公爵領編-9 一斉巡察
城下町にも雪が積もる日々が増えていった。
エルナにとっては大した積雪ではない。しかし公爵家の使用人たちは、口々に「雪解けはまだか」とこぼしていた。
日中をルシアンの執務室で過ごすことの多いエルナは、いつものように公爵夫人やルシアンの書類仕事を手伝いながら、ルシアンと秘書官のやり取りに耳を傾けていた。
「どこも定期報告が遅れているな」
「はい。積雪と悪天候の影響かと思われます」
「一番遅れているのは北部の農村地帯か……」
ルシアンは報告書を数枚見比べると、雪の降る窓へ視線を向けた。
やがて机上に積まれた書類へ目を走らせ、優先順位を素早く整理する。
しばし考え込んだ後、静かに口を開いた。
「騎士団長と書記官、それから補佐文官たちを集めろ。一斉巡察を行う」
「承知いたしました」
秘書官が足早に部屋を出ていく。
その背を見送ると、ルシアンは書類仕事をしていた婚約者へ視線を向けた。
「エルナ。手を貸してくれないか。北部で育った君の目が必要だ」
「もちろんです」
返事は迷いなく返ってきた。
「君にとっても、いい勉強になるだろう」
ルシアンがそう言う頃には、エルナはすでに頷いていた。
◇ ◇ ◇
早朝。
灰色の空の下、城の中庭では騎士団と文官たちが荷馬車の最終確認に追われていた。
巡察資料だけでなく、万が一に備えた毛布や食料、工具、テント、救急用品まで積み込まれている。
「食料は多めに積んだな」
「各班の顔合わせは済んだか」
「緊急時の伝令方法は確認済みだな」
飛び交う声は慌ただしく、それでいて無駄がない。
その様子を見つめながら、エルナはそっと隣のルシアンを見上げた。
騎士団長や主だった文官を集めてからのルシアンの指揮は見事だった。
地域ごとの班編成、巡察経路、報告方法、緊急時の対応まで、瞬く間に組み上げていく。
自分の目が必要だと言ってくれた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
知識も判断力も、ルシアンの方がはるかに上だ。文官のように執務へ精通しているわけでもなく、騎士のような力があるわけでもない。
(私は、お役に立てるのでしょうか……?)
視線に気づいたルシアンが、首を傾げた。
「どうした?」
「あの……本当に、私が同行してもよろしいのでしょうか」
巡察班は書記官と補佐文官、それに騎士たちによる少数精鋭の編成だった。
機動力を優先するため、侍女や侍従は同行しない。
力になりたいとは思う。けれど、そう思うことと、本当に力になれることは違う。
ルシアンは穏やかに答えた。
「領内を短期間で把握するための一斉巡察だ。何事もなければ、それが一番いい」
少しだけ笑みを浮かべる。
「そんなに気負う必要はない」
「ですが……」
「母上も言っていただろう。エルナに必要なのは、あとは経験だけだと」
ルシアンはエルナの目をまっすぐ見た。
「それに、何かあれば私がいる。安心してついて来ればいい」
その言葉に、胸の奥の張りつめたものが少しだけほどけた。
ちょうどその時、荷馬車の最終確認を終えた秘書官がルシアンのもとへ駆け寄る。
「閣下、出発準備が整いました」
「分かった」
悩んでいても仕方がない。今の自分にできることを精一杯やろう。
エルナは小さく息をつくと、気持ちを切り替えて前を向いた。
ルシアンとエルナの巡察隊は、公爵領北部を二班に分けたうちの一班だった。
巡察路には川港や北方の鉱山といった重要拠点も含まれている。
初日の巡察は城下町に近い地域だったこともあり、大きな問題はなかった。
積雪による不便さを聞き取り、食料の備蓄や建物の状態を確認する。雪下ろしの注意点を伝え、記録をまとめる。
気づけば日は西へ傾き、一行は予定していた宿場町へ到着した。
馬車を降りたエルナは、先行して宿を確保していた騎士と合流する。
案内されたのは、小さな一人部屋だった。
「一人部屋なのですね」
「侍女も同行していないからな」
部屋にはベッドが一つと、小さな机と椅子があるだけ。
宿の主人から預かった鍵を渡しかけたルシアンは、ふと手を止めた。
「私が出たら、すぐ鍵を掛けろ」
「夕食まで荷解きをするだけですよね?」
「それだけでも、だ。閂も忘れるな」
「はい」
「……椅子を扉の前へ置いておけ」
「心配しすぎではありませんか?」
もう子どもではありません、とエルナが少し頬を膨らませる。
ルシアンは苦笑を飲み込んだ。
子どもではないからこそ、心配なのだ。
いっそ子どものままだったなら、同じ部屋で休ませることもできたのに。
そんな本音は胸の内へしまい込む。
「左右の部屋と向かいは私たちだ。何かあれば叫べ。壁を叩いてもいい」
「わかりました」
ようやく鍵を渡すと、ルシアンは名残を惜しむことなく部屋を後にした。
扉を閉め、鍵と閂を掛ける。
エルナは改めて部屋を見渡した。
二階の窓からは宿場町の通りが見える。
ベッドへ腰を下ろしてみると、思ったより寝心地も悪くなさそうだった。
こぢんまりとしているが、一人きりの空間。
誰の目も気にしなくていい。
(なんだか、わくわくします)
出発前まで胸を占めていた不安は、いつの間にか消えていた。
初めての巡察は、少しだけ旅に出たような気分だった。




