王都編1-2 デビュタント
王宮の大広間に隣接する控室では、デビュタントを迎える令嬢たちと、その付き添いの貴婦人たちが最後の身支度を整えていた。
初めて王宮へ足を踏み入れた高揚感。社交界へデビューする期待。そして、これから始まる儀礼への不安と緊張。
娘たちを励ますように、母親たちはドレスを整えたり、進行を確認したりと忙しく立ち働いている。
「……ドレスは、これでよろしいでしょう。すぐ呼ばれますから、シワにならないよう立っているのですよ」
「はい、奥様」
エルナのデビュタントドレスの幾重にも重なったレースを整え終えた公爵夫人は、ゆっくりと顔を上げた。
隙なく結い上げた金髪に、ルシアンと同じ澄んだ青い瞳。
痩身ながら、それを感じさせない気品を纏っている。
「素敵なドレスを、ありがとうございました」
「あなたは息子の婚約者ですもの。当然です」
平然と答える公爵夫人は、どこかルシアンとよく似ていて、エルナは思わず口元をほころばせた。
「私、裾に刺繍された狼さんが可愛くて気に入りましたわ」
「それは何よりです」
北部の雪を思わせる純白のドレスには、公爵領自慢の繊細なレースが幾重にも重ねられている。
スカートには、銀糸で針葉樹の枝葉を思わせる刺繍が縦へ流れるように施されていた。
裾をぐるりと囲むのは、盾を携えた銀狼。
狼たちは皆同じ方向を向くのではなく、数頭だけが夜空を見上げるように刺繍されている。まるで北の地を見守る番人のようだった。
葉に露が宿ったような小さなエメラルドがアクセントとして散りばめられ、動くたびに上品な輝きを灯す。
お揃いの銀とエメラルドの耳飾りと髪飾りを身に着けたエルナは、お伽噺から抜け出してきたようなドレスを見つめ、目を輝かせていた。
「名前を呼ばれたら、陛下たちの御前へ進み、カーテシーをして戻るだけです。入場するときはルシアンもおりますから、安心なさい」
「はい」
公爵夫人自らが控室に来た意味も、このドレスに込められた意味も、彼女が知る必要はない。
たった一度しかない儀礼の日を、ただ心から楽しんでほしい。
夫人の願いを知ってか知らずか、エルナは少し緊張した面持ちではあるものの、その瞳は好奇心と期待に満ちていた。
「この子なら、大丈夫ですわ」
公爵夫人の隣で、娘の晴れ姿をにこにこと見守っていた辺境伯夫人が口を開いた。
エルナと同じ栗毛に茶色の瞳。
ほわほわとした髪は緩やかに結い上げられ、ふくよかで安心感を与える佇まいは、公爵夫人とは対照的だった。
「なるようになります」
「……そうですわね」
今日という日を迎えるため、公爵夫人は自ら選び抜いた最高の教師陣を付け、エルナに淑女教育を施してきた。
あとは経験を積み重ねていくだけ。
ドレスの装飾を見て笑い合うエルナと辺境伯夫人を眺めているうちに、公爵夫人の肩からも自然と力が抜けていった。
「付き添いの方々は、ご退室ください――」
王宮の侍従の声が控室に響く。
「それでは、また後ほど」
「大丈夫ですわ」
辺境伯夫人に励まされたのは、公爵夫人だったのか、それともエルナだったのか。
付き添いの貴婦人たちが控室を後にすると、室内は静けさに包まれた。
いよいよ始まる。
その空気に、期待と緊張が静かに満ちていく。
周囲の令嬢たちを見渡しながら、エルナは小さく頷いた。
(お母様が仰ったように、なるようになりますわ)
祖父からはよく「鍛錬を重ね、身体に覚え込ませれば、どのような状況でも自然と動ける」そう教えられてきた。
英雄と称えられる祖父の姿を思い浮かべながら、エルナはそっとスカートを持ち上げ、静かに落とす。
ふわりとレースが揺れ、その隙間から銀糸で刺繍された狼が顔を覗かせた。
(ふふ……狼さんも一緒ですわ)
緊張したところで、やるべきことは変わらない。
ならば、この日を楽しもう。
