公爵領編-5 工房街視察
翌々日の朝、エルナが身支度を整えて食堂へ降りてくると、ルシアンの姿は既になかった。
「ルシアン様は?」
「夜明け前に王都へ発ちました」
公爵夫人が穏やかに答える。
「お忙しいのですね」
昨日は商会へ行っていたため、食事を共にした以外、お互いの空いた時間に少し話をしただけだった。
「王都にも公爵領にも、あの子でなければ進まない仕事がありますから」
そう言われれば、目抜き通りや市場を歩きながら、次々と人に声を掛けられていた姿が思い浮かぶ。
「ですが、心配する必要はありません」
公爵夫人は微笑んだ。
「仕事が片付いたら、またすぐ戻るでしょう。今日は工房街へ行きますよ」
工房街へ一歩足を踏み入れると、空気が変わった。
目抜き通りのような呼び込みの声も、市場のような喧騒もない。 聞こえるのは、規則正しく響く槌の音や、金属を削る甲高い音、遠くで炉が唸る低い音だけだった。
石畳は隅々まで掃き清められ、建物は質実剛健な造りで揃えられている。 窓は小さく、高い塀が工房ごとを仕切っていた。
行き交う職人たちは皆、手を止めることなく仕事を続けながら、公爵夫人の姿を見つけると静かに一礼する。
「奥様」
「お疲れさま」
短いやり取りだけで十分なのだろう。 公爵夫人も立ち止まらず、穏やかな笑みで応えていく。
「市場とはまるで別の町ですね」
エルナが小声で呟くと、公爵夫人は頷いた。
「ここでは時間よりも、お金よりも、まず技術が優先されます。良い品を作るためなら、一日かけても一工程しか進まないこともあります」
歩きながら、公爵夫人は周囲へ自然と視線を配る。
「あちらは時計師の工房。その隣が精密細工師。さらに奥には彫金師が集まっています」
指し示される建物はどれも似ているが、近付くと聞こえる音も漂う匂いも違っていた。
油の香り。 炭火の匂い。 磨き粉の乾いた粉塵。
工房ごとに積み重ねてきた年月が、そのまま空気になっているようだった。
やがて通りの突き当たり近くで、一軒の工房の前に衛兵が立っているのが見えた。
入口には磨き抜かれた黒い石板が掲げられ、その下には控えめに工房主の名が刻まれている。
「こちらです」
衛兵が公爵夫人へ敬礼し、続いてエルナへ視線を向けた。
「記録札をお願いいたします」
エルナは慌てず首から木簡を外し、差し出す。
衛兵は番号と行き先を確認すると、薄い木片だけを抜き取り、代わりに丸い木札を手渡した。
表には工房の印、裏には同じ番号が刻まれている。
「お帰りの際はこちらをご返却ください」
「ありがとうございます」
木札は思ったよりもずっしりとしていた。
「本当に、出入りを細かく管理しているのですね」
感心したように呟くエルナへ、公爵夫人は静かに微笑む。
「技術も、人も、ここでは公爵領の財産です」
その言葉とともに、夫人は工房の扉へ手を向けた。
「さあ、原石が生まれ変わる場所をご覧なさい」
重厚な木扉が、ゆっくりと内側へ開いた。
工房の中は、エルナが思っていたよりもずっと簡素だった。
正面には受け渡し用のカウンターと、小さな呼び鈴。
その奥には、分厚い木の扉が一つあるだけだ。
カウンターの手前には、来客用らしい質素な椅子と机が置かれている。
「誰もいませんわ」
エルナが辺りを見回すと、公爵夫人が呼び鈴へ視線を向けた。
「その呼び鈴を鳴らしなさい」
小さく鈴を鳴らす。
澄んだ音が静かな室内へ響き、ほどなくして奥の扉から鍵を外す音が聞こえた。
重い扉が開き、一人の男性が姿を現す。
「奥様、エルナ様も。お待たせいたしました」
「かまいません。エルナ、こちらがこの工房の宝石研磨師よ」
「はじめまして。本日はよろしくお願いいたします」
エルナが一礼すると、宝石研磨師は柔らかく目を細めた。
