辺境伯領編-4 遠き辺境
公爵夫人によって早馬伝令は禁止された。
冬の郵便は遅い。一通出しても返事が届くまで何週間もかかることがある。
早馬伝令を使えていた頃は、まだ耐えられた。
手紙を書き、返事を待ち、また手紙を書く。
文字だけでも、確かに彼女を感じることができたから。
けれど今は違う。空白の時間が長すぎた。
気を抜けばエルナのことばかり考えてしまう。
だからルシアンは仕事をした。
朝から晩まで政務に没頭した。
王太子の補佐、公爵家の仕事、積まれた書類。考える暇もないほどに。
時折招待される夜会へ出れば、いつも通りの次期公爵を演じる。優雅に微笑み、隙なく立ち回り、誰にも違和感を抱かせない。
だが事情を知るレオンハルトだけは、そんな彼を見るたび苦笑していた。
その日も本来なら深夜まで続くはずだった仕事を片付けてしまった。
気付けば、まだ夜は浅い。
執務室に残る理由もなくなり、珍しく早めに公爵邸へ戻った。
部屋へ向かう気にもなれず、足は自然と庭園へ向く。
冬の冷たい空気の中、噴水の縁に腰を下ろした。
吐く息が白い。
見上げた夜空には、静かな月が浮かんでいた。
――今頃、何をしているのだろう。
辺境伯領はもっと寒いだろうか。暖かくしているだろうか。家族と笑っているだろうか。手紙は届いているだろうか。返事はもう書いてくれただろうか。
考えないようにしていたはずなのに。
一度浮かんだ彼女の姿は、簡単には消えてくれない。
初めて会った日のことを思い出す。
まだ幼かった彼女は、婚約者というものがよく分かっていなかった。
「ルシアン様、と呼んでごらん」
そう言われても、上手く名前を発音できずに、恥ずかしそうにもじもじするばかり。
未来の夫。未来の家族。家族なら兄。
そんな幼い理屈を積み重ねた結果。
「おにいさま……」
と呼ばれたのだった。
周囲は微笑ましそうに笑い、本人は大真面目だった。
結局その呼び方は長く続くことになる。
思わず小さく笑みが漏れた。
あの頃のエルナは、自分の姿を見つけると必ず後ろをついてきた。
「お兄様、お勉強わかる?」
「ここが分かりません」
本を抱えてやって来ることもあれば、木登りをしようとして母に止められたり、馬が見たいと馬小屋へ忍び込み、屋敷中を探し回る騒ぎになったこともあった。夜になると辺境伯家が恋しくなり、声を殺して泣いていた。
そんな時は隣に座って慰めた。
母に見つかれば叱られると分かっていながら、庭園の果実をもぎ取って二人で食べたこともある。
北部蛮族の侵攻によって公爵家へ預けられた一年。
今思えばあっという間だった。
けれど確かに、あの一年でエルナは家族になった。
辺境伯領へ戻ってからは会える回数が減った。
年に数度。それだけだった。
それなのに、あの小さくてふわふわした生き物は、会うたび少しずつ変わっていった。
背が伸びた。髪が伸びた。笑い方が変わった。
明るく、真っ直ぐで、柔らかな少女へと成長していった。
気付けば目で追うようになっていた。
そして――デビュタント。
あの日の彼女は、本当に、誰にも見せたくない宝物だった。
籠を揺らされることもなく。誰かに触れられることもなく。大切に、大切に守られて育った雛鳥。
王太子妃のような完璧さもない。王女のような精巧な美しさもない。侯爵令嬢のような艶やかさもない。
けれど彼女がいるだけで、雪は溶け、花は咲き、春の微睡みを思い出す。
あの日、初めて「ルシアン様」と呼ばれた。たったそれだけだったのに、胸の奥が熱を持った。
あの何とも言えない高揚感は、今思い出しても言葉にならない。
本当は、側にいてくれるだけで良かった。それだけで十分だったはずなのに。
茶会へ行く。夜会へ行く。新しい友人を作る。新しい世界を知る。
まるで歩き始めたばかりの赤子のように、どこへでも行ってしまう。
止めたい。だが止められない。止める資格もない。
そうして雛は成鳥になった。
一人で風に乗って飛び立ち、知らない景色を見て、土産話を咥えて帰ってくる。
そんなもの、なくていいのに。
ルシアンはゆっくりと息を吐いた。
冬の凍てつく空気が肺を刺す。
それでも今の彼には、その寒さすら遠く感じられた。
ふと顔に手をやる。指先が煙水晶の眼鏡に触れた。外して、慣れた手つきでくるりと回す。
もう何年も続けている癖だった。
淡い月光を受けた煙水晶が静かに光る。
