辺境伯領編-2 収穫祭
収穫祭が始まった。
辺境伯による堅苦しい開会の儀礼が終われば、いよいよ領民たちが待ちに待った宴の時間である。
侵入者を寄せ付けないために築かれた分厚い城門も、その先の内城門も、この日ばかりは大きく開け放たれていた。
普段は厳めしく見える城塞も、今日だけは祝祭の舞台だ。
城内は嬉々とした領民たちで溢れ返っていた。
丸々と太ったガチョウや豚のロースト。豪快に焼き上げられた雄牛の丸焼き。山のように積み上げられた白パン。たっぷりの砂糖と果実を使ったリンゴのパイ。 そして、次々と運び込まれるる樽ごとのエール。
一年の実りを祝う無礼講の始まりだった。
エルナも領主一家の席に大人しく座っていたのは最初だけである。
乾杯が済むなり、早々に席を立った。
農民たちの卓へ顔を出しては、焼きたてのパイを両手いっぱいに運ぶ。
子どもたちに呼ばれれば石投げ大会へ参加し、大人顔負けの記録を出して歓声を浴びた。
騎士団員たちに捕まればリンゴ食い競争へ引っ張り出される。
結果はもちろん惨敗だったが、それすら笑い話になる。
声をかけられれば、誰とでも踊った。
若い農夫とも。職人の息子とも。顔なじみの騎士とも。
楽師たちの奏でる陽気な音楽に合わせて何度も輪へ加わり、そのたびに笑い声が広がる。
王都の夜会とは違う。
作法よりも楽しむことが優先される、故郷の祭りだった。
気づけば日はすっかり沈み、広場のあちこちで巨大な篝火が焚かれていた。
赤々と燃える炎が人々の顔を照らし、酒と歌と笑い声はまだまだ途切れそうにない。
エルナもまた、幼い頃から顔見知りの領民たちと談笑していた。
「お嬢様、王都の貴族様はやっぱり気取ってるんですか?」
「そんなことありませんわ。少なくとも私の友人たちは」
「へえ!」
どっと笑いが起きる。
エルナもつられて笑った、その時だった。
「エルナ」
聞き慣れた声に振り返る。
祖父だった。
「ちょっと、いいか?」
祭りの喧騒の中でも不思議とよく通る声だった。
「もちろんです」
エルナは頷き、エールが入ってる小さな杯を近くの卓へ置いた。
祖父は何も言わず歩き出す。
その後ろを追いながら、エルナは首を傾げた。
収穫祭の賑わいはまだ続いている。
歌声も笑い声も、炎の爆ぜる音も聞こえてくる。
けれど祖父の背中を見つめていると、これから始まる話は祭りの騒がしさとは少し違うものになる気がした。
喧騒に近からず、遠からず。
人々の笑い声や楽師の奏でる音楽は聞こえるが、会話の邪魔にはならない場所で、祖父は足を止めた。
近くに置かれていた丸太へ腰を下ろす。
エルナも自然とその隣へ座った。
しばらくは二人とも何も言わず、祭りの灯りを眺めていた。
やがて祖父が口を開く。
「王都は、どうだった?」
「とても楽しかったです」
迷いのない答えだった。
「こんな田舎とは違うだろう」
「そうですね」
エルナは素直に頷く。
その返答に、祖父は思わず口角を上げた。
王都。
貴族たちの思惑が渦巻き、笑顔の裏に幾つもの駆け引きが隠されている場所。
最愛の孫があの世界に染まってしまうのではないかと、少なからず案じていた。
だが、その心配は杞憂だったらしい。
今も隣で笑うエルナは、辺境伯領で育った頃と何も変わらない。
「公爵夫人のおかげだな」
ぽつりと漏らした言葉に、エルナは嬉しそうに頷いた。
「はい。王都でも、とても良くしてくださいました」
その顔を見て、祖父は静かに納得する。
女は、女の戦いをしていたのだろう。
ルシアンを伴って辺境伯領を訪れた公爵夫人が、絵に描いたような辺境伯令嬢を目にして愕然としなかったとは思えない。
乗馬を愛し、野山を駆け回り、領民と笑い合う少女。
王都の社交界に放り込めば苦労することなど、誰の目にも明らかだった。
それでも公爵夫人はエルナを否定しなかった。
辺境伯令嬢であることを奪わずに、王都で生きる術を与えてくれた。
剣を折るのではなく、新しい剣を持たせてくれたのだ。
そのことには、感謝しかない。
戦場で前だけを見続けてきた初代辺境伯は、ふと遠い昔を思い出した。
「覚えているか?」
低くなった声に、エルナが首を傾げる。
