公爵領編-8 お忍び
エルナの主だった公爵領視察も終わり、ルシアンも王太子から暇を与えられたことで、二人は同じ時間を過ごすことが多くなった。
朝、部屋を出ればルシアンが廊下で待っており、並んで食堂へ向かう。
朝食を終えると、執務室で領地経営を学ぶ時間だ。 夫人から渡された簡単な書類をこなしながら、わからないことは隣のルシアンに尋ねる。
「ソファで書類仕事をするのは腰を痛める」
そんなルシアンの一言で、執務机の隣にはいつの間にかエルナ専用の小さな机まで置かれていた。
昼食を共にし、ルシアンが政務に戻れば、エルナはその傍らで本を読む。 仕事が終われば散歩をしたり、馬の世話をしたり。 夕食を囲んではその日の出来事を語り合い、時には図書室に籠もって本を読み、そのまま夜を迎える。
そんな毎日が、当たり前のように続いていた。
(……まったく、どこの熟年夫婦よ)
公爵夫人は額に手を当てた。
一日中一緒にいる。 仲も良い。 気も合っている。
なのに、驚くほど何も起こらない。
ルシアンは隣にエルナがいるだけで満ち足りた顔をしており、エルナは「今日もたくさん教えていただいた」「明日も執務を頑張ろう」としか考えていない。
互いの認識が、絶妙に噛み合っていないのである。
さすがの公爵夫人も、ついに我慢の限界だった。
「……あなたたち、たまには二人で遊びにでも行ってきなさい」
◇ ◇ ◇
翌日。
エルナとルシアンは城下町へ出掛けることになった。
公爵夫人の狙いはもちろん、婚約者同士の外出である。
ルシアンもまた、以前は領民に囲まれてしまい、エルナとゆっくり過ごせなかった雪辱を果たすべく、お忍びを提案した。
ただ一人、その意図をまったく理解していないエルナは、「お忍びだなんて、わくわくします!」と、休日のお出掛けに胸を弾ませていた。
ルシアンがエルナの部屋の前で待っていると、扉が静かに開く。
三つ編みに結った栗色の髪を三角巾で覆い、使用人に用意してもらった町娘の冬の装いに身を包んだエルナが姿を現した。
どこからどう見ても、ごく普通の、愛らしい町娘だった。
満足そうに頷くルシアンに、エルナはくすりと笑う。
「ルシアン様は……ルシアン様ですね」
「?」
銀髪は髪粉で黒く染め、服も目立たないものを選んだ。
町民にしか見えないはずだと首を傾げるルシアンだったが、生まれながらに身についた気品や立ち居振る舞いまでは隠せない。
「この眼鏡も外しましょうね」
エルナはそう言って、ルシアンの顔へ手を伸ばした。
煙水晶を嵌め込んだ上等な眼鏡など、町民が身につけているはずもない。
ごく当然の判断だった。
しかし、ルシアンはまったく別の意味に受け取る。
(……今日は、私の瞳を見ていたいということか)
眼鏡を外す細い指先が、そっと頬をかすめる。
それだけで胸が熱くなり、心臓が大きく跳ねた。
(……今日一日、平静でいられるだろうか)
そんな婚約者の胸中など露ほども知らず、エルナは眼鏡を大切そうにしまうと、自然な仕草でルシアンの手を取った。
「行きましょう、ルシアン様」
「……ああ」
昨夜降った雪が、城下町のあちこちにまだ残っていた。
踝まで積もった雪は、人通りの多い大通りでは踏み固められているものの、屋根の上や路地の脇、店先の日陰には白いまま残り、冬の朝の光を受けてきらきらと輝いている。
そんな雪景色の中を、ルシアンとエルナは肩を並べて歩いていた。
町民用の厚手の冬のコートに身を包み、恋人らしく手を繋ぐ二人は、どこにでもいる若い男女にしか見えない。
もっとも、その少し後ろには、同じく町民姿に扮した護衛たちが、さりげない距離を保って付き従っていた。
大人数では目立ってしまうため、ソフィーや侍従は城で留守番である。
「雪が残っていますね」
エルナが足元を見ながら微笑む。
「昨夜はよく降ったからな」
踏みしめるたび、雪がきゅっと小さく鳴る。
市場には焼き栗の香りが漂い、露店からは威勢のいい呼び声が聞こえてくる。雪が残っていても城下町は活気に満ち、人々は寒さなど気にする様子もなく行き交っていた。
やがてエルナは、一軒の雑貨店の前で足を止める。
陳列窓の向こうには、刺繍入りの手袋や可愛らしい陶器、小さな髪飾りが並んでいた。
「……これ、可愛いですね」
思わず漏れた呟きを聞き、ルシアンは店へ入ろうと足を向ける。
「気に入ったのか」
「え?」
「買おう」
「いいえ、欲しいわけではないんです」
エルナは慌てて首を横に振った。
「見るだけで十分なんですよ。可愛いものを見ていると、なんだか癒されるんです」
ルシアンは並ぶ品々へ目を向け、それから静かに頷く。
「……なるほど」
少し間を置いて、小さく笑った。
「確かに、癒されるな」
「そうでしょう?」
自分の気持ちを分かってもらえたことが嬉しくて、エルナも自然と笑顔になる。
ルシアンはそんなエルナを見つめる。
穏やかに笑うその横顔を見ているだけで、不思議と心が落ち着いていく。
(なるほど、確かに)
癒されるとは、こういうことなのか。
エルナ本人は、自分が見られていることにも、ルシアンが何を見て納得したのかにも気付かないまま、再び彼と手を繋いで歩き出した。
少し離れた場所で荷を運んでいた商人が、その二人を目に留める。
「あれ……若様じゃないか?」
黒髪に染め、質素な町民用のコートを羽織った地味な姿。
それでも、人目を引く整った顔立ちと洗練された立ち居振る舞いは隠しきれない。
隣にいるのは、どこにでもいそうな町娘。
だが、ルシアンは自然とその娘へ視線を向け、その表情はどこか柔らかい。
(……エルナ様、だろうか)
そう思った商人の肩を、荷運び仲間が軽く叩いた。
「しっ。今日は違うんだろ」
「ああ、お忍びだよ」
「放っといてやれ」
三人は顔を見合わせ、小さく笑う。
「邪魔しちゃ野暮ってもんだ」
誰も声を掛けようとはしなかった。
その時だった。
「あっ! ルシアン様だ!」
通りの向こうで遊んでいた子どもたちが、黒髪の青年に気付き、嬉しそうに駆け出そうとする。
だが、その前に近くで店番をしていた女性が、そっと子どもたちの肩に手を置いた。
「今日はやめときな」
「えー?」
「お忍びなんだろう? せっかくのお休みなんだから、そっとしといてあげようね」
荷運びの男も笑って頷く。
「また今度会えるさ。その時に、元気よく挨拶すりゃいい」
子どもたちは少しだけ残念そうな顔をしたものの、
「……うん!」
と素直に頷くと、手を振る代わりに小さく会釈だけして、そのまま遊びへ戻っていった。
ルシアンもエルナも、そのやり取りには気付かない。
二人は変わらず手を繋ぎ、雪の残る城下町を、穏やかな笑みを浮かべながら歩いていった。




