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公爵領編-11 倒壊

 翌朝。


 朝食を済ませたエルナたちは、宿の中庭で視察の準備を進めていた。


 吹雪で足止めされていた旅人や商人たちは、久しぶりの青空を見上げると、次々と目的地へ向けて出発していく。


 エルナたちも準備が整い次第、まずは村長の家を訪ねる予定だった。


 御者は馬具を締め直し、騎士たちは荷馬車へ荷を積み直す。


 一方、ルシアンは宿の入口で書記官、補佐文官、騎士隊長と今日の巡察経路を確認していた。


 エルナは荷馬車の前で荷物の確認を手伝っていると、宿と中庭を何度も行き来するヨハンの姿が目に入る。


 やがて一人、二人と子どもたちが集まり、誰かを探すように宿の裏や納屋の方へ散っていった。


 納屋から戻ってきたヨハンへ、エルナはしゃがんで目線を合わせる。


「かくれんぼですか?」


「うん! あとトーマスだけなんだ!」


 そこへ、探しに行っていた子どもたちが戻ってきた。


「裏にはいなかった」


「宿の中もいない!」


「どこだろう?」


 首を傾げる子どもたちに、エルナは優しく微笑む。


「トーマスさんは、隠れるのがお上手なんですね」


「そうなんだ。いつも納屋とか裏の物置に隠れるんだ」


「それでしたら、見落としがないように、みんなでもう一度探してみるのはいかがでしょう?」


「それいい!」


「行こう!」


 子どもたちは元気よく駆け出す。


 エルナは宿の門まで歩き、その後ろ姿を見送った。


「トーマスの家の納屋だ!」


「急げ!」


 子どもたちが雪を蹴って走り始めた、その時だった。


 どこかで、重い雪が滑り落ちる音がした。


 エルナははっと顔を上げる。


 視線の先、ヨハンたちが向かっている納屋の屋根が、ゆっくりと沈み始めた。


「とまっ――」


 声は最後まで出なかった。


 次の瞬間、地面まで震わせるような轟音が村中に響き渡る。


 屋根は耐えきれずに崩れ落ち、積もっていた雪と木材が一気に押し潰れるように崩壊した。


 舞い上がった雪煙が視界を真っ白に覆い尽くす。


 誰も動けなかった。


 やがて雪煙がゆっくりと晴れていく。


 そこには、納屋だったものの残骸だけが残されていた。


 青ざめたヨハンが、震える声で呟く。


「……トーマス?」


 ヨハンの呟きは、轟音を聞いて宿から飛び出してきたルシアンの声にかき消された。


「何事だ!?」


「ルシアン様!」


 動揺の収まらないエルナは駆け寄ると、途切れ途切れになりながらも、トーマスのことを必死に伝えた。


 話を聞き終える頃には、騎士や文官たちもルシアンのもとへ集まっていた。


「……事情は分かった」


 ルシアンは倒壊した納屋を一瞥すると、迷いなく指示を飛ばす。


「騎士四名は救助。残る三名は村内を巡回し、危険な建物へ住民を近づけるな。異変があれば即座に報告しろ」


「はっ!」


「書記官は現場指揮の補佐。村長と連携し、安全を確認した者だけで捜索隊を編成してくれ」


「承知いたしました」


「補佐文官は宿を避難所として借りる。負傷者の受け入れと湯の確保を」


「かしこまりました!」


「御者は馬と荷馬車を管理しろ。必要なら荷を降ろせ」


「はっ!」


 よく通るその声に導かれるように、一行はそれぞれの役目へ散っていく。


「エルナ様ぁ……」


 今にも泣き出しそうなヨハンを、エルナはそっと抱きしめた。


「大丈夫です。ルシアン様がおります。ルシアン様なら、きっと何とかしてくださいます……」


 震える小さな背中をさすりながら、何度も「大丈夫」と繰り返す。


 まるで、自分自身に言い聞かせるように。


 その時、不意に胸が締めつけられた。


(何とかしてくださる、だなんて……私は何と無責任なのでしょう)