そう心に決めると、エルナはそっと微笑んだ。
やがて、始まりを告げる侍従の声が響いた。
「エルナ・ノルドガルド様――」
「はい」
デビュタントは爵位順に呼ばれるため、今年はエルナが先頭だった。
後ろへ続く令嬢たちの名を耳にしながら、エルナは侍従の待つ扉へと歩みを進める。
開かれた扉の先――大広間へと続く廊下には、ルシアンが静かに待っていた。
深い紺色の礼装には、金糸で宝石を抱いた鳳凰と月桂樹が刺繍されている。
その胸元には、エルナの耳飾りと対になる意匠のサファイアのブローチが、さりげなく留められていた。
「行こう」
「はい」
エスコートのために差し出された左手へ、自分の手を重ねる。
ルシアンはその手を優しく包み込み、安心させるように微笑んだ。
「国王陛下も王太后陛下も、皆、エルナに会えるのを楽しみにしている。気負うことはない」
王太后は前公爵の妹であり、ルシアンの大叔母にあたる。
幼い頃、エルナは何度か王太后に招かれ、この王宮を訪れたことがあった。
王太后や王妃とお茶や菓子をいただき、王女と庭を駆け回って遊んだ。
「では、そういたしますわ」
思い出して、エルナは小さく笑みをこぼす。
あの頃はまだ幼く、王女と二人でかくれんぼをしようと侍女たちを撒き、挙げ句の果てには王宮で迷子になってしまった。
王太子に見つけてもらい事なきを得たものの、事情を聞いた公爵夫人にはこってり叱られたものだ。
「どうぞ、お進みください」
後に続く令息令嬢たちが整列を終えると、大広間へと続く扉がゆっくりと開かれた。
◇ ◇ ◇
王宮の大広間は、無数のシャンデリアが眩い光を降り注ぎ、磨き上げられた床にはその輝きが映り込んでいた。
開かれた扉の先に、一人の少女が姿を現す。
その瞬間、貴族たちの視線は自然と彼女へ集まっていた。
――ノルドガルド辺境伯令嬢。
本日の主役の一人。
純白のドレスに幾重にも重ねられた繊細なレースが、歩みを進めるたび、銀糸の刺繍と小さなエメラルドを受けて柔らかな光を散らしていく。
その傍らには、婚約者である次期公爵ルシアン。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、前だけを見据えて歩くエルナを見つめる青い瞳は、どこまでも穏やかで優しかった。
「あのレース……公爵領のものではなくて?」
「あの髪飾りの細工……あれも公爵領の職人では?」
「公爵夫人が控室へ付き添っていらしたそうよ」
「ご覧になって、公子様のお顔を……」
囁きは、驚きと確信を帯びて広がっていく。
ドレスも。宝飾も。婚約者自らの介添えも。
その一つ一つに、公爵家の意向が隅々まで込められていた。
――未来の公爵夫人。
そう宣言しているも同然だった。
まことしやかに囁かれていた噂は、もう誰の口にも上らない。
白い結婚。婚約解消。公子の心変わり。
そんな憶測は、辺境伯令嬢が大広間へ姿を現した、その一瞬で跡形もなく吹き飛んでいた。
けれど、エルナには貴族たちのどよめきは届いていなかった。
前を向いて歩みながら、きらきらと瞳を輝かせて周囲を見渡す。
祝いの花々。天井から降り注ぐように輝く無数のシャンデリア。
そして、この晴れの日を見守るために集まった多くの貴族たち。
幼い頃は「ここは大人たちの場所だから」と立ち入ることを許されなかった王宮の大広間。
その場所に、今、自分は立っている。
胸が高鳴った。
何より隣には、兄のように慕い続けてきたルシアンがいる。
幼い頃からずっと尊敬し、憧れてきた婚約者。
今日は、その人が自分をエスコートしてくれている。
やっと隣に立てるのだ。
その喜びだけで、胸はいっぱいだった。
デビュタントを迎える令息令嬢たちの待機場所へ到着すると、ルシアンはそっとエルナの手を離した。
