公爵領編-3 夫人教育
数日後、公爵とルシアンが政務のため王都へ帰還すると、エルナは公爵夫人から本格的に次期公爵夫人としての教育を受けていた。
「西のアイゼンベルク公爵家と並んで、東の我がヴァレリオン公爵家は建国時に、複数の鉱山を含むこの領地を賜りました」
広げられた地図の上を、公爵夫人の指先が静かになぞる。
公爵領の鉱山で産出される主な鉱物は、銀、水晶、そして様々な宝石類。
比較的加工しやすい資源を、そのまま売り出すことは少ない。
職人たちの手を経て、一つの作品へと昇華させる。
宝石研磨、金銀細工、染織、反物、香料。
さらにはガラス工芸、家具、陶磁器に至るまで、あらゆる分野の一流職人がこの地へ集い、技を競い合っていた。
「『王国の文化と流行は東部公爵領から生まれる』――そう呼ばれるようになったのも、職人たちの技術を結集させ、守り続けてきたからです」
数多の一級品は国内外へと運ばれ、莫大な利益を生み出す。
その交易によって、公爵領は王国随一とも称される豊かさを築いていた。
「農業ももちろん重要です。しかし、それ以上に商会との信頼関係、職人の育成、技術の継承。それらを守ることが、公爵家の務めなのです」
「……はい」
必死にペンを走らせるエルナの手は止まらない。
淑女教育の一環として座学で学んだ内容ではある。
それでも、公爵夫人本人の口から語られる歴史と責務は、紙の上の知識とは重みが違っていた。
辺境伯領は畜産と林業が主な産業であり、北部蛮族への備えが何より優先される。
それだけでも十分に重責だった。
しかし、公爵領は違う。
有力商人や代官との折衝。騎士団との連携。職人を保護する制度。名家として積み重ねてきた慣習と礼節。使用人との接し方。歴代当主の理念。王家との適切な距離感。
覚えるべきことは、どこまでも尽きなかった。
(……頭が沸騰しそうです)
そう思いながらも、聞き漏らすまいと必死に書き留める。
公爵という地位は、決して飾りではない。
「その主を支え、時には主に代わって役目を果たすのが、公爵夫人です」
静かな言葉が胸へ落ちる。
改めて、公爵家という一家の大きさを思い知った。
(……私に、本当に務まるでしょうか)
自然と背筋が伸びる。少しでも期待に応えたい。
その一心で顔を上げるエルナを見つめ、公爵夫人は柔らかく微笑んだ。
「まあ、座学はほとんど終わっていますから」
教師たちは皆「これ以上は詰め込みすぎです」と口を揃えた。
それでも公爵夫人は必要だと判断し、科目を追加した。
そしてエルナは、一つも投げ出すことなく、最後までやり遂げてみせた。
努力を惜しまない少女だと、誰よりも知っている。
「仰々しく説明しましたが、あとは実際に見て、経験して覚えていけば十分です」
「はい!」
返事は少し疲れているのに、不思議と瞳だけは輝いている。
その姿に、公爵夫人は若き日の自分を重ねた。
自分も最初から何でもできたわけではない。
失敗を重ね、夫に助けられ、多くの者に支えられながら、少しずつ公爵夫人になっていったのだ。
だから焦る必要はない。まだ時間はある。
一歩ずつ、彼女の歩幅で覚えていけばいい。
その隣には――。
公務だけは、誰にも負けないほど完璧な男がいるのだから。
◇ ◇ ◇
公務だけは誰にも負けないほど完璧な男は、一瞬だけ視線を感じ、ふと顔を上げた。
夕日に染まり始めた王宮。
高い窓から差し込む橙色の光が、執務室いっぱいに積み上げられた書類を照らしている。
有事でもないというのに、文官たちは机と書庫を慌ただしく行き来し、羽ペンの走る音と紙をめくる音が絶えなかった。
「……」
誰もこちらを見ている者はいない。
(気のせいか……)
少し集中しすぎたのだろう。
ルシアンは指先で目頭を軽く押さえ、小さく息を吐いた。
開門と同時に王宮へ入り、閉門間際まで執務室に籠もる生活も三日目。
王太子から「一週間はかかる」と渡された政務は、すでに終わりが見えていた。
残る書類を見渡し、おおよその枚数を頭の中で数える。
(……明日には終わるな)
そうなれば、その日のうちに領地へ戻れる。
自然と手が速くなる。
「ルシアン様」
傍らで控えていた秘書官が、恐る恐る声を掛けた。
「少し休憩されてはいかがでしょう。温かい茶をご用意しております」
「必要ない」
即答だった。
「もうすぐ片付く。次の案件を準備してくれ」
「……承知いたしました」
秘書官は一礼しながら、心の中で深いため息をつく。
(貴方が休まれないと、私たちも休めないのですが……)
同じ思いは部屋中の文官たちも共有していた。
ようやく一山越えたと思えば、次の書類が机に積まれる。
処理速度が速すぎるのだ。
追いつくためには、自分たちも走り続けるしかない。
「急げ! 次の決裁書を!」
「補足資料はまだか!」
「そちらの集計が終わらないと提出できません!」
静かなはずの執務室は、今日も慌ただしい。
その中心でルシアンだけが、何事もないような顔で淡々と書類を裁いていく。
周囲の悲鳴など、一切耳に入らないまま。




