公爵領編-6 休暇
王宮の執務室では、ルシアンが文字どおり悪魔のような勢いで政務を片づけていた。
積み上げられていた決裁書類は瞬く間に山を失い、滞っていた案件も次々と処理されていく。
その速度に合わせるため、執務室の文官たちは死にものぐるいだった。
新たな書類を抱えて走る者。処理済みの書類を各部署へ届ける者。決裁待ちの案件をかき集める者。
誰もが息をつく暇もなく動き回っている。
だが、エルナのことを考えているルシアンに、その慌ただしさは少しも伝わっていなかった。
数日前、公爵領へ戻った際、エルナは母とともに川沿いの織物工場と染織場を視察したと嬉しそうに話してくれた。
以前訪れた川港で見聞きしたことと結び付けながら学んでいるようで、話を聞くルシアンも思わず頬が緩んだものだ。
今日は国境の視察へ向かっている頃だろうか。
そんなことを考えていると、青ざめた秘書官が新たな決裁書類の束を差し出した。
それを受け取りながら、ふと、王都へ発つ前に母から言われた言葉を思い出す。
(ちゃんと仕事はしているのか、と聞かれたが……)
一日でも早くエルナに会うため、この通り仕事は片づけている。
何も問題はないはずだ。
「仕事が早いのは結構ですが、ただ終わらせればいいわけではありませんよ」
母の声が脳裏によみがえる。
(最後までしっかり詰めて処理しておりますよ、母上)
ルシアンは心の中で静かに反論した。
公爵夫人が案じていたのは、ルシアンに振り回される文官たちのことである。
だが、当の本人は、そのことにまったく気付いていない。
その時、執務室の扉が開いた。
「入るぞ」
許可も待たず、堂々と執務室へ入ってきたのはレオンハルトだった。
室内を見回し、その惨状を一目で把握する。
虚ろな目で筆を走らせる者。引きつった笑みのまま資料の山へ埋もれる者。無心で書類を運び続ける者。
誰一人として、レオンハルトに気付いて顔を上げる者はいない。
唯一、いつもと変わらぬ涼しい顔で机に向かうルシアンの前まで歩み寄る。
「ルシアン」
「何か?」
「……この有り様は、どういうことだ?」
「仕事をしているだけですが?」
「これが仕事をしているだけの部屋に見えるか?」
レオンハルトの声がわずかに震える。
ルシアンは執務室を一瞥した。
「ええ。それで、ご用件は?」
「…………」
恋は盲目とは、まさにこのことか。
レオンハルトは深く息を吐いた。
「公爵から聞いた。婚約者が領地へ来ているそうだな」
「はい」
一瞬、執務室から音が消えた。
「一日でも早く会いたい。そのために仕事を片づけたい気持ちは分かる」
「はい」
「だが!」
レオンハルトは机を勢いよく叩いた。
「やり過ぎだ!!」
乾いた音が執務室へ響く。
「公爵が文官達に色を付けているらしいが、こちらには異動願が山ほど届いている! このままでは辞表に変わるのも時間の問題だ!!」
「……そうなのか?」
ルシアンが執務室を見回す。
しかし返事はない。
聞こえるのは、再び筆を走らせる音と、紙をめくる音。
そして――そっと退室していく者の足音だけだった。
「政務では人の機微まで読める男が、どうしてこういう時だけ鈍いんだ……」
レオンハルトは額を押さえた。
「……おまえも相当だな」
「?」
本気で意味が分からないという顔だった。
その表情を見て、レオンハルトは決断する。
「ルシアン」
「はい」
「お前に暇を出す」
再び執務室が静まり返った。
「まだ仕事は残っていますが?」
「十分だ」
レオンハルトは即答した。
「後は私が引き継ぐ。今すぐ領地へ帰れ。私が呼ぶまで戻って来るな」
「……よろしいのですか?」
「幼馴染として命じる」
レオンハルトは真っ直ぐルシアンを見る。
「夫人にも私から一筆送っておく」
「何と書かれるのですか?」
「本人の前で言うと思うか?」
「ただの興味本位です」
「その興味は領地で満たせ。さっさと行け」
半ば追い出されるようにルシアンは退室した。
扉が閉まる。
その瞬間、執務室中の文官たちが、一斉にレオンハルトを見た。
救世主を見るような眼差しだった。
「……おまえたち。本当によく耐えた」
誰も口にはしない。
だが、その場にいた全員が心の中で力強く頷いた。
「しばらくは私の下へ回れ」
静まり返った執務室は、声にならない歓声で満ちていた。