安心させるように一つ頷くと、自らは侍従との打ち合わせどおり、エスコート役の男性たちが待機する位置へ向かっていく。
それに合わせるように、後から入場してきた令息令嬢や、エスコートを務める男性貴族たちも次々と所定の位置へ並んでいった。
全員が揃うまでの間、エルナは壇上へ静かに視線を向ける。
国王。王妃。王太后。王太子。王太子妃。そして、王女。
そこには、存在するだけで自然と背筋が伸びるような威厳と品格を備えた王家の面々が並んでいた。
その中でただ一人、王女だけは瞳を輝かせながら、これから社交界へ踏み出す令息令嬢たちを楽しそうに見つめている。
ふと視線が重なった。
王女はほんの一瞬、懐かしむように微笑む。
エルナも小さく笑みを返した。
やがて最後の一人が所定の位置へ着き、入場が終わる。
大広間には、期待と緊張、そして値踏みするような視線が静かに交錯していた。
侍従が一歩前へ進み出る。
「これより、本年デビュタントを迎える令息令嬢より、国王陛下ならびに王家の皆様へ、ご挨拶申し上げます」
その声が響いた瞬間、大広間から物音が消えた。
張り詰めた静寂の中、侍従が最初の名を高らかに告げる。
「エルナ・ノルドガルド様――」
「はい」
エルナの柔らかな返事が、大広間に静かに響いた。
一歩。また一歩。
歩みを進めるたび、貴族たちの視線が彼女へと集まっていく。
姿勢。目線。歩幅。
公爵領最高峰の職人たちが仕立てたドレスを纏う少女は、その期待に見合う淑女なのか。
歩みとともに繊細なレースが淡くきらめき、栗色の髪が揺れる。
やがて国王たちの御前で、エルナは静かに足を止めた。
小さく息を吸う。
片足を引き、膝を柔らかく折る。
ゆっくりと身を沈めるその所作に合わせ、純白の裾がふわりと円を描いた。
静まり返った大広間に響くのは、幾重にも重なるレースが床をなでる、かすかな衣擦れの音だけ。
――完璧なカーテシーだった。
思わず見惚れたのは、美しいドレスだったのか。
それとも、そのドレスを優雅に纏う少女だったのか。
静かに身を起こしたエルナへ、国王が小さく頷く。
王妃と王太后は満足そうに目を細め、王太子と王太子妃はそっと視線を交わした。
王女は、嬉しそうににこりと微笑む。
大広間には感嘆のどよめきが広がった。
その中で、辺境伯夫妻と次兄スヴェンは誇らしげに笑みを浮かべ、公爵夫妻もまた静かに頷き合う。
再び一礼して列へ戻ったエルナは、ほっと胸をなで下ろした。
(無事に終わりましたわ)
安堵した途端、緊張はどこかへ消えてしまう。
今度は他の令嬢たちの華やかなドレスや、令息たちの凛々しい礼装へと目を輝かせ、一人ひとりの挨拶を楽しそうに見つめていた。
その無邪気な横顔を見たルシアンは、誰にも気づかれぬほど小さく口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
国王の祝辞が終わると、いよいよファーストダンスの時間となった。
ルシアンはエルナの前へ歩み出ると、優雅に一礼する。
「私と踊っていただけますか」
「もちろんですわ」
エルナが微笑んで返礼すると、ルシアンは左手を差し伸べた。
重ねられた小さな手をそっと包み込み、右手を細い腰へ添える。
壊れてしまいそうなほど華奢なその腰に、思わず意識が向く。
公爵邸で何度も繰り返し練習してきたというのに、今日はいつもと違って見えた。
ふと見つめていると、エルナが不思議そうに首を傾げる。
「私のカーテシー、如何でした?」
「誰よりも素晴らしかった」
その言葉に偽りはない。
姿勢も、所作も、間の取り方も。
次期公爵夫人として、これ以上ないほど見事だった。
一番手がエルナだったことで、後に続く令息令嬢たちはさぞ緊張したことだろう。
だが、当の本人はそんなことなど露ほども気付いていない。
「お兄様に褒めていただけると、嬉しいです」
満面の笑みを浮かべるエルナは、やり遂げた達成感に満ちていた。
その無邪気な笑顔に、ルシアンは思わず目を細める。
(やはり、いつものエルナだ)
周囲がどれほど驚こうとも、本人は何ひとつ変わらない。
そのことが、どこか可笑しく、そして愛おしかった。
やがてデビュタントを迎えた令息令嬢たちも向かい合い、それぞれの位置へ着く。
静まり返っていた大広間に、王宮楽団の奏でるワルツが流れ始めた。
王宮楽団の奏でる音色に合わせ、ルシアンとエルナはゆっくりと踊り始めた。
祝いの日にふさわしい、華やかで軽やかなワルツ。
軽やかにステップを踏むたび、幾重にも重ねられたレースがふわりと揺れ、銀糸の刺繍が柔らかな光を映してきらめく。
くるりと身を翻せば、純白のスカートが花開くように広がった。
「二人で練習するよりも、舞踏会で踊る方が楽しいですね」
弾むような声に、ルシアンは思わず微笑む。
もっとも、エルナの視線は時折、自分ではなく周囲へ向けられていた。
色とりどりのドレス。令息たちの礼装。
初めて目にする華やかな社交界の光景に、瞳がきらきらと輝いている。
その横顔を見て、ルシアンは苦笑した。
「私が合わせるから、楽しむといい」
エルナのダンスは、もう十分に完成されている。
多少よそ見をしたところで、歩幅も間も、自分が合わせれば困ることはない。
だが、その言葉にエルナははっと目を見開いた。
「私としたことが……。今は、お兄様との時間ですわ」
令嬢たちのドレスも、令息たちの礼装も、あとでゆっくり眺めればいい。
せっかくルシアンがエスコートしてくれているのだ。
自分の不注意で歩調を乱してしまっては申し訳ない。
真剣そのものの表情で見つめ返してくるエルナに、ルシアンは思わず吹き出しそうになる。
(やはり、相変わらずだ)
そんな無邪気さが、たまらなく愛おしい。
二人はまるで初めから一つの旋律を奏でていたかのように、息を合わせて優雅に踊り続ける。
やがてワルツが終わり、互いに一礼を交わした、その瞬間。
まるで堰を切ったように、大広間の空気が動き始めた。
「公子様、辺境伯令嬢のドレス、とても素敵でしたわ」
「公子様は昔からご令嬢をご存じなのですよね?」
「婚約者様は、どのようなお方なのですか?」
ルシアンの周囲には、次々と令嬢や令息たちが集まってくる。
誰も露骨ではない。
だが、少しでも会話を交わしたいという思惑は明白だった。
今日の主役を称賛するという大義名分ほど、自然な口実はない。
ルシアンはいつものように穏やかな笑みを浮かべ、一人ひとりへ丁寧に応じていた。
一方、エルナの周囲にも、同じく人垣ができ始めていた。
「そのドレス、公爵領で仕立てられたのでしょう?」
「刺繍がとても綺麗ですね」
「公子様がエスコートしてくださるなんて、素敵ですわ」
令嬢たちの言葉に、エルナは照れたように頬を染める。
「ありがとうございます」
嬉しく思う反面、少しだけ圧倒されてもいた。
目の前にいる令嬢たちは、皆、息を呑むほど美しい。
話し方も、立ち居振る舞いも。
丁寧に結い上げられた髪も、繊細な化粧も。
そのすべてが洗練されていた。
(皆様、とてもお綺麗ですわ……)
思わず、自分の純白のドレスへ視線を落とす。
公爵夫人とルシアンが用意してくれた一着だから、見劣りすることはない。
それでも、自分は彼女たちのような華やかさには及ばない気がした。
ふとルシアンの方を見る。
その周囲には、やはり男女を問わず人が絶えない。
尊敬。憧れ。親愛。
そして、密かに恋心を宿した眼差し。
さまざまな想いを向けられながらも、ルシアンは変わらぬ笑みで応じていた。
(お兄様は、本当に人気者なのですね)
王都でその名を知らぬ者はいない、次期公爵。
その姿を改めて目の当たりにし、エルナは自然と背筋を伸ばした。
(私も頑張りますわ……!)
