辺境伯領編-3 手紙
収穫祭が終わった。
数日かけて広場の片付けが行われ、祭りのために集まっていた人々もそれぞれの日常へ戻っていく。
辺境伯城にも、いつもの静けさが戻りつつあった。
そんなある日の午後。
エルナは居間の窓辺に腰掛け、本を読んでいた。
正確には、読もうとしていた。
ぱたり。
また一ページも進まないまま、本を閉じる。
窓の外へ視線を向けた。
まだ来ない。
別に急ぎの用事があるわけではない。
けれど、そろそろ届いてもいい頃だと思うのだ。
収穫祭のことを書いた手紙は、もうとっくに送っている。
祖父と話したことは書かなかった。
なんとなく、自分だけの思い出にしておきたかったから。
代わりに、収穫祭で騎士団員とのリンゴ食い競争に負けたこと。子どもたちと踊ったこと。長男夫婦の赤子が相変わらずよく眠ること。
そんな他愛ない話をたくさん書いた。
だから今度は、ルシアンからの返事を待っている。
「お嬢様」
ソフィーが紅茶を置いた。
「ありがとうございます」
エルナは微笑む。
そして何気なく聞いた。
「今日は伝令の方はいらしていませんの?」
「いいえ」
「そうですか」
少し残念そうに答えて、カップへ手を伸ばす。
本当に少しだけ残念なだけだ。
今までだって、手紙は毎日届くものではなかった。
明日かもしれない。明後日かもしれない。
その程度にしか考えていない。
だから再び本を開いた。
◇ ◇ ◇
その頃、遠く離れた公爵家では。
「却下です」
公爵夫人が冷たく言い放った。
ルシアンは黙っていた。
正確には、反論を飲み込んでいた。
「早馬の伝令騎士は公爵家の私物ではありません」
「承知しております」
「辺境伯家との連絡が重要なのは理解しています」
「はい」
「ですが四日に一度は多すぎます」
沈黙。
「ルシアン」
「はい」
「返事が来たその日に返信を書いていますね?」
さらに沈黙。
公爵夫人はため息をついた。
机の上には使用記録が並んでいる。
辺境伯領。
辺境伯領。
辺境伯領。
辺境伯領。
見事なまでに同じ行き先だった。
「通常便を使いなさい」
「……承知しました」
そう答えるしかない。
さらに悪いことに、今年の北部は雪が早かった。
街道の状態も徐々に悪化している。
今までのような速度では届かない。
分かっている。分かっているのだが。
ルシアンは机の引き出しを開いた。
そこには丁寧に束ねられた手紙が並んでいた。
辺境伯領の空。市場の菓子。遠乗りの話。赤子の話。収穫祭の話。
何度も読み返した文字たち。
彼は一通を取り出し、小さく息を吐いた。
そして再び封筒へ戻す。
まだ返事は来ていない。日数で言えば、何もおかしくない。むしろ普通だ。
普通なのだが――。
窓の外へ視線を向ける。
ちらちらと雪が舞い始めていた。
◇ ◇ ◇
一方その頃、辺境伯城では。
「ルシアン様、遅いですわね」
エルナがぽつりと呟いた。
ソフィーは思わず視線を逸らす。
事情を知っている辺境伯家の使用人たちは、誰も何も言わなかった。
ただ一つだけ確かなのは、エルナが思っているよりも、そしておそらく本人が思っているよりも、ルシアンは、その手紙を待っているということだった。
◇ ◇ ◇
暖炉がぱちぱちと薪を弾く音を立てていた。
外は朝から荒れ模様だ。
談話室の窓の向こうでは、灰色の雲が空を覆い、吹きつける風が積もった雪を巻き上げている。
エルナはヒルダの向かいに腰掛け、針仕事に手を動かしていた。
「最近は、お天気があまり良くありませんね」
「そうね」
ヒルダも手元から顔を上げる。
「宿場で足止めされた商人もいるそうよ」
窓の外へ目を向けながら、エルナは小さく頷いた。
積雪に加えて悪天候が続けば、馬も思うようには進めない。
冬の訪れを知らせるかのように、ルシアンからの手紙は一度大きく遅れて届いた。
それ以来、手紙のやり取りは以前よりも緩やかなものになっている。
数日おきに届いていた便りは、今では一週間近く待つことも珍しくない。
けれど、それは仕方のないことだった。
冬が来たのだ。誰が悪いわけでもない。
「今日のお天気も、早く収まると良いですね」
そう言いながら針を進める。
ヒルダはそんなエルナを見て、ふっと笑った。
「そうねぇ」
どこか含みのある声音だった。
エルナは首を傾げる。
「お義姉様?」
「何でもないわ」
微笑んだまま義姉は視線を落とした。
なぜ笑われたのか分からなかったが、特に気にも留めなかった。
エルナもまた手元へ目を戻す。
青い糸。白い糸。
無心で針を刺していくと、少し気分が落ち着いてくる。
静かな冬の湖畔と、降り積もる雪を思わせる色が、少しずつ布の上に形を成していく。
その先には、凛とたたずむ一頭の白いヘラジカ。
見慣れた故郷の景色だった。