 ルシアンを支えたいと思っていたはずではないのか。


 それなのに、自分はただ待つことしかできないのか。


 倒壊した納屋から、一人の女性が救い出された。頭から血を流し、足を引きずっている。


 夫とに納屋にいたらしい。


 厳しい表情で現場を見つめるルシアンへ、騎士が駆け寄った。


「閣下! 西の納屋も崩れそうです!」


「住民を近づけるな。騎士一名を応援へ回せ」


 ルシアンは間を置かず、続ける。


「オスカー。他に危険な建物がないか確認して回れ。手の空いている男たちには救助と搬送を手伝わせろ」


「はっ!」


「トーマスは、まだ見つからないのか」


「申し訳ございません! まだです、閣下!」


 決して怒鳴っているわけではない。


 それでも張りつめた空気に気圧され、若い騎士は思わず背筋を伸ばした。


(私に……何かできることは)


 その時だった。


 ヨハンを抱きしめたまま、エルナの脳裏に昨夜の会話がよみがえる。


「……ヨハンさん」


 エルナは肩に手を添えた。


「昨日お話ししていた秘密基地は、どこですか?」


 ヨハンははっと息を呑む。


「あっちの……東の古い納屋……」


 みるみるうちに、その顔から血の気が引いていく。


「ルシアン様!」


 エルナは声を上げた。


「トーマスさんは、東の古い納屋にいるかもしれません!」


 ルシアンの表情が変わる。


 倒壊現場へ目を向けると、ちょうど巡察隊長が指揮を執り始めていた。


 一瞬で判断を下す。


「巡察隊長、この場は任せる」


「はっ!」


「オスカー、私に付いてこい」


「ヨハン、案内してくれ」


 そして最後に、エルナを見る。


「エルナ、来てくれ」


「はい!」


「こっち!!」


 ヨハンが雪を蹴って駆け出す。


 その背を追って、ルシアン、エルナ、オスカーの三人も走り出した。




 東へ向かって走ると、村外れには小さな林が広がっていた。


 真新しい雪の上には、小さな足跡が林の奥へと続いている。


「こっちだ!」


 ヨハンの声に、一同は確信を得て足跡を追った。


 雪に足を取られながら林を抜けると、不意に視界が開ける。


 そこには、三角屋根の古びた納屋がひっそりと建っていた。


 農具置き場にも見える小さな建物だった。


 しかし、その入口は屋根から滑り落ちた大量の雪に塞がれている。


 ヨハンは一目散に駆け寄った。


「トーマス!! いるのか!? 返事しろ、トーマス!!」


 エルナたちも後を追い、納屋の前で思わず息を呑んだ。


 納屋の右側には雪が吹き溜まり、建物全体が右へ大きく傾いている。今にも押し潰されそうだった。


 重みに耐える古い梁が、不気味な音を立てる。


 耳を澄ますと、その奥からかすかなすすり泣きが聞こえた。


「……ヨハン?」


 幼い声だった。


「いるの?」


「トーマス!」


 ヨハンの顔がぱっと明るくなる。


「助けに来た! どこにいるんだ!?」


「……奥のほう……」


 震える返事が返ってきた。


 オスカーが雪を掘ろうと入口へ駆け寄る。


 だが、その腕をルシアンが鋭く制した。


「待て」


 オスカーが振り返る。


 ルシアンは傾いた屋根と吹き溜まった雪へ一瞬だけ目を走らせ、静かに告げた。


「……掘る時間はない」


 正面は雪で完全に塞がれていた。


 右側へ回ると、吹き溜まった雪に押され、納屋全体が大きく右へ傾いている。長くは保たない。


 エルナは反対側へ駆けた。


 左側には小さな窓が一つある。


 屋根裏ではなく、壁の高い位置に設けられた明かり取りの窓だった。大人なら肩を借りれば届く高さだ。


 窓の下には雪がほとんど積もっていない。


 右側へ雪が吹き寄せられた分、こちら側はまだ近づくことができた。


