王都編2-2 はじまりの王宮舞踏会
今夜は、王宮で開かれる社交シーズン最初の舞踏会だった。
昨年と同じように、ルシアンはエルナを迎えに辺境伯邸を訪れる。
「それでは、お預かりします」
「またあとでね、エルナ」
「妹を頼みました」
「お任せください」
穏やかに微笑む兄夫婦へ一礼すると、ルシアンが静かに左手を差し出した。
「行こうか」
「……はい」
控えめにその手を取ると、優しく握り返される。
馬車へ乗るときも。王宮へ降り立つときも。その手は、決して離れることはなかった。
王宮へ到着した一行は、両家揃って王家へ挨拶をする。
国王へは格式どおりの礼を尽くす。
だが、その隣では――
レオンハルトがどこか切実そうな表情を浮かべ、エリーゼは穏やかに微笑み、シャルロットは期待に満ちた瞳を輝かせていた。王妃と王太后もまた、温かな眼差しで二人を見守っている。
挨拶を終えると、ルシアンは迷うことなくエルナのもとへ歩み寄った。
そして何も言わず、いつものように左手を差し出す。
エルナもまた、慣れた手つきでその袖をそっとつまんだ。
その様子を眺めながら、シャルロットが小さく呟く。
「今年こそ、ですわ」
「まったくだ」
レオンハルトも深く頷いた。
「あら、お兄様も仲間入りですの?」
「……そうだな」
今年の冬のような騒ぎは、もう二度とごめんだった。
◇ ◇ ◇
レオンハルトとエリーゼが手を取り合い、大広間の中央で優雅に舞う。
美男美女の華やかなファーストダンスに、誰もが目を奪われていた。
その姿を見つめながら、エルナはルシアンにだけ聞こえる声でそっと囁く。
「ダンスの時は、そんなに支えていただかなくても結構です」
「大丈夫だ」
あまりにもあっさりと返され、エルナは小さく唇を結んだ。
本当に、大丈夫なのだろうか。
父は一目見ただけで、左腕の怪我に気付いていた。完治したとは思えない。
それなのに、迎えに来た時からルシアンは普段と何一つ変わらない様子だった。
これ以上気を遣うのは、かえって失礼なのだろうか。
(私がルシアン様をお支えいたしますわ)
少しでも負担を減らせるように。
そう心に決めた、その時だった。大広間に拍手が響き渡る。
王太子夫妻のファーストダンスが終わり、舞踏会は本格的に幕を開けた。
踊るもよし、語らうもよし。
華やかな音楽とともに、貴族たちが思い思いに動き始める。
「エルナ」
「はい」
差し出された手を取り、二人はダンスフロアの中央へ歩み出た。
けれど、エルナの決意などお構いなしに。
曲が始まれば、ルシアンはいつもと変わらぬ手つきで彼女を支え、自然に歩幅を合わせ、誰にも気付かれぬよう導いていく。
結局、エルナがルシアンを支える機会は訪れなかった。
◇ ◇ ◇
エルナとルシアンが一曲を踊り終えると、機会をうかがっていた青年貴族や各家の当主たちが、次々とルシアンのもとへ集まった。
「雪害対策では大変勉強になりました」
「各領への指示が見事だったと伺っております」
「どのようなお考えで、あの政策に至られたのですか」
今年の雪害は、公爵領だけの問題ではなかった。
国中が被害を受ける中、ルシアンは物資の流通確保や価格高騰への対策を次々と打ち出し、王宮との連携にも尽力した。その手腕は、社交界でも広く知られるようになっていた。
後ろ髪を引かれるように、ルシアンがエルナへ視線を向ける。
「少し外す」
「はい」
名残惜しそうにその場を離れたルシアンの周囲には、令嬢たちも自然と集まり始める。
(ルシアン様は、相変わらず人気者なのですね)
誰に対しても穏やかな笑みを絶やさず、一人ひとりの言葉へ丁寧に耳を傾ける。
社交シーズン最初の舞踏会だ。話しかけたい者が多いのも当然だった。
少し離れる、と言っていたが――当分戻ってくることはないだろう。
そう思いながら見つめていると、一人の令嬢が親しげにルシアンの左腕へ触れた。
(まだ、お怪我が治っていないのに……)
怪我のことを知る者は、ごくわずかしかいない。
当の本人が何事もなかったかのように振る舞っている以上、気付く者などほとんどいないのだ。
「……エルナ様、ごきげんよう」
不意に声を掛けられ、エルナははっと我に返る。
そこには、ミレイユが微笑んで立っていた。
「冬の間は、公爵領へ滞在されていたと伺いました。ぜひ、お話を聞かせていただけませんか?」
ルシアンを待つ必要はないだろう。
エルナは微笑み返し、挨拶を交わす。
ほどなくして、令嬢や夫人たちが次々と集まり始め、公爵領での暮らしや公爵夫人との視察について尋ねられるまま、言葉を交わしていった。
◇ ◇ ◇
その夜――。
エルナはふと、目を覚ました。
ソフィーも下がった真夜中の寝室。
公爵夫人が用意してくださった部屋よりは狭いが、あの日泊まった宿よりは、ずっと広い部屋だった。
静まり返った空間に身を置くと、不意にあの日の記憶が蘇る。
耳をつんざく轟音。崩れ落ちる納屋。そして、赤黒く血に染まったルシアンの左腕。
「……っ」
エルナは小さく息をのみ、脳裏をよぎった光景を振り払うように目を閉じた。
結局あの後は、お互いの合間を見つけては、ほんの少し言葉を交わしただけだった。
帰り際も、ルシアンはいつものように優しく手を握り返してくれた。
けれど、それ以上は何もなかった。
(……何か、楽しいことを考えましょう)
そう自分に言い聞かせる。
近いうちに、エリーゼから招待されたお茶会が開かれる。
エリーゼも、シャルロットも、オリヴィアもクレアも。
互いの立場を忘れることはなく、それでも心から笑い合える、あの穏やかな時間。
きっとシャルロットは、公爵領での出来事を目を輝かせながら聞いてくるだろう。
その様子を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。
やがてエルナはゆっくりと目を閉じ、静かな眠りへと身を委ねた。