「一度だけ、淑女教育から逃げたことがあったな」
途端にエルナが顔をしかめた。
「あの時のお祖父様は、とても怖かったです」
その答えに祖父は小さく笑う。
祭りの喧騒が変わったわけではない。
歌声も笑い声も変わらず続いている。
けれど二人の間だけは、不思議と時間が巻き戻ったようだった。
あの日の記憶へと。
◇ ◇ ◇
その日も、エルナは泣いていた。
舞踏。礼儀作法。楽器。外国語。歴史。会話術。
一つ終われば、また次の課題が待っている。
兄たちは外で馬に乗り、剣を振り、騎士たちと笑っているというのに。
自分だけが部屋の中だった。
「もう、いや……」
とうとう耐えきれなくなった。
家庭教師の目を盗み、屋敷を飛び出す。
庭園を抜け、森へ入り、慣れた足取りで木へ登った。
泣きながら膝を抱える。
昔なら、これで終わりだった。
誰かが見つけに来るまでここにいて、気持ちが落ち着いたら戻る。
それで済んでいた。
だが、その日は違った。
「そんなところにいたか」
低い声がして、エルナは顔を上げた。
木の下に立っていたのは祖父だった。
初代辺境伯。
北方戦役を勝ち抜き、この領地を守り抜いた英雄その人。
エルナは慌てて涙を拭う。
「お祖父様……」
「降りてこい」
いつもの優しい声ではなかった。
エルナは唇を尖らせながらも、しぶしぶ木を降りる。
地面に足をつけると、祖父はしばらく何も言わなかった。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ静かに孫を見ている。
やがて口を開いた。
「なぜ逃げた」
「……つらいから」
小さな声だった。
「そうか」
否定はされなかった。
だからこそ、余計に涙が溢れた。
「頑張ってるのに……」
ぽろぽろと涙が零れる。
「できないの……」
嗚咽が混じる。
「もう、いや……」
祖父はしばらく考えるように黙っていた。
それから近くの切り株へ腰を下ろす。
「エルナ」
「はい……」
「戦場というのはな」
その言葉に、エルナは顔を上げた。
祖父が自ら戦の話をすることは珍しい。
「後悔した時にはもう遅い」
静かな声だった。
怒ってはいない。
だからこそ重かった。
「あの時もっと剣を振っていれば」
祖父の視線は遠くを見ていた。
「あの時もっと馬を走らせていれば」
まるで昔の戦場を見ているように。
「あの時、仲間を助けていれば」
そこで一度言葉が切れる。
「そう思った頃には、人は死んでいる」
森を吹き抜ける風の音だけが聞こえた。
エルナは何も言えない。
「だから今日を懸命に生きる」
祖父は続ける。
「明日のためではない」
その瞳がまっすぐエルナを見る。
「今日の自分が後悔しないためだ」
エルナは黙って聞いていた。
まだ幼い彼女には、その言葉のすべては分からない。
それでも祖父が本気で話していることだけは分かった。
「お前は戦場へは出ん」
祖父は言う。
「だが貴族には貴族の戦場がある」
エルナは俯いた。
「淑女教育はそのための稽古だ」
祖父の声は穏やかだった。
「お前の武器になる」
それでも、まだ納得はできない。
辛いものは辛い。
苦手なものは苦手だ。
そんな孫の顔を見て、祖父はふっと笑った。
「剣の稽古だって痛いぞ」
「……」
「馬から落ちれば怪我もする」
それはエルナにもよく分かる。
「逃げたくなる」
祖父は肩をすくめた。
「それでも続ける。必要だからだ」
そして、祖父は静かに言った。
「泣きながらでもいい」
エルナの肩が震える。
「格好悪くてもいい」
涙がまた溢れた。
「だが、逃げるな」
ぽたり、と雫が地面に落ちた。
祖父はハンカチを差し出さない。
抱き締めもしない。
慰めの言葉もない。
ただ、一言だけ告げた。
「お前は辺境伯家の娘だろう」
それだけだった。
けれど、それが、一番効いた。
エルナはしゃくり上げながら頷く。
「……うん」
「よし」
祖父は満足そうに立ち上がった。
「では戻るぞ」
エルナは目を丸くする。
「今から?」
「今からだ」
「えぇ……」
情けない声が漏れた。
祖父は鼻で笑う。
「稽古は逃げん」
そして踵を返しながら言った。
「だがお前も逃げるな」
その日以降、エルナが泣かなくなったわけではない。
できなくて悔しがることもあった。家庭教師に叱られることもあった。王都の滞在中は、公爵夫人の厳しさに心が折れそうになる日もあった。
それでも、もう二度と、逃げ出すことはなかった。
◇ ◇ ◇
「あの時のお祖父様の言葉は、今も心に残っています」
エルナは篝火の向こうを見つめながら言った。
「あの言葉があったから、ルシアン様に聞けたんです」
「ほう?」
「……『お兄様』と呼ばれることを、どう思われておりますかって」
祖父が吹き出した。
「それはまた、お前らしいな」
エルナも少し恥ずかしそうに笑う。
お茶会で失敗した日もあった。
夜会で思うように振る舞えず、落ち込んだ日もあった。
王都の常識と辺境伯領の常識の違いに戸惑ったことも、一度や二度ではない。
それでも、やめようとは思わなかった。逃げようとも思わなかった。
剣を与えてくれたのは公爵夫人だった。振り方を教えてくれたのは教師たちだった。
そして、振り続けることができたのは――祖父の言葉があったからだ。
その全ての始まりは、幼い頃、ただ一人の少年に憧れたこと。
ルシアンのようになりたいと、そう願ったことだった。
祖父はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「故公爵を助けた時は、こんな日が来るとは思わなかった」
その目は遠くを見ていた。
篝火ではない、もっと昔の景色を。
「しがない子爵家の次男坊だった私に、あいつは言ったんだ」
戦に勝った夜だった。
生き残った者たちが酒を酌み交わし、勝利の熱気に酔っていた頃。
若き日の辺境伯と、公爵は一本の酒瓶を回し飲みしていた。
「もしお前が、今よりもっと功績を挙げたなら」
祖父は少しだけ声色を真似る。
「私とお前の子を婚約させよう、と」
エルナが目を丸くした。
祖父は笑う。
「王族と縁続きになれるんだ。こんな名誉なことはないぞ、と得意げだった」
公爵の姉は、王家に嫁いでいた。
戦場で交わした、半ば酒の勢いの約束。
だが二人とも忘れなかった。
公爵は公爵として。辺境伯は辺境伯として。
約束を守り続けた。
「結局、どちらも息子ばかりでな」
祖父は肩を竦める。
「孫の代になって、ようやく実現した」
ふっと笑みが柔らかくなった。
「あいつは、成長した孫たちを見るところまではいかなかったが」
静かな沈黙が落ちる。篝火がぱちりと爆ぜた。
祖父は炎を見つめながら続ける。
「どんな見習い騎士にも、戦場へ行く日は必ず来る」
その声は昔話ではなく、教訓だった。
「その日を恐れるなら、そもそも騎士にはしない」
エルナは黙って聞く。
「だから送り出す」
祖父の目が優しく細められた。
「帰って来られるかは分からなくてもな」
そして、ゆっくりとエルナへ視線を向けた。
王都へ送り出した時は、正直なところ心配だった。
泣いて帰ってくるかもしれない。傷ついて帰ってくるかもしれない。辺境伯領へ戻りたいと縋るかもしれない。
だが違った。
孫は晴れ晴れとした顔で帰ってきた。
自分の戦場を見つけて。そこで戦う覚悟を持って。誇らしげに胸を張って帰ってきた。
それが、どれほど嬉しかったことか。
若き日の公爵が聞いたら、どんな顔をしただろう。
きっと得意げに笑うに違いない。
その姿がありありと目に浮かんで、祖父は小さく笑った。
「年寄りの長話に付き合わせて、すまなかった」
「そんなことありませんわ」
エルナは首を横に振る。
祖父は満足そうに頷いた。
そして最後に、何でもないことのように言った。
「ルシアンは良い男だぞ」
即答だった。
「知っています」
その迷いのない返事に、祖父は声を上げて笑う。
「そうか」
そして少しだけ意地の悪い顔になる。
「だがな」
エルナが首を傾げた。
祖父は孫の頭をぽんと叩く。
「お前が思っている以上にな」
そう言って立ち上がる。
祭りの喧騒が再び近付いてくる。
笑い声。歌声。酒杯を打ち鳴らす音。
祖父は篝火に照らされながら歩き出した。
その背中を見送りながら、エルナはふと首を傾げる。
――お前が思っている以上に。
その言葉の意味だけは、結局よく分からなかった。