 エルナは梁へ目を向ける。左側にも亀裂は走っている。だが、右ほど沈んではいない。


「ルシアン様!」


 ルシアンが振り返る。


 エルナは窓を指差した。


「入るなら、こちらです。梁はひび割れていますが、まだ持っています」


 ルシアンは納屋全体へ一瞬だけ目を走らせた。


「……行ける」


「オスカー、補強しろ」


「はっ!」


 オスカーは近くに転がっていた丸太を抱え上げると、ひび割れた梁の下へ差し込み、自らの肩で押し上げた。


 梁が軋む。丸太越しにも、その重みが伝わってくる。


 ルシアンは窓枠へ飛びつくと、オスカーの肩を踏み台にして身体を持ち上げ、そのまま納屋の中へ滑り込んだ。


 薄暗い納屋には、崩れた農具や藁が散乱している。


「トーマス」


 納屋の奥で、小さな肩が震えた。


「迎えに来た」


 その一言で、トーマスは堪えていた涙をあふれさせ、ルシアンへ駆け寄る。


 ルシアンは迷わず抱き上げた。


 その時だった。


「閣下!」


 外からオスカーの声が飛ぶ。


「もう持ちません!」


 梁がゆっくりと沈み始める。


 窓まで戻る足元で床がきしみ、天井から雪がぱらぱらと落ちてきた。


 ルシアンは窓際まで駆け寄る。


「エルナ!」


「はい!」


 エルナは両腕を広げ、窓の真下へ駆け込む。


 差し出されたトーマスを、エルナはしっかりと抱き留めた。


「もう、大丈夫ですよ」


 トーマスを胸へ抱き寄せると、そのまま数歩後ろへ下がり、窓の下から離れた。


「閣下……!」


 ひび割れた梁を丸太で支えるオスカーの肩へ、さらに重みがのしかかる。


 丸太がきしみ、梁の亀裂が一気に広がった。


「オスカー、離れろ!」


「ですが、閣下が!」


「命令だ!」


 オスカーが歯を食いしばりながら、後方へ飛び退き、ルシアンが窓枠へ手を掛ける。


 次の瞬間。


 支えを失った納屋は、積もった雪の重みに耐え切れず、その場へ崩れ落ちた。


 舞い上がった雪煙が、一瞬にして四人の姿をのみ込んだ。


「…………」


 エルナは、ただ立ち尽くしていた。


 舞い上がる雪煙の向こうを見つめたまま、思考も、感情も、呼吸さえも止まる。


 先ほど救い出された女性の姿が脳裏をよぎった。


 夫も一緒に納屋へ入っていたという。


 ――では。


 その先を考えた瞬間、


「閣下!! ご無事ですか!」


 オスカーの叫びが静寂を切り裂いた。


 返事はない。


「閣下!!」


「ルシアン様!!」


 我に返ったエルナも声を張り上げる。


 数瞬の沈黙。


 やがて、雪煙の奥から低い声が返ってきた。


「……全員、無事か」


「ルシアン様が無事ではありません!」


 思わずエルナは叫んだ。


 返事があった安堵も束の間、雪煙がゆっくりと晴れていく。


 納屋の右側は屋根ごと押し潰され、完全に崩落していた。


 だが左側だけは、一本の梁が落ちる屋根をかろうじて受け止めている。


 その下に、人が一人入れるほどの隙間が残っていた。


「むやみに入るな」


 瓦礫の下からルシアンの声が響く。


「屋根が動く」


 エルナとオスカーは足を止めた。


「頭も首も無事だ。骨も折れていない」


 周囲を見回す余裕すらある声だった。


「屋根と木片に挟まれて動けないだけだ」


 その落ち着きに、オスカーが息を呑む。


「私が指示する。言った順に屋根と木片を動かせ」


「はっ!」


「はい!」


 ルシアンは瓦礫の下から一本ずつ指示を出す。


「右の細い梁を先に」


「その木片はまだ触るな」


「次に屋根を三寸だけ持ち上げろ」


 一つでも順番を誤れば、屋根が落ちる。


 オスカーは慎重に梁を動かし、エルナは木片を運び出していく。