「こちらこそ。では、奥へどうぞ。侍女殿はこちらでお待ちください」
侍女は静かに一礼し、その場に控える。
「ご一緒ではないのですか」
思わず尋ねると、宝石研磨師はいたずらを思いついた子どものように笑った。
「ここから先は、秘密がいっぱいですから」
秘密。
その一言が妙に胸へ残る。
工房街へ入る時から続く厳重な管理も、この工房の造りも、すべてはその「秘密」を守るためなのだ。
エルナは少しだけ背筋を伸ばし、宝石研磨師に続いて分厚い扉をくぐった。
その先には、先ほどまでの簡素な部屋とはまるで別世界が広がっていた。
壁一面には鍵付きの収納棚が並び、中央には研磨台や大小さまざまな道具が整然と並べられている。
磨き上げられた金属の匂いと、石を削るかすかな粉の香りが、静かな工房に満ちていた。
「我々は、作業を誰かに見られることを良しとしません」
研磨師は穏やかにそう言ってから、エルナへ視線を向けた。
「なぜだと思われますか?」
突然問われ、エルナは少し考える。
「……見るということは、知るということです。道具や使い方が分かれば、真似をして技術を身につけることもできますわ」
研磨師は満足そうに頷いた。
「その通りです。だから我々は、いつもここへ籠もって仕事をしております」
侍女が外で待つ理由も、それだった。
「それに――ここは宝の山でもありますから」
そう言って鍵のかかった引き出しを開ける。
中から取り出されたのは、まだ形の整っていない、小さな赤い石だった。
「先ほどまで研磨していたガーネットです。このさらに奥には、原石を厳重に保管しております」
研磨師は奥の扉へ視線を向ける。
「原石から研磨するところを見せてもらえるかしら」
「もちろんです、奥様。既にご用意しております」
ガーネットを引き出しへ戻すと、今度は白や黒、灰色が入り混じった、ごつごつとした石を取り出し、エルナへ差し出した。
手のひらより少し小さい、どこにでもありそうな石だ。
「これは何の石だと思われますか?」
エルナは石を何度も角度を変えて眺める。
「オニキス……ではありませんわね。ムーンストーンやホワイトオパールでしょうか」
色から思いつくまま答えると、研磨師は柔らかく笑った。
「では、一面だけ研磨してみましょう」
研磨師は作業机へ向かい、静かに腰を下ろす。
先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた好々爺の面影は消え、その瞳は鋭く石だけを見据えていた。
工房には、石を削る乾いた音だけが静かに響く。削り、確かめ、また削る。迷いのない手つきで少しずつ石肌が削られていく。
やがて灰色ばかりだった石の一角に、深く澄んだ青が姿を現した。
(……あれは)
思わず声が漏れそうになり、エルナは慌てて口を閉じる。
その反応に気付いても、研磨師は手を止めない。さらに少しだけ削ると、満足したように道具を置いた。
「どうぞ、ご覧ください」
差し出された石を受け取る。
灰褐色の原石の中で、磨かれた一面だけが青く輝いていた。
「サファイアですわ」
「今回は特に見分けの付きにくい原石を選ばせていただきました。ご無礼を」
「いいえ、とても驚きました」
エルナは光へかざしながら、何度も角度を変える。
「最終的には、先ほどのガーネットほどの大きさになります」
「半分くらい、なくなってしまいますわ」
思わず目を見開く。
「ええ。不要な部分を削って初めて、石は最も美しく輝きます」
「勿体ないのではありませんか」
研磨師は優しく微笑んだ。
「皆様、最初はそう仰います。ですが、この石は削らなければ、一生ただの石のままです」
確かに、先ほどまでエルナには何の石なのか見当もつかなかった。
