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公爵領編-4 市場視察

 今日は公爵夫人と市場へ行く日だった。


 次期公爵夫人教育の一環として、公爵夫人は毎日少しずつ城下町を案内してくれている。


 活気ある市場へ足を踏み入れると、焼きたてのパンの香りや香辛料の匂いが鼻をくすぐり、商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。


(この前、ルシアン様と来た市場……)


 隣を歩く公爵夫人を見失わないよう後を追いながら、エルナはあの日のことを思い返す。


 魚屋で店主と話すルシアン。八百屋で干しリンゴをもらい、侍女と笑い合ったこと。


 どれも楽しい思い出だった。


「ルシアンと市場へ行ったと聞きましたが、一軒一軒の案内までは受けていないでしょう」


「はい」


「では、今日は順番に見て回りましょう」


 そう言うと、公爵夫人は通りの端から一軒ずつ店へ顔を出していく。


「おはようございます、奥様」


「娘さんの具合はいかが?」


「すっかり元気になりました」


「それは良かったわ」


 穏やかな笑顔で言葉を交わしながら、公爵夫人は歩みを止めない。


 そして店を出るたびに、エルナへ説明を添えてくれる。


「あのお店は西部から香辛料を仕入れています」


「こちらは代替わりしたばかりですが、先代からのお客様も多い店です」


「去年から扱う布地が変わりました。南方との取引が増えた影響ですね」


 家族構成。取引先。商品の流れ。去年との違い。


 ただ店を見るだけでは決して気付けないことばかりだった。


 エルナの手帳は、あっという間に文字で埋まっていく。


 やがて八百屋の前へたどり着いた。


「あら、奥様。エルナ様も」


 聞き覚えのある優しい声だった。


「こんにちは」


 以前、干しリンゴを分けてくれた女将だった。


「今日はこの子の視察です」


「まあ。エルナ様も、もうすぐ若奥様ですものねぇ」


「教育も兼ねていますから」


 公爵夫人は微笑み、それからふと思い出したように尋ねる。


「そういえば、あの元気な息子さんは? 今日は見かけませんね」


 女将の笑顔が少しだけ曇った。


「それがちょっとねぇ……」


 ぽつりぽつりと語られる家庭の事情。商売だけではない、暮らしの悩み。


 公爵夫人は時折相槌を打ちながら、最後まで静かに耳を傾けていた。


 エルナは隣で聞いていることしかできない。


(……何も気付けなかった)


 この前会った時も、女将は笑っていた。


 だから何も困っていないのだと勝手に思い込んでいた。


 市場を歩きながら見ていたのは、品物だけ。人の暮らしまでは見えていなかった。


 自然と肩が落ちる。


 店を出た後、エルナは小走りで公爵夫人の隣へ並んだ。


「あの……奥様は市場の皆さんのお家のことまで、よくご存知なのですね」


「もちろんです。」


 公爵夫人は当たり前のように頷く。


「商会の方々も、職人も、鉱夫も。できる限り覚えていますよ」


 市場は、ただ物を売り買いする場所ではない。


 一軒一軒の店に家族がいる。守りたい暮らしがある。だから毎日働き、商いを続けている。


 それを知ることも、公爵家の役目なのだ。


(そういえば……)


 ふと、ルシアンの姿が脳裏によみがえった。


 魚屋の店主と笑いながら話していた横顔。商会長や市場長とも、ごく自然に言葉を交わしていた。


(私は侍女とお菓子を買って、一緒に食べていただけ……)


 楽しかった。けれど、それだけだった。


 少しだけ胸がちくりと痛む。


「私も……皆様のことを、早く覚えられるようになります!」


 決意を込めて言うと、公爵夫人は優しく目を細めた。


「ええ。その意気です」

 