 やがて、雪と木屑の向こうに銀色の髪が見えた。


「ルシアン様!」


 エルナは駆け寄る。


 空色の瞳は少し疲れた色を帯びている。銀髪は雪と埃にまみれ、上質な外套は木片で裂け、見る影もなかった。


 それでも表情だけは驚くほど静かだった。まるで倒壊など最初からなかったかのように。


 その時、エルナの視線が止まる。


 ルシアンは右手で左腕の付け根を強く押さえていた。


 裂けた袖の下から、紺色の布が赤黒く染まっている。


「ルシアン様……腕が」


「大したことではない」


 あまりにもあっさりと言う。


「立ち上がる。肩を貸してくれ」


 エルナは右肩へ腕を回し、オスカーが左側を慎重に支えた。


 三人でゆっくりと納屋を離れる。


 近くの雪の少ない木にもたれかかると、ルシアンは短く息を吐いた。


「オスカー。傷の処置をしたら戻る」


 そしてエルナを見る。


「エルナは子どもたちを連れて先に戻れ。巡察隊長へ報告を頼む」


「…………はい」


 本当は離れたくなかった。あれほどの怪我を負っているのだ。そばにいて支えたかった。


 けれど、子どもたちをこれ以上この場へ留めるわけにもいかない。


 傷の処置も、ルシアンを支えるのも、自分よりオスカーの方が適任だ。


 エルナはヨハンとトーマスの手を握る。


 何度も振り返りたい気持ちを押し殺しながら、その場を後にした。




 村へ戻る頃には、倒壊した納屋の下敷きになっていた夫も無事救出されていた。


 倒壊寸前だった納屋も、騎士たちと村人が急ぎ支えを入れたことで、かろうじて持ちこたえたらしい。


 広場で両親の姿を見つけたトーマスは、一目散に駆け寄った。


「父ちゃん! 母ちゃん!」


 泣きながら抱きつく息子を、夫婦は強く抱きしめる。


「ありがとうございます……!」


 何度も頭を下げる夫婦に、エルナは静かに首を振った。


「助けたのは、私ではありません。ルシアン様です」


 それでも夫婦は、エルナにも深々と頭を下げ続けた。




 ヨハンと別れてほどなくすると、ルシアンも村へ戻ってきた。


 左腕は見えないよう、脱いだ上着を肩へ掛けて隠している。


 遠目には、怪我をしていることさえ分からない。


 巡察隊長が厳しい表情で歩み寄ると、二人はそのまま倒壊現場へ向かった。


 エルナが新しい上着と外套を持っていくと、オスカーがさりげなく周囲の視線を遮る。


 その陰で着替えを済ませたルシアンは、何事もなかったかのように村長と被害状況を確認し始めた。


 倒壊を免れた納屋の補強。住民の避難場所。今後の復旧作業。


 次々と指示を出していく姿は、怪我を負ったばかりとは思えない。


 やがて、川港から呼ばれた医師が救助された夫婦の診察を終え、ルシアンのもとへ向かった。


「私も立ち会います」


 エルナが申し出る。


 しかし、ルシアンは穏やかに首を振った。


「大した傷ではない」


 それだけ言うと、医師とともに別室へ入っていった。


 診察を終えた後も休むことなく、村長への引き継ぎを済ませたルシアンは、宿へ戻ると巡察隊を集めた。


 静まり返った食堂で、ルシアンが口を開く。


「やるべきことは終わった。予定どおり川港へ向かう」


 一瞬、誰も言葉を発しなかった。


 その沈黙を破ったのは、エルナだった。


「……出発は、明日でもよろしいのではありませんか」


 ルシアンは静かに首を横へ振る。


「他にも同じような被害が出ているかもしれない」


 冬の湖を映した瞳は、すでに次の村を見据えていた。


「ここで立ち止まるわけにはいかない」


「……そう、ですね」


 本当は、今すぐ城へ戻ってほしかった。傷が癒えるまで、ゆっくり休んでほしかった。


 けれど、次期公爵という立場は、それを許さない。


 いや――。


