公爵領編-10 吹雪の夜
翌朝。
朝食を済ませた一行は、再び北へ向けて出発した。
公爵夫人との鉱山視察でも一泊はしたが、あくまで日帰り圏内の鉱山だった。
ここまで北へ来るのは初めてである。
窓の外へ広がる見慣れない雪景色に目を輝かせていると、不意に馬車が止まった。
「閣下、橋の一部が凍結しているようでして……」
先行していた騎士の報告を受け、ルシアンとエルナは馬車を降りた。
石橋の上では、踏み固められた雪の一部が鏡のようにつるりと光っている。
「私たちは歩きましょうか」
「いいのか?」
「少しでも荷が軽い方が、馬も歩きやすいでしょう?」
「……そうだな」
馬が足を滑らせれば、大きな事故につながりかねない。
一行は馬車を降り、歩いて橋を渡ることにした。
先頭で手綱を引く騎士を見ながら、エルナが声を掛ける。
「光っているところは氷ですから、踏まないようにしてください」
騎士たちが足元へ目を向ける。
「歩幅は小さく、ゆっくりと。足の裏全体で踏むように歩くと、滑りにくいですよ」
「なるほど」
雪国では幼い頃から教わることだ。
ルシアンがエルナへ手を差し伸べる。
「手を」
しかしエルナは首を横に振った。
「もし滑ったら、一緒に転んでしまいますよ」
「……それもそうか」
理屈は分かる。
分かるのだが、少しだけ残念だった。
そんなルシアンの心境など露知らず、エルナは慎重に足元を確かめながら橋を渡っていく。
やがて全員が橋を渡り終えた頃、空からちらちらと雪が舞い始めた。
昼食を終えた後も、雪ははらはらと降り続いていた。
このまま予定どおり川港まで進むか、それとも手前の村で宿を取るか。
どこまで進めるかを、ルシアンたちは地図を広げて話し合っている。
その間、エルナは少し離れた場所で木々を眺めていた。
枝に積もった雪は白く美しい。けれど、その雪はどこか水気を含み、ずっしりと重たそうに見えた。
(重い雪……)
辺境伯領でも、こういう雪の日は決まって大人たちが空を見上げていたことを思い出す。
「すまない。待たせたな」
話し合いを終えたルシアンが歩み寄る。
「どこまで進むんですか?」
「このまま農村を巡りながら、川港まで向かう予定だ」
「そうですか」
異論はない。
けれど、エルナはもう一度、雪をまとった木々へ目を向けた。
「……雪が湿って重そうです。あまり無理はしないほうがいいかもしれません」
「理由を聞いてもいいか」
「こういう雪は馬の脚や車輪にも付きやすくなりますし、荷馬車の幌にもどんどん積もります」
降り積もる速さはそれほどでなくても、重みは増していく。
「休憩のたびに、幌の雪は払ったほうがいいと思います」
ルシアンは静かに頷いた。
「分かった。皆にも伝えよう」
エルナがそう言うなら、軽く考えるべきではない。
雪国で育った彼女の感覚は、この場の誰よりも頼りになる。
一行は雪の降る街道を、再び北へと進み始めた。
二つ目の村が近づく頃には、はらはらと降っていた雪は様子を変えていた。
時折吹きつける強い風が雪を巻き上げ、外を進む馬や騎士たちへ容赦なく叩きつける。
馬のたてがみや甲冑、外套には湿った雪がまとわりつき、騎士たちは休むたびに雪を払っていた。
それでも、すぐにまた白く積もっていく。
馬車の窓からその光景を見つめていたエルナは、静かにルシアンを見た。
「ルシアン様……」
「そうだな」
言葉を最後まで聞くことなく、ルシアンは頷いた。
「次の村で天候を見よう。状況次第では、そのまま泊まる」
ルシアンは馬車の窓を開け、併走していた書記官へ声を掛けた。
「次の村で天候を見て判断する。騎士団へ伝えてくれ」
「承知しました」
騎士たちは短く応え、再び歩みを進めた。
村へ着く頃には、風はさらに勢いを増していた。
吹きつける雪に視界も悪くなり始める。
空を見上げたルシアンは、迷うことなく告げた。
「今日はここで泊まろう」
その判断に、異を唱える者はいなかった。
村に一軒しかない宿は、吹雪で足止めされた旅人たちでごった返していた。
突然現れた次期公爵率いる巡察隊を全員泊められるほど、部屋に余裕はない。
宿の主人と巡察隊長、そしてルシアンが相談を重ねた結果、エルナだけは宿の主人一家の部屋を借りることになった。
女将と子どもたちがエルナと一緒に休み、主人はルシアンたちと空いている部屋へ移るという。
「散らかった部屋で申し訳ありませんねぇ。まさか若奥様をお泊めする日が来るなんて思いませんでしたよ」
「エルナとお呼びください。それに、まだ婚約者ですので」
「そうなんですかい?」
公爵領では、次期公爵が婚約者を大切にしていることはよく知られている。
女将が扉を開けた。
部屋には夫婦用の大きなベッドと、子ども用の小さな寝台が一つ。
衣装箱や鍵付きの木箱、机や椅子が並び、脱いだ上着や子どもの服があちこちに置かれている。
人が暮らす部屋らしい温もりがあった。
部屋の中で遊んでいた男の子が、ぱっと顔を上げる。
「母ちゃん、この人だれ?」
「次の公爵様のお嫁さんになる方だよ。遊んでないで手伝いなって言っただろう」
「えっ! すごい人だ!」
男の子は目を輝かせて駆け寄ってきた。
エルナはしゃがみ込み、目線を合わせる。
「はじめまして。エルナです」
「おれ、ヨハン! よろしく!」
「よろしくお願いします」
