辺境伯領編-1 帰郷
王都を発ち、北の辺境伯領へと向かう。
西部の大山脈ほど険しくはないものの、幾つもの山を越え、途中で野営を挟みながら十日以上。長い旅路の果てに、見慣れた故郷の姿がようやく視界に入った。
北部蛮族の侵攻に備えて築かれた分厚く堅牢な城下町の外壁。その向こうには、国境近くの要塞群を見渡すための高い見張り塔がそびえている。
それを見つけた瞬間、エルナの顔がぱっと輝いた。
「お母様、着きましたわ!」
弾んだ声に、辺境伯夫人も窓の外へ目を向けて微笑む。
やがて馬車は辺境伯城の城門をくぐった。
すると――。
帰りを待ちきれなかったのだろう。城門の内側では、馬に乗った辺境伯と次男スヴェンが待ち構えていた。
「お父様! お兄様!!」
馬車が完全に止まるより早く、エルナは身を乗り出した。
御者が扉を開き、手を差し出そうとした時には、すでに軽やかに地面へ飛び降りている。
「お嬢様!」
ソフィーの悲鳴にも似た声を背に、エルナは一直線に駆け出した。
「よく帰ってきたな!」
馬から降りた父が大きく腕を広げる。
「元気そうだな」
隣でスヴェンも笑う。
エルナはまず父に抱きつき、次に兄へ飛びつくように抱擁を交わした。
「お祖父様たちは中に?」
「ああ。首を長くして待っているぞ」
その返事を聞くや否や、エルナはスヴェンが連れていた馬へ駆け寄った。
対北部蛮族の最前線を担う辺境伯城は、もはや城というより要塞である。
外城壁の内側には兵舎や訓練場が広がり、その先にはさらに内城壁が築かれている。城門から一族の暮らす城館までは、歩けばそれなりの時間がかかる距離だ。
だからこそ――歩くよりも、馬車に揺られるよりも、馬で駆ける方がずっと速い。
エルナは慣れた動作で鞍へ飛び乗った。
「あらあら」
辺境伯夫人が呆れ半分に笑う。
辺境伯も苦笑した。
「社交デビューしたんじゃなかったのか?」
「王都じゃないんだ。いいだろう」
そう言って肩をすくめる辺境伯の隣で、スヴェンも堪えきれずに吹き出した。
エルナはそんな二人に手を振ると、馬の腹を軽く蹴る。
故郷の風を受けながら駆けていく後ろ姿は、王都の淑女というより、誰が見ても辺境伯家の娘そのものだった。
城館へ足を踏み入れると、見知った使用人たちが一斉に出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
懐かしい顔ぶれに笑顔で応えながらも、エルナの足は自然と先を急ぐ。
挨拶もそこそこに向かった先は、家族が待つ居間だった。
扉を開き、エルナは嬉しそうに微笑む。
「ただいま、戻りました」
「待っていたぞ」
真っ先に声をかけたのは祖父だった。
「お元気そうで何よりですわ、お祖父様」
エルナは歩み寄ると、その身体をそっと抱きしめる。
年齢を重ねた祖父を気遣うような緩やかな抱擁だったが、離れていた時間を埋めるように、どこか力強さもあった。
すると後ろから長男ビョルンの声が飛ぶ。
「お祖父様が潰れるぞ」
「そんな方ではありませんわ」
即座に言い返したエルナに、祖父が愉快そうに笑った。
「ビョルンを潰してやれ」
「はい!」
元気よく返事をすると、今度はビョルンへ向き直る。
そして勢いそのままに抱きついた。
がっちりと。
しかしビョルンは微動だにしない。
「……びくともしませんわ」
「当たり前だ」
呆れたような声に、部屋の空気が和やかに緩む。
その後、エルナはビョルンの隣に立つ女性へ向き直った。
「本当に久しぶりね」
「お義姉様も」
今度は先ほどとは違い、そっと優しく抱擁を交わす。
ヒルダの腕の中には、小さな赤子が眠っていた。
旅の疲れも知らぬような穏やかな寝顔に、エルナは自然と表情を柔らかくする。
起こさないよう身を屈めると、小さな額へそっと口づけた。
「よく眠っていますのね」
「さっきまで起きていたのよ」
ヒルダが優しく微笑む。
その光景を見つめながら、エルナは静かに息を吐いた。
祖父がいて、父がいて、兄たちがいて。義姉がいて、新しい家族もいる。
変わらないものと、新しく増えたもの。
そのすべてがここにあった。
――帰ってきた。
その事実に胸の奥がじんわりと温かくなり、エルナは安堵したように微笑んだ。
◇ ◇ ◇
辺境伯領での日々は、驚くほど早く過ぎていった。
毎朝、エルナは机に向かうことから一日を始める。
ルシアンへ送る手紙を書くためだ。
今日あった出来事や家族の様子、領地の景色。
最初は何を書こうか悩んでいたはずなのに、いざ筆を取れば伝えたいことはいくらでも出てくる。
庭で咲いていた花のこと。生まれたばかりの、長男夫妻の赤子のこと。市場で見つけた珍しいお菓子のこと。
書き終えた便箋を見返しては、こんな話は興味があるだろうかと首を傾げ、それでも結局そのまま封をする。
返事が届けば嬉しくなり、また次の手紙を書く。
そんなやり取りを繰り返しながら、日々は流れていった。
朝になれば誰かが「馬を出すぞ」と声をかけ、手の空いた家族と遠乗りへ出る。
夏の名残を残す草原を駆け抜け、丘の上から領地を見渡し、時には競うように馬を走らせた。
「まだまだですわ、お兄様!」
「十年早い」
そう言われながらも、負けじと馬腹を蹴る時間が楽しかった。
家臣たちの子どもたちと遊ぶこともあった。
森の入り口で野いちごを探し、誰が一番多く見つけられるか競い合う。
籠いっぱいに摘んだ実を見せ合いながら笑い合えば、王都で求められる淑女らしい振る舞いなど、どこかへ飛んでいってしまう。
市場へ出かけるのも好きだった。
ソフィーと護衛を伴いながらではあるものの、幼い頃から見慣れた商人たちは気さくに声をかけてくれる。
ソフィーと二人で焼き菓子を買い、店先で頬張りながら新しい噂話を聞くのも楽しい時間だった。
王都での出来事を話せば驚かれ、逆に領地の話を聞けば知らない話ばかりで、つい足を止めてしまう。
そうして毎日を過ごしているうちに、気づけば季節はゆっくりと移ろっていた。
朝夕の風は冷たさを増し、畑では実りの色が濃くなる。
倉庫へ運ばれる穀物の量も日に日に増え、城下町にはどこか浮き立つような空気が流れ始めた。
そして、ある朝。
窓を開けたエルナは、広場に運び込まれる収穫物や飾り付けの準備を目にして、小さく目を見張った。
「もう収穫祭ですの?」
「ええ、お嬢様」
ソフィーが微笑む。
「皆、とても楽しみにしておりますよ」
ついこの間帰ってきたばかりだと思っていたのに。
ルシアンへ送る手紙の束も、気づけばずいぶんな数になっている。
けれど、それだけ充実した日々だったということだろう。
辺境伯領の人々が一年の実りを祝い、最も賑わう季節。
収穫祭が、すぐそこまで迫っていた。