 ルシアン自身が、それを選ばないのだ。



  ◇ ◇ ◇



 川港へ着くと、休む間もなく視察が始まった。


 怪我など最初からなかったかのように、ルシアンはいつもと変わらぬ次期公爵として振る舞う。


 役人との面会。倉庫の視察。書類の確認。


 そのどれにも隙はなかった。


 エルナは一日中、ルシアンの左側から離れなかった。


 書類を受け取り、荷物を持ち、必要な物を先回りして用意する。


 少しでも左腕を使わずに済むよう、それだけを考えて動いていた。


 けれど、ルシアンは一度も痛みを口にしなかった。




 夜。


 宿の一人部屋へ戻ると、エルナはそのままベッドへ倒れ込んだ。


 部屋を照らすのは、小さな蝋燭の灯だけ。ソフィーもいない。聞こえるのは、窓の外を吹き抜ける風の音だけだった。


 ぼんやりと窓の外を見る。晴れた夜空には、無数の星が瞬いていた。


 やがてエルナは視線を逸らし、低い天井を見上げる。


 今日一日の出来事が、次々と脳裏によみがえった。


 倒壊した納屋。救い出された親子。迷いのない指揮。崩れ落ちる屋根。


 そして――。


 赤黒く染まった左腕。


 ルシアンだから、あの程度の怪我で済んだのかもしれない。


 状況を見極め、最善を選び続けたからこその結果だったのだろう。


 ごろりと寝返りを打つ。身体も心も、鉛のように重かった。


 ルシアンはいつだって、誰もが認める次期公爵だった。迷わず判断し、人を導き、最善の結果を選び続ける。


 だからこそ、皆が彼を信頼する。


 それは、エルナも同じだ。


 けれど――。


 どうして、傷のことを話してくれないのだろう。どうして、「大丈夫」の一言で終わらせてしまうのだろう。


 心配をかけたくない。きっと、それが理由なのだ。


 頭では分かっている。それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 家族なら、苦しい時ほど、頼ってほしいと思う。


 嬉しいことだけでなく、辛いことも、痛いことも、一緒に背負いたいと思う。

 

 婚約者とは、そういうものではないのだろうか。


 エルナは毛布を胸まで引き寄せ、小さく身を丸めた。


(私たち、婚約者ですよね……?)


 静かな問いは、蝋燭の灯に溶けるように消えていく。


 答えてくれる者は、誰もいなかった。



  ◇ ◇ ◇



 数日に及ぶ巡察を終え、エルナたちは城へ戻った。


 あの吹雪が冬将軍の最後の息吹だったかのように、その後は穏やかな晴天が続く。


 瞬く間に雪解けは進み、公爵領にも春の気配が訪れ始めていた。


 エルナの日々も、再び穏やかさを取り戻す。


 公爵夫人の手伝いをし、ルシアンの執務室で書類を整理し、ときには領内の報告書を読み返す。


 以前と変わらない毎日。以前と変わらないルシアン。領民を思い、迷いなく決断し、誰からも信頼される次期公爵。


 その姿を、エルナは今まで以上に尊敬していた。


 けれど、胸の奥に残った小さな棘だけは、抜けないままだった。


 やがて雪解けとともに、王都から一通の急使が届く。


 政務が滞り始めた王太子からの呼び出しだった。


「王都で会おう」


 そう告げると、ルシアンは一足先に王都へ向けて城を発つ。


 その背を見送るエルナは、いつもと同じように笑顔で手を振った。


 それでも胸の奥では、まだ答えの出ない問いが静かに残り続けていた。


 ――私たち、婚約者ですよね。


 彼に尋ねれば、きっと迷いなく「もちろんだ」と答える。


 それでも、その言葉だけでは足りない気がした。


 では、自分は何を知りたいのだろう。


 その答えを、エルナはまだ知らなかった。


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