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公爵領編-7 一夜の語らい

 公爵夫人との一泊二日の鉱山視察を終えたエルナは、すっかり疲れ果てていた。


 夕食を終えて部屋へ戻ると、ふかふかのソファへ身を沈める。


 視察中に書き留めた記録で埋まった手帳を開いてみるものの、文字が目に入るだけで頭には入ってこない。


「お嬢様、今日はとくにお疲れですね」


 ソフィーの言葉に苦笑しながら頷く。


「そのようです。着替えをお願いできますか?」


 夜着へ着替え始めると、張り詰めていた気が少しずつほどけていく。


「ソフィーもお疲れ様です。いつも遠くまで付き添ってくれて、ありがとう」


「私はお嬢様と違って、観光させていただいているだけですから」


「そんなことありませんわ」


 他愛のないやり取りに二人で笑っていると、扉が叩かれた。


「奥様がお見えです」


「奥様が?」


 エルナは思わず固まる。


 慌ててガウンを羽織るが、夜着姿であることに変わりはない。


「どうぞ……」


「急に来てしまってごめんなさいね」


 部屋へ入ってきた公爵夫人は、髪を下ろし、ゆったりとした部屋着をまとっていた。


 昼間の隙のない姿とは違い、どこか穏やかな空気をまとっている。


「気にしないでちょうだい。急に来たのはこちらですから」


「いえ……こんな格好でお迎えしてしまって……」


「夜ですもの。当然でしょう?」


 その一言で緊張が少しほぐれた。


「少し、お喋りしてもいいかしら」


「もちろんです」


 向かい合ってソファへ腰掛けると、ソフィーが静かに紅茶を淹れて部屋を辞した。


 穏やかな静けさが部屋を満たす。


「今日で公爵領の主だった場所は一通り案内できたけれど、どうだったかしら」


「はい」


 エルナは自然と笑みを浮かべた。


「どこへ行っても素敵な方ばかりでした。鉱山も、工房も、港も……皆様が誇りを持って働いていらして。その方々がいて初めて、公爵領の資源も技術も受け継がれているのだと感じました」