ルシアンのような華やかさはない。
けれど、辺境伯家の娘として。
そして、いずれ公爵家へ嫁ぐ者として。
今の自分にできることを、一つずつ積み重ねていこう。
そう心に決め、声をかけてくれる令嬢たちへ笑顔で応じていると、
聞き慣れた優しい声が響いた。
「お嬢さんたち、続きはまた後日、ゆっくりお話しなさいませ」
穏やかな声が響く。
令嬢たちがさっと道を開けると、公爵夫人と辺境伯夫人が歩み寄ってきた。
「ご挨拶すべき方が大勢いらっしゃいます。付いていらっしゃい」
「はい、奥様」
エルナが公爵夫人の隣へ並ぶ。
その後ろで、辺境伯夫人が令嬢たちへ柔らかく微笑んだ。
「この子と、仲良くしてあげてくださいね」
「はい!」
令嬢たちは一斉に頷く。
その様子を見届けると、今度はルシアンがエルナのもとへ歩み寄ってきた。
しかし、公爵夫人は一歩早くその前へ立つ。
「ルシアン」
「はい、母上」
「わかっていますね」
その青い瞳が静かに動き、デビュタントを終えたばかりの令息たちと、その父親たちを示した。
次期公爵として、今日は彼らとも言葉を交わさなければならない。
「……もちろんです」
ルシアンはわずかに視線をエルナへ向ける。
もっと傍にいたい。
その想いを胸にしまい込み、公爵夫人へ向き直った。
「では、お行きなさい」
「かしこまりました」
公爵夫人と辺境伯夫人へ一礼すると、ルシアンは踵を返す。
その背を見送り、エルナもまた二人の夫人に導かれながら歩き出した。
王族をはじめ、高位貴族、名だたる当主とその夫人たち。
一人ひとり紹介を受け、そのたびに挨拶を重ねていった。
◇ ◇ ◇
気がつけば、デビュタントの舞踏会も終盤を迎えていた。
まもなく、最後の一曲が始まる。
ルシアンは人波を縫うように、真っ直ぐエルナのもとへ歩み寄った。
途中、声を掛けようとする令息が一人いたが、ルシアンは静かに視線を向けるだけで十分だった。
その令息は言葉を飲み込み、一歩退く。
公爵夫人と辺境伯夫人の傍らにいたエルナは、ルシアンの姿を見つけると、ぱっと表情を綻ばせた。
「最後にもう一度、踊ってくれないか」
「はいっ」
嬉しそうに差し出された手を重ね、二人は大広間の中央へ歩み出る。
やがて王宮楽団が最後のワルツを奏で始めた。
ゆったりとした旋律に合わせ、二人は静かに踊り始める。
ようやく、二人だけで言葉を交わせる時間だった。
「初めての夜会はどうだった?」
「思っていたより忙しかったです。でも、皆様とても優しくて……素敵な場所ですね」
無邪気な笑みに、ルシアンの表情がわずかに曇る。
社交界は、そんなに優しい場所ではない。
笑顔の裏には、思惑があり、駆け引きがある。
今日、誰もが彼女へ友好的だったのは、辺境伯令嬢として、そして未来の公爵夫人として認められたからだ。
立場が変われば、人の態度など容易く変わる。
その現実を、まだエルナは知らない。
「お兄様が皆様に慕われていらっしゃって、少し鼻が高いです」
誇らしげに微笑むエルナに、ルシアンは苦笑した。
「大したことではない」
建国以来、王国の「文」を司ってきたヴァレリオン公爵家。
王国の内政を担い、宝飾や服飾をはじめ数々の産業を支える名門。
誰もが、その家と良好な関係を築きたいと願っている。
だからこそ。
その婚約者となるエルナもまた、値踏みされる立場にあった。
「エルナ」
「はい」
「些細なことでも構わない。何かあったら、私に言うんだ」
穏やかな声音の奥に、静かな決意を滲ませる。
彼女は、誰にも傷つけさせない。
その想いに偽りはなかった。
「……?」
けれど、その真意など知る由もないエルナは、不思議そうに小さく首を傾げるのだった。
「私、もう子どもではないのですが……」
「大人の世界は複雑なんだ」
眉をわずかに寄せるルシアンへ、エルナは少しだけ考え込んでから、小さく頷いた。
「では、悩んだら相談いたしますわ」
「思い詰める前に来てくれ」
「もちろんです」
屈託のない笑みを浮かべるエルナと、その笑顔を優しく見つめるルシアン。
傍から見れば、仲睦まじい婚約者同士が穏やかに踊っているだけだった。
「素敵ねぇ」
「そうですわね」
二人を眺めながら、辺境伯夫人は穏やかに微笑む。
その隣では、公爵夫人が扇の陰でそっと額へ手を添えていた。
エルナのデビュタントは、大成功だった。
社交界も、王家も、貴族たちも、今日という日で彼女を未来の公爵夫人として認めただろう。
そこに不安はない。
問題は――息子だった。
ルシアンの想いは、とうに揺るぎない。
あとはエルナが、その想いに気づくだけ。
社交界へ出れば、息子を一人の男性として見る機会も増える。
何かが変わるのではないか。
そんな淡い期待を抱いていた。
けれど。
「お兄様」
そう呼ぶ声は、今日も変わらない。
向けられる眼差しも、兄を慕う妹そのものだった。
「……先は長そうですわね」
誰にも聞こえぬよう、公爵夫人は小さくため息をつく。
それでも、焦る必要はない。
恋とは、誰かに教えられて芽吹くものではないのだから。




