼差しにはどこか熱を帯びたものが宿っている。
(あの方は、よくルシアン様へ話しかけていらっしゃいますわね……)
隣に立つ夫人も、以前の夜会でルシアンと談笑していた姿を見かけたことがある。
何を話しているのだろう。
気になって耳を澄ませると、聞こえてきたのは巷で話題の観劇や、最近流行している宝飾品の話だった。
公爵領は宝飾品で名高い。何か新しい情報を聞こうとしているのだろうか。それとも、観劇にも関係がある話なのだろうか。
もっとも、職人たちの仕事について、ルシアンがこのような場で詳しく語るとは思えなかった。
それでもルシアンは、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、一人ひとりの話へ丁寧に耳を傾けている。
銀の髪に澄み切った青い瞳。礼節を崩さないその佇まいは、どこか薄氷のように美しく、近寄りがたささえ感じさせた。
(……社交とは、このようなものですわね)
人気者であるルシアンの周囲から、人の輪が途切れることはない。
今夜もきっと、ゆっくり食事をする時間はないのだろう。
(やはり、片手でも召し上がれるものが良さそうですわ)
サンドイッチなら礼服を汚す心配も少なく、馬車の中でも食べやすい。
料理長へ相談する内容が一つ増えたことに、エルナは小さく頷いた。