――これを掛けるようになった日のことを思い出す。
あれはエルナが公爵家へ預けられていた頃。まだ何もかもが幼く、平和だった時代。二人でこの庭園を歩いていた。
今と同じ噴水のそば。 何を話していたのかは覚えていない。本当に他愛ないことだったはずだ。
けれど、彼女の言葉だけは不思議と忘れられない。
「お兄様のお目目、宝石みたい」
噴水の縁に腰掛けたまま、エルナは無邪気にそう言った。
夕陽を受けた水面が揺れ、彼女の瞳もきらきらと輝いていた。
その顔があまりにも嬉しそうだったので、つい「なら、お前だけの宝石だな」と、そんなことを言ってしまった。
今思えば、よくもあんな台詞を口にできたものだ。
エルナは意味も分からず、喜んでいた。
ルシアンは思わず苦笑した。
数年後。遥か東方から来たという行商人と出会った。
珍しい品々の中に、その眼鏡はあった。
煙水晶を薄く削り出した、不思議な眼鏡。
それを見た瞬間、真っ先に思い出したのがあの日の言葉だった。
「お兄様のお目目、宝石みたい」
だから買った。誰にも見せないために。少なくとも、彼女以外には。
宝石なら隠してしまえばいい。そんな子どもじみた独占欲だったのかもしれない。
初めて眼鏡を掛けた姿を見たエルナは、ひどく心配そうな顔をした。
「お兄様、目が悪くなったんですか?」
今にも泣きそうな勢いだった。
「違う。ただの飾りだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
そう答えると、彼女は安心したようで、ぱっと表情を明るくした。
「そうなんですね!」
そして。
「格好良いです!」
屈託なく笑った。
あの日から、彼女は一度も知らない。この眼鏡を掛ける理由になったのが、自分自身だったことを。
ルシアンは煙水晶を見つめた。
月光を受けたレンズの向こうに、自分の顔がぼんやり映る。
そして静かに眼鏡を掛け直した。
今さら知られたところで、きっと困るだけだ。
――それでも。
次に会えたら、その笑顔を、もう一度見たいと思ってしまうのだから。
ルシアンを窓辺から見下ろしていた公爵夫人は、扇の下でそっとため息をついた。
早馬伝令を禁止した後、公爵領へ戻り領地の仕事に追われていた。
そして所用で再び王都を訪れてみれば、この有様である。
まさか手紙ひとつで、ここまでになるとは。
どこの恋愛劇に出てくる乙女だ。
「なんだ、またやっているのか」
背後から声がした。
振り返れば、帰宅したばかりの公爵が外套を脱ぎながらこちらへ歩いてくる。
「またですの?」
「ああ」
公爵は窓の外を一瞥した。
それだけで事情を察したらしい。
「気にするな」
そう言うと、大したことではないと言わんばかりにソファへ腰を下ろした。
使用人が淹れたばかりの茶を差し出す。
「風邪を引きます」
「あいつも男だ。平気だろう」
実に気楽なものである。
公爵は湯気の立つ茶を口へ運び、すっかりくつろいでいた。
だが夫人は窓辺から離れなかった。
月光を浴びる銀髪。噴水の水面を映したような碧眼。羽をもがれた天使のような色香を纏う、生ける彫刻。
あれを世に送り出すわけにはいかない。
ただでさえ令嬢たちが放っておかないのだ。本人が無自覚だから余計に始末が悪い。
「政務の方は?」
「やりすぎだな」
公爵は即答した。
「朝から文官たちの仕事まで抱え込んでいる」
夫人は眉をひそめる。
予想通りだった。
「社交は?」
「完璧だ」
「……あれで?」
「あれで」
窓の外では、ルシアンが噴水の縁に腰掛けたまま月を見上げている。
どう見ても恋煩いの青年である。
「本当に?」
「外ではな」
公爵は肩を竦めた。
「非の打ち所のない次期公爵だ」
どうやら理性だけは辛うじて残っているらしい。
それでも、春まで保つ保証はどこにもない。
毎度毎度こんな姿を見せられては、たまったものではなかった。
若い使用人たちにまで変な影響が出始めている。
先日など、侍女がうっかり見惚れて花瓶を割った。
(まったく……)
公爵夫人は扇を閉じた。
もう十分だ。理由ならいくらでも作れる。
淑女教育。次の社交界への準備。将来の公爵夫人教育。
どれも嘘ではない。
夫人は振り返った。
「エルナを呼びましょう」
公爵は茶を飲みながら、「ああ」とだけ答えた。
反対する理由など、最初からなかった。




