公爵領編-1 公爵家との再会
辺境伯領を発った馬車が南へ進むにつれ、嵩高く積もっていた雪は次第に薄れ、白一色だった景色にも街道の土が覗くようになった。冬しか知らないような故郷とは違う景色に、エルナは思わず窓の外へ目を向ける。
ルシアンの手紙とともに届いたのは、公爵夫人からの招待状だった。
新年の祝賀を終えたら、春から始まる社交シーズンの準備と、次期公爵夫人としての教育のため、公爵領へいらっしゃい――そんな内容が、美しい筆跡で綴られていた。
原因はルシアンだ。
辺境伯家の誰もがそう思ったが、誰一人口にはしなかった。
「さすがは奥様ですわ。こんなに早くから気に掛けてくださるなんて」
エルナだけは素直に感心し、二つ返事で招待を受けた。
公爵領を訪れるのは、蛮族侵攻の折、安全のために預けられて以来のことになる。
家族が用意してくれた土産を馬車へ積み込み、名残を惜しみながらも「また春に」と笑って別れを告げた。
公爵領は王都から東へ二、三日ほどの場所にある大領地だが、北端に位置する辺境伯領から向かうとなれば、かなりの長旅になる。
南へ進むにつれ雪は減っていったものの、冬の冷え込みは変わらない。馬車の中も常に暖かいわけではなく、夜明けや日暮れには吐く息が白くなるほどだった。
それでもエルナは少しも苦にならなかった。
久しぶりに訪れる公爵領への期待が、その寒ささえ忘れさせていたからだ。
辺境伯領を経って、十日以上が過ぎたある日。
長旅を終えた馬車は、ようやく公爵家の城門をくぐった。
エルナが御者の手を取って馬車から降りると、城門の前で待っていた公爵一家が迎えてくれた。
「よく来てくれた」
「お久しぶりです、公爵様」
膝を軽く折り、公爵へ向かって丁寧に礼をする。
「うむ」
にっこりと笑うエルナを見て、公爵は満足そうに頷いた。
「奥様も、お招きいただきありがとうございます」
「また会えて嬉しいわ」
両腕をゆったりと広げた公爵夫人へ、エルナも自然と歩み寄り、軽く抱擁を交わす。
「私もです」
抱擁を終えると、公爵が気遣うように尋ねた。
「道中、寒くはなかったか?」
「クッションがふかふかで、毛皮もたくさんご用意いただいたので、平気でした」
朝晩は想像より少し冷え込む日もあったが、辺境伯家の馬車より柔らかな座席のおかげで、長旅も快適だった。
「それならよかった。風邪を引いては大変だからな。護衛騎士たちの粗相はなかったか?」
「皆様、とても親切にしてくださいました。それに、お菓子もありがとうございました」
「馬車の中は退屈だと思ってな」
珍しく公爵の口数が増えていく。
すると、公爵夫人が静かに扇を閉じた。
「あなた?」
穏やかな笑顔のまま、閉じた扇をそっと後ろへ向ける。
その先には、婚約者との再会を今か今かと待ちながら、平静を装って立つルシアンの姿があった。
「ああ、そうだった」
公爵は小さく咳払いをすると、息子へ視線を向ける。
「お前も挨拶くらいしたらどうだ」
促されて、エルナもルシアンのほうへ向き直る。
「お久しぶりです、ルシアン様」
「……元気そうでよかった」
いつもと変わらない、低く静かな声だった。
「お手紙、たくさんありがとうございました」
「大したことではない」
にこにこと話しかけるエルナとは対照的に、ルシアンの返事は短い。
それでも視線だけは、一瞬たりともエルナから離れなかった。
公爵夫人は心の中でため息をつく。
(誰のために、わざわざここで迎えたと思っているのかしら)
少しくらい「会いたかった」と言えばいいものを。
当の息子は、そんな簡単な一言すら口にできずにいる。
「また屋敷が賑やかになるな」
「ええ。ようやく、ですわね」
公爵と公爵夫人は小さく目を合わせ、微笑み合った。
公爵家の居城は、実用性を重視した辺境伯家の城よりも、はるかに壮麗だった。
エントランスホールは吹き抜けになっており、見上げれば絢爛な天井画が広がる。ソファやテーブルといった調度品は、座るのもためらわれるほど豪奢だ。柱や窓辺にも細やかな彫刻が施され、その一つひとつに公爵家の財力と歴史が刻まれている。
久しぶりに足を踏み入れたエルナは、その豪華さに思わず見入った。
公爵夫妻の後ろについてホールを進み、大階段の横を通り過ぎようとした時だった。
隣を歩くルシアンが、エルナにだけ聞こえるほど小さな声で呟く。
「あそこから滑り降りたな」
「そうですね」
懐かしさに、ふっと笑みがこぼれる。
幼い頃、この大階段の手すりに腰掛け、そのまま勢いよく滑り降りたことがあった。
誰にも見られていないと思っていたのに、後から使用人が報告したのだろう。
公爵夫人に、たっぷりと言い聞かされたのは今でも忘れられない。
家族用の階段から二階へ上がる。
こちらには客室や図書室、内々で使うサロンなどが並んでいた。
しかし案内される方向は、以前泊まった客室とは違う。
「前と同じお部屋ではないのですか?」
「ええ。あちらは長期滞在用の客室ですから」
穏やかに答えた公爵夫人は、そのまま廊下の奥へ進む。
そして立ち止まったのは、ルシアンの私室のちょうど向かいだった。
エルナは思わず目を丸くする。
「今日からはこちらを使いなさい。調度品は最低限しか揃えておりません。足りない物や趣味に合わない物があれば、侍女長へお伝えなさい」
「ありがとうございます」
「さあ、どうぞ」
公爵夫人に促され、エルナは侍女長と共に部屋へ入っていく。
扉が静かに閉まると、公爵夫人はすっと表情を改め、ルシアンへ向き直った。
「さて、ルシアン」
「はい、母上」
先ほどまでエルナへ向けていた柔らかな空気とは対照的に、母子の間には張り詰めた空気が流れる。
「わかっていますね」
「……もちろんです」
一瞬の沈黙。
「廊下には夜番を増やします」
「当然です」
「侍女も交代で詰めさせます」
「異存ありません」
「護衛騎士も配置します」
「はい」
淡々と答えるルシアン。
その様子を見つめ、公爵夫人はさらに一歩近づいた。
「買収できる、などとは考えないことです」
「……その発想はありません」
苦笑する息子へ、公爵夫人はじっと視線を向ける。
「本当でしょうね?」
「本当です」
なおも疑いの眼差しは消えない。
その時、公爵が小さく咳払いをした。
二人が同時に振り返る。
「お前なら金ではなく、頼み込む方だろう」
「父上……」
「だから余計に駄目だ」
言い返せない。
王太子にすら一目置かれる父に真顔で断言され、ルシアンはとうとう言葉を失った。
公爵夫妻は揃って息子を見つめる。
――信用していないのではない。
信用しているからこそ、念には念を入れているのである。
エルナに用意された部屋は、以前使っていた客室よりも広く、淡い色合いでまとめられていた。
壁紙や絨毯、カーテンに至るまで柔らかな色で統一され、窓辺には季節の花が飾られている。
「素敵です」
思わず声が漏れる。
「奥様が、エルナ様のためにとお選びになられたお部屋でございます」
「そうだったのですね」
公爵夫人らしい上品な趣味が随所に感じられ、エルナは部屋をゆっくり見回した。
「ドレスルームには、若様がエルナ様のために新しいドレスをご用意されております」
「ルシアン様が?」
「はい」
侍女長に案内されて扉を開けると、美しいドレスが何着も並んでいた。
どれも今のエルナの体格に合わせて仕立てられたものばかりだ。
「いつの間に……」
思わず小さく呟く。
侍女たちが荷解きを進める間、部屋の案内を終えた侍女長は静かに一礼した。
「ごゆっくり、お支度なさってくださいませ」
荷解きが終わると、せっかくだからとルシアンが用意してくれたドレスの一着へ着替える。
ソフィーが最後に青色に銀糸のリボンを整え、満足そうに頷いた。
「旦那様方は談話室へ移動されました」
「そうですか」
辺境伯領から持ってきた土産の入った袋を抱える。
「お持ちいたします」
ソフィーが申し出るが、エルナは首を横に振った。
「これは私が渡したいのです」
「承知いたしました」
部屋を出ると、向かいの壁にもたれるようにしてルシアンが待っていた。
足音に気づき、静かに顔を上げる。
「待っていてくださったのですか」
「ああ」
まるでそれが当然であるかのような返事だった。
「ドレス、いつもありがとうございます」
「気にするな」
短く答えながらも、ルシアンの視線はエルナから離れない。
ふと、エルナが大事そうに抱える土産袋へ目を向ける。
手伝おうとはしない。
それをエルナ自身が渡したいことを、知っているからだ。
代わりに、ルシアンはそっと片手を差し出した。
「足元に気をつけろ」
エルナは袋を抱えたまま、その手を取る。
「ありがとうございます」
細い指が自分の手に重なると、ルシアンはわずかに指先へ力を込めた。
転ばせないように。
ただ、それだけを考えるように。
二人は並んで、ゆっくりと談話室へ向かった。
廊下を行き交う使用人たちは、その後ろ姿を微笑ましく見送った。
仲良く談話室へ入ってきたルシアンとエルナを見て、公爵夫妻はそっと目を細めた。
当人たちはそんな視線など気づきもしない。
うずうずしていたエルナは、抱えていた袋を大事そうに膝へ置くと、早速ソファへ腰掛けた。
その隣へ、一人分ほど間を空けてルシアンが座る。
「皆様にお土産を持ってきましたの」
袋を開くと、丁寧に包まれた箱が六つ顔を覗かせた。
「こちらは公爵様です」
公爵が箱を開ける。
中には鹿や猪、野鳥の燻製肉が美しく詰められていた。
「これは酒に合いそうだ」
「飲み過ぎないでくださいね」
「もちろんだとも」
そう言いながら、公爵は早くも今夜の酒を思い浮かべているようだった。
もう一つの箱を開ける。
滑らかな手触りの鹿角細工のペーパーナイフが現れた。
「これは使いやすそうだ」
上機嫌な公爵を見て、エルナも嬉しそうに笑う。
「奥様はこちらですの」
公爵夫人が箱を開くと、艶やかな赤い瓶が姿を現した。
「前に話していたベリーのジャムね」
「子ども達がたくさん採ってくれましたわ」
「あなたもかしら?」
「少しだけ……」
少しどころではない。
子ども達と競うように籠いっぱい摘んできたことは、胸の内にしまっておく。
「ほどほどになさいね」
すべてお見通しだと言わんばかりに、公爵夫人は優しく微笑んだ。
続いて開いた箱には、白樺細工の小物入れが収められている。
木肌には繊細な幾何学模様が彫られ、手仕事ならではの温もりがあった。
「素敵ね。化粧台に置こうかしら」
「ぜひ使ってください」
二人が喜んでくれたことが嬉しくて、エルナの笑顔も自然と深くなる。
「ルシアン様にもありますよ」
残る箱を見つめていたルシアンへ、小さな長方形の箱を差し出した。
「どうぞ」
箱を開ける。
中には木彫りの文鎮が収まっていた。
「……熊だな」
「執務中に使えるかと思いましたの」
細長い楕円形の土台の上では、丸くなった熊が気持ちよさそうに眠っている。
頭のそばには、食べきれないほど積まれた魚。
「可愛いでしょう」
なぜ熊なのだろう。
そう思ったが、エルナが可愛いと思った。
それだけで十分だった。
「そうだな」
執務机に置けば、自然と目に入るだろう。
そのたびに、今日のことを思い出せる。
ルシアンは静かに頷き、最後の薄い箱へ手を伸ばした。
「こちらは、お土産と言うほどのものではないのですが……」
珍しくエルナの声に自信がない。
箱を開いた瞬間、ルシアンの動きが止まった。
白い布地いっぱいに刺繍されていたのは、冬の湖畔。静かに降り積もる雪。その向こうには、一頭の白いヘラジカが凛と立っている。
「針仕事の時に作ったのですが、公爵領は雪があまり積もらないと聞いたので、ちょうどいいかもしれないなと思いまして……」
エルナの説明は、もうルシアンの耳に入っていなかった。
辺境伯領の景色なのだろうか。
あの日々を思い浮かべながら、一針一針縫ったのだろうか。
指先でそっと刺繍をなぞる。そこでようやく気づく。
使われている糸は、青と白がほとんどだった。
「…………」
無意識だったのか。それとも。
考え始めた瞬間、思考を止める。
これ以上考えたら、自分に都合のいい解釈しかできなくなる。
「書類袋にしたので、よろしければ使ってください」
書類袋など、とんでもない。
彼女から届いた手紙を入れて、大切にしまっておこう。
できることなら、彼女自身も、自分だけのものとしてしまい込みたい。
「あの……お気に召さなかったでしょうか?」
沈黙が長すぎたのだろう。
不安そうな声に、ルシアンはようやく顔を上げた。
「……大事に使わせてもらう」
それだけ言うのが精一杯だった。
「ぜひ」
満足そうに笑うエルナ。
その隣では、書類袋を見つめるルシアンの耳だけが、わずかに赤くなっていた。
向かいに座る公爵は、そんな二人を見て静かに頷く。
一方、公爵夫人は心の中で小さく息をついた。
(先は長そうね)
想いは十分すぎるほど伝わってくる。
肝心の相手だけが、まだ何一つ気づいていなかった。