ヨハンはエルナを見ると、不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、公爵様の恋人なの?」
「恋人ではなく、婚約者です」
「こんやくしゃ?」
「将来、結婚する約束をした相手のことですよ」
「ふーん!」
女将は嫌な予感がして、そわそわと息子を見守る。
「じゃあ、手をつないだりするの?」
「しますよ」
エルナは何のためらいもなく頷いた。
「好きなの?」
少しだけ考えた後、エルナは真面目な顔で答える。
「……好き、というより婚約者です」
「じゃあ、キ――」
「こらっ!」
ごつん。
最後まで言わせる前に、女将のげんこつがヨハンの頭へ落ちた。
「いてっ!」
「お客様に失礼なことを聞くんじゃないよ!」
「だって気になるじゃん!」
頭を押さえて抗議するヨハンに、エルナは何がいけなかったのか分からず、小さく首を傾げた。
「どうして母ちゃんと一緒に寝るの?」
だが、げんこつを受けても、ヨハンの好奇心は止まらない。
「吹雪でお部屋が足りなくなってしまったから、今日はご一緒させてもらうの」
「やったぁ!」
父ちゃんのいびきを聞かなくて済む。
それだけでヨハンは大喜びだった。
「お客さんが多いから、食堂を手伝っておいで」
「はーい!」
ヨハンは元気よく返事をすると、勢いよく部屋を飛び出していった。
「元気な息子さんですね」
「元気だけが取り柄でして……。ご勘弁ください」
「いいえ。元気が一番ですわ」
エルナはにっこりと微笑んだ。
その笑顔に、女将の肩から少しだけ力が抜けた。
宿の食堂は、外の吹雪を忘れさせてくれるように温かく、旅人たちの笑い声で賑わっていた。
次期公爵率いる巡察隊が姿を現した瞬間こそ、一斉に静まり返ったものの、調理場で盛りつけをしていたヨハンのもとへエルナが駆け寄り、配膳を手伝い始める。それを見た騎士や文官たちも自然と手を貸し始めた。
次第に旅人や商人たちも再び会話を始め、食堂はいつもの活気を取り戻していく。
「エルナ様、パンをもう一ついかがですか?」
「ありがとうございます」
文官から受け取ったパンを、エルナは嬉しそうに口へ運ぶ。
その隙をうかがっていたルシアンは、心の中で小さく舌打ちした。
宿の食堂は城の食堂よりずっと狭い。
自然と席も近くなる。しかも今夜は満室で、隣との距離はさらに近かった。
「ルシアン様。この鶏肉とお野菜の煮込み、とっても美味しいですね」
「ああ、そうだな……」
すぐ隣で嬉しそうに笑うエルナを見ているだけで、ルシアンは半分ほど満たされた気分だった。
「ちゃんと召し上がっていますか? 女将さんとヨハンさんが、たくさん作ってくださったんですよ」
少し眉を寄せて心配そうに覗き込まれる。
「……よく食べるんだな」
エルナはすでにパンも煮込みもおかわりしていた。
「お祖父様から『食べられる時に食べておけ』と教わりました」
「あの方らしいな」
一度戦になれば、落ち着いて食事を取ることすら難しくなる。
辺境伯らしい教えだった。
「私も君のお祖父様にあやかるとしよう」
そう言って食事に手をつけると、エルナはほっとしたように微笑んだ。
「私はスープのおかわりをいただいてきますね」
まだ食べるのか。
ルシアンは思わず目を見開く。
あの細い身体のどこへ入っていくのだろう。
普段の食堂での慎ましい食べ方は、淑女教育の成果だったらしい。
やがてスープまで平らげ、「お腹いっぱいですね」と満足そうに笑うエルナのもとへ、ヨハンが皿を抱えてやって来た。
焼きリンゴにたっぷりと蜂蜜がかけられている。
「エルナ様。母ちゃんが、いっぱい食べてくれるから特別だって」
「まあ、ありがとうございます。ルシアン様もご一緒にいかがですか?」
「いただこう」
エルナが焼きリンゴを切り分けていると、ヨハンがじっと皿を見つめながら、小さな声で尋ねた。
「……おれも食べていい?」
「もちろんです」
即答だった。
「やったぁ!」
ヨハンは調理場へ駆け戻ると、子ども用の椅子と食器を抱えて戻ってくる。
そして何の迷いもなく、エルナの隣へ腰を下ろした。
「美味しいですね」
「うん!」
焼きリンゴを頬張りながら笑い合う二人を見て、宿の食堂にも自然と笑みが広がる。
ふいにヨハンが声を弾ませた。
「エルナ様だけ、明日特別に秘密基地に招待してやるよ」
「あら、ありがとうございます」
エルナは嬉しそうに微笑む。
「ですが、明日の視察が終わったら、すぐに次の村へ向かわなければいけないんです。難しいかもしれません」
「そっかぁ……」
少しだけ肩を落としたヨハンだったが、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、また今度来たときな!」
「ええ。その時はぜひ案内してください」
「約束だからな!」
「はい、約束です」
小さく指切りを交わす二人を見たルシアンは、内心でそっと肩を落とした。
(……エルナの隣は、私なのだが)
そんなことなど知る由もなく、エルナとヨハンは楽しそうに焼きリンゴを頬張っていた。
その夜。
床で寝ると言い張る女将に、エルナは「風邪を引いてしまいます」「それなら私が床で寝ます」と譲らなかった。
そこへ「おれもエルナ様と一緒に寝る!」とヨハンまで加わり、結局折れたのは女将だった。
その夜は、女将とエルナ、そして一緒に寝たいと言ったヨハンの三人で、一つのベッドを囲んで休むことになった。