 鉱山で見た採掘の様子や、職人たちの真剣な眼差しを思い返す。


 公爵夫人は満足そうに目を細めた。


「そう。では――」


 紅茶を一口飲み、静かに問いかける。


「次期公爵夫人として、少しはやっていけそうかしら」


 穏やかな声音だった。


 だからこそ、その言葉はエルナの胸へ真っ直ぐ届いた。


「……正直に、申し上げると」


 エルナは視線をティーカップへ落とす。


「技術も制度も、皆様の考え方も……何もかも桁違いで」


 建国以来続く公爵領。


 長い年月を積み重ねてきた土地の重みを、日々の視察で嫌というほど思い知った。


「私が務められる自信は、まだありません」


  ぽつりと本音がこぼれる。


 脳裏に浮かぶのは、幼い頃から隣で見てきた婚約者の姿だった。


 誰よりも優秀で、何事も迷いなくやり遂げるルシアン。


 だからこそ思う。


「……それでも」


 エルナは顔を上げた。


「少しでも、ルシアン様のお役に立ちたいです」


 この広い領地を、一人で背負うにはあまりにも重い。


 だからせめて、隣で支えられる存在になりたい。


 その言葉を聞いた公爵夫人は、静かに紅茶を口へ運んだ。


 そう答えてくれるのなら、今はそれで十分だった。


「あの子はね……」


 優しく微笑みながら、公爵夫人は静かに口を開いた。


「ルシアンは、公爵家のたった一人の後継者として育ててきました」


 静かな声で、公爵夫人は語り始めた。


「公爵家に縁者はおりますが、直系の子どもはあの子だけです」


 その言葉に、公爵夫人の表情がわずかに曇る。


「健康を管理し、あらゆる教育を施し、次期公爵として相応しい振る舞いを求めてきました」


 本当なら、一人の息子として、もっと自由に育ててやりたかった。


 転んで泣けば抱き締め、時には甘やかし、叱られれば拗ねる――そんな当たり前の日々を与えてやりたかった。


 けれど、公爵家にそんな余裕はなかった。


「私たちの期待に応えるように、勉学も武芸も政務も、人並み以上によく励みました」


 年相応の反発はあった。


 それでも、自らを律し、その道を外れようとはしなかった。


 親が望む理想の次期公爵になろうと、ひたすら前だけを見続けてきた。


「ですが――完璧な人間など、おりません」


 エルナは口を挟まず、ただ静かに耳を傾ける。


「あの子は、交渉相手が何を求めているかは分かるのです。けれど、自分個人へ向けられる感情だけは、言葉どおりにしか受け取れません」


「大丈夫です」と言われれば、顔色が悪くとも、大丈夫なのだと思ってしまう。


「お気になさらず」と言われれば、本当に気にしなくてよいのだと受け止める。


 遠慮も、気遣いも、助けを求める小さな声も、拾い上げることができない。


 今ごろ王都では、何も言わぬ文官たちに仕事を抱え込ませ、自分も同じように抱え込み続けているのだろう。


 本人が気づかぬ限り、その歪みはいつか大きな困難を招く。


 ――いや。


 きっと、もう招いている。


「あなたのまっすぐな言葉は、あの子によく届くのです」


 公爵夫人は、穏やかな眼差しでエルナを見つめた。


 三度目の流産を経験し、医師からもう子を望んではならないと告げられた日のこと。


 公爵家に、子を産めぬ自分など必要ない。そう何度、自分を責めただろう。


 それでも、悲しみに沈む日々は永遠には続かなかった。


 辺境伯家に小さな婚約者が産まれたのだ。


 あの知らせを受けた日のことは、今でも忘れられない。


 そして数年後。


 初めて息子と顔を合わせた日。人懐っこく笑うその小さな姿に、どれほど救われたことか。


 あの日の光景は、今でも鮮明に思い出せる。


「あの子に家族が増えた」


 そう思えた日のことを。


「ねぇ、エルナ」


「はい、奥様」


「あの子と、仲良くしてあげてね」


 まっすぐな言葉も。飾らない行動も。人の心を、何気なくすくい上げてしまう優しさも。


 そのすべてが、次期公爵として生きる息子にとって――そして、この公爵家にとっての太陽なのだ。


 そんな娘を守り、大切に育ててくれた辺境伯家には、感謝しかない。


 思いがけない願いに、エルナはぱちぱちと瞬きをした。


 そして、いつものように素直に笑う。


「奥様、私とルシアン様は、もう仲良しですから、大丈夫ですよ」


 その言葉に、公爵夫人はふっと笑みを零した。


「……そうだったわね」


 仲が良すぎるくらいなのに。


 当の本人だけが、それに気づいていない。


 それだけが、少しばかり気がかりだった。


「疲れているところ、ごめんなさいね」


 公爵夫人は立ち上がる。


 部屋を訪れた時よりも、その表情は幾分晴れていた。


「おやすみなさい、エルナ」


「おやすみなさいませ。奥様も、よい夢を」


 扉が静かに閉まる。


 部屋には再び夜の静けさが戻り、エルナは不思議そうに首を傾げた。


(ルシアン様と仲良く……?)


 そんなことを改めて言われるなんて。


 少し考えてから、小さく笑った。


(これからも仲良しですわ)



  ◇ ◇ ◇



 翌日、ルシアンが王都から戻ってきた。


 公爵夫人は、息子から差し出されたレオンハルトの手紙を受け取り、静かに封を切る。


 書かれていたのは、ただ一言。


「仕事はよくやってくれた」


 それを横から覗き込んだエルナは、ぱっと表情を輝かせた。


「ルシアン様がたくさん政務をされたので、レオンハルト殿下がお休みをくださったのですね!」


 純粋な感心に満ちた声。


 ルシアンは「そのようだ」とだけ頷いた。


 レオンハルトが休暇を与えた理由など考えもせず、素直に労いの言葉として受け取っているらしい。


 公爵夫人は手紙を閉じ、息子と婚約者を順に見つめると、小さくため息をついた。


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