王都編1-20 王宮舞踏会
華やかな社交シーズンも、今日で最後だった。
王宮で開かれる最後の舞踏会は、今季の終わりを惜しむ貴族たちの熱気に満ちている。
ルシアンとエルナが一曲を踊り終える。
エルナはルシアンへ微笑むと、周囲を見渡した。
「あちらの皆様へ、少しご挨拶をしてまいりますわ」
「ああ」
ルシアンが頷くと、エルナは軽く礼をして、そのまま人の輪の中へ歩いていった。
呼び止めることなど、露ほども考えていないのだろう。
少し前までは、ルシアンや母親たちの後ろをついて歩いていた。
誰に声を掛ければいいのか分からず、何を話せばいいのか迷い、困ったようにこちらを見上げていた。
それが、今ではどうだ。
自分から人の輪へ入り、知り合った令嬢を見つければ嬉しそうに声を掛けている。
デビュタントから、まだ半年にも満たない。
それなのに、いつの間にかこんなにも遠くまで歩いていってしまった。
社交界に馴染み、自分で人との繋がりを作り、今では彼女を慕う者も少なくない。
婚約者として、これほど嬉しいことはない。
――けれど。
今日くらいは、もう少し手元にいてほしかった。
もうすぐ王都を離れれば、しばらくは会えなくなる。
エルナは帰領し、自分も公爵領や王都での仕事に戻る。
これまでのように、毎日のように顔を合わせることもできない。
だからこそ、今日くらいはもう少しだけ、彼女の側にいたかった。
「ルシアン公子様、最後にご挨拶をさせていただいても?」
声を掛けられ、ルシアンは振り向く。
「もちろんです」
完璧な笑みを浮かべ、令息へ応じる。言葉を交わし、相手の話に耳を傾ける。
いつもと変わらぬ、公爵家の嫡男としての振る舞い。
けれど、その視線の端からエルナを外すことはなかった。
人の輪の中で笑う彼女を見つめながら、ルシアンは小さく息を吐く。
――少しだけでいい。
もう一度、こちらへ戻ってきてくれればいい。
もしくは、自分から迎えに行こう。
今日はまだ、彼女の側にいたいのだから。
別れの挨拶を交わしていたエルナだったが、話題に上るのは、先日主催した茶会のことも多かった。
「オリヴィア様だけでなく、エリーゼ殿下やシャルロット殿下もいらしていたなんて、驚きですわ」
「友人が、エリーゼ殿下とすぐ近くで楽しくお話しできたと仰っておりました」
「来年は、ぜひ私もご招待いただきたいですわ」
「もちろんですわ。皆様が楽しく過ごしていただけるよう、努めさせていただきますね」
王族や社交界の華が招待に応じたことも話題になったが、それ以上に評判となっていたのは、派閥や家柄を気にすることなく、誰もが肩の力を抜いて過ごせる茶会だったということだった。
別れの挨拶をしているはずなのに、いつの間にか話は来年の茶会へと移っている。
エルナは嬉しそうに笑うと、近くにいたソフィーを呼んだ。
「ソフィー、少しお願いがあるの」
「はい、お嬢様」
「来年の茶会にも参加したいと仰ってくださった方