 少し歩いたところで、公爵夫人が尋ねる。


「他に気になったことはあるかしら?」


「はい……あの、お野菜や穀物のお値段が、この前ルシアン様と来た時より高くなっているような気がして……」


 公爵夫人は続きを促すように微笑む。


「商会長様が流通のお話をされていましたし……市場長様も、熊や狼の被害で出荷量が減っていると仰っていました」


 口にしながら、頭の中で話が繋がっていく。


 雪で荷馬車は遅れる。獣害で収穫量も減る。物が届かなければ、市場に並ぶ量も減る。


「このまま冬が終わるまで……もっと値上がりしてしまうのでしょうか」


 今までなら、「今年は大変なんだな」で終わっていた話。


 けれど今は違う。値段が上がれば、困るのは領民たちだ。


 不安そうな表情を浮かべるエルナを見て、公爵夫人は満足そうに頷いた。


「上出来ですね」


「え?」


「雪で荷馬車の移動は遅れ、獣害で収穫量も減っています。このまま放置すれば、大手商会による買い占めや価格の高騰は避けられないでしょう」


 エルナは息を呑む。


 だが、公爵夫人は穏やかなままだった。


「ですが、それを防ぐのが、あの子の仕事です」


「あ……」


「今頃は南方からの輸入量を増やすよう商会へ指示を出し、足りない物資を補う手を打っている頃でしょう」


 その姿が目に浮かぶようだった。


 王都で黙々と書類へ向かうルシアン。領地を離れていても、考えているのは領民の暮らし。


 エルナの顔がぱっと明るくなる。


「さすがルシアン様ですね!!」


 迷いのない満面の笑み。


 実の母親の前だということも忘れて、心から嬉しそうに褒める。


 公爵夫人は思わず笑みをこぼした。


(……本当に、この子は)


 息子が褒められて悪い気はしない。


 けれど、自分の前でここまで真っ直ぐ褒められると、少しだけ可笑しくもあった。


「その言葉は、本人に伝えてあげると喜ぶでしょうね」


 そう呟いた公爵夫人の声は、どこまでも優しかった。




 城へ戻ると、エントランスホールには見慣れた銀髪の青年がいた。


 机いっぱいに書類を広げ、静かにペンを走らせている。


「ルシアン様!」


 思わず弾んだ声が響く。


 その声にルシアンは手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「もうお戻りだったのですね!」


 ぱっと花が咲くような笑顔で駆け寄るエルナ。


 その姿を見た瞬間、ルシアンの肩からふっと力が抜ける。


「王都での執務が、予定より早く終わったんだ」


 何事もないように答えながら、視線は自然とエルナへ向いていた。


「さすがですわ」


 市場で学んだことがまだ嬉しいのだろう。


 頬を少し紅潮させたまま、エルナは身を乗り出す。


 その言葉だけで、ルシアンの口元がほんのわずかに緩んだ。


 本人すら気付かないほど、小さく。


「今日は奥様と市場へ行って、領民の皆様のことを学びましたの」


「ほう」


「皆様のお話を聞いて、困っていることや家族のことまで気に掛けるのは、とても大切なのですね!」


 市場で見聞きしたことを夢中で話すエルナ。


 ルシアンは相槌を打ちながら、その横顔を静かに見つめていた。


(母上が教えてくださったのか)


 領民を見る目が、少しずつ育っている。


 それが自分のことのように嬉しい。


 そして最後に、「市場のお野菜が値上がりしていた理由も、少し分かりました!」と誇らしげに胸を張る姿に、思わず目を細める。


「さすがルシアン様ですわ」


 真っ直ぐな尊敬の眼差し。


 あまりにも眩しすぎて、ルシアンは精一杯表情を引き締めた。


(……嬉しい)


 そう思ってしまったことだけは、誰にも悟られたくない。


「母上との視察で疲れてはいないか?」


 平静を装いながら尋ねる。


「そんなことありませんわ」


「そうか。」


 一拍置いてから、何気ない口調で続けた。


「もうすぐ、この処理も終わる」


 机の書類へ視線を落とし、数枚を軽く叩く。


「それから庭園でも散歩しないか?」


「もちろんです!」


 迷いのない返事だった。


 嬉しそうに笑うエルナを見て、ルシアンも小さく頷く。


 その様子を少し離れた場所から眺めていた公爵夫人は、そっとため息をついた。


(……この子は、本当に分かっていないのね)


 王都から帰ってきたばかりだというのに、執務室ではなく、わざわざ人の出入りが多いホールで仕事をしている理由。


 視察から戻る時間を見計らっていたことなど、考えもしないのだろう。


 ようやく会えたというのに誘うのは、庭園を少し歩こうというだけ。


 そして誘われた本人も、息抜きくらいにしか受け取っていないようだ。


(夫人教育は順調なのだけれど……)


 領地のことも。領民のことも。公爵夫人としての心得も。


 エルナは驚くほど素直に吸収していく。


 けれど、息子との仲だけは一向に進展しない。


 二人が並んで歩けば、誰もが似合いの婚約者だと言うだろう。


 それなのに当人同士は、庭園を歩くだけで十分満足してしまう。


 公爵夫人はもう一度、小さく息をついた。


(……先は長そうね)


 その呆れたような眼差しに気付く者は、誰もいなかった。


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