静かに見守っていた公爵夫人が口を開く。
「原石の価値は、大きさではありません。職人は、どこを残し、どこを削るかを見極めながら研磨します。職人がいて初めて、原石はその価値を発揮するのです」
エルナは掌のサファイアを見つめ、小さく頷いた。
「研磨師様がいて初めて、この石は活きるのですね」
その言葉を口にした瞬間、ふと気付く。
「他にも研磨できる方はいらっしゃらないのですか?」
これほど重要な仕事なのに、作業机は一つしかない。
研磨師は静かに首を横へ振った。
「この工房は、私と、まだ修業中の息子だけです」
「秘密だからですか」
「ええ」
「もし、研磨師様に何かあったら……」
「他にも宝石研磨の工房はございます。しかし、一部の仕事は滞るでしょう」
その言葉を受け、公爵夫人が続ける。
「だからこそ、公爵家が支援をするのです」
衣食住の保障。来訪者の厳格な管理。衛兵による治安の維持。火を扱える時間の管理。定期的な医師との面談。万が一に備えた用水路の維持と点検。
どれも職人が安心して技術を守り続けるためだった。
エルナは改めて工房を見回す。
飾り気のない部屋。鍵の掛けられた引き出し。一人の職人。
そのすべてが、公爵領の宝を守るためにある。
「職人の皆様は、公爵領の宝物なのですね」
その一言に、研磨師は堪えきれず声を上げて笑った。
「ははは。それは職人冥利に尽きますな」
◇ ◇ ◇
宝石研磨の工房を見学した翌日からも、公爵夫人は主だった工房を一軒一軒案内してくれた。
そのたびにエルナは、公爵領でのみ受け継がれる緻密で洗練された技術と、それを守るための数々の工夫を知る。
ときには淑女教育の復習もしながら、居住区や孤児院、教会の視察を重ねた。
日が沈む頃、夫人とともに城へ戻る。
「明日は城下町を出て、川港まで足を延ばしましょう」
「楽しみです」
そう話しながらエントランスホールへ足を踏み入れると、机へ向かう見慣れた銀髪が目に入った。
「ルシアン様」
顔を上げたルシアンが、ふっと表情を和らげる。
「いつ戻られたのですか?」
「昼前だ」
「そうだったのですね。今日は孤児院と教会へ行っておりましたの。職人見習いや商会へ登用される方もいるなんて、公爵領ならではですね」
辺境伯領を思い出し、エルナは笑う。
「わたくしの領では、喧嘩っ早い子や、お父様やお祖父様のお眼鏡にかなった子は、騎士見習いになることが多いのです」
「それも辺境伯領らしいな」
ルシアンが小さく笑った。
「明日は奥様が川港へ連れて行ってくださるのです。辺境伯領の川はすぐ凍ってしまうので、とても楽しみです」
「……そうか」
わずかに間を置いて、公爵夫人が口を開く。
「明日も戻りは今日と同じくらいになりますからね」
「そうですか」
エルナは素直に頷く。
一方で、ルシアンの肩がほんの少しだけ落ちた。
「またすぐ、王都へ戻られるのですか?」
「明後日の朝にはな」
「では、夕食の後と明日の夜に、たくさんお話をしましょう! 奥様から教えていただいたことが、本当にたくさんあるのです」
嬉しそうに笑うエルナにつられ、ルシアンも自然と笑みを浮かべる。
「談話室を使うのは構いませんが、夜更かしはほどほどになさい」
公爵夫人が穏やかに釘を刺した。
「もちろんです。奥様に心配をお掛けしてしまいますもの」
素直な返事に、公爵夫人は満足そうに頷く。
ルシアンも「承知しております」と答えたが、その胸中は穏やかではなかった。
せっかく王都の仕事を片付けて戻ってきたのに、今日もエルナは日が暮れるまで母と過ごし、明日もまた一日夫人教育。
夜しか話せる時間がない。
(……明日くらい、夫人教育は休みでもいいのではないか)
そんなことを思う。
もちろん、口にできるはずもなかった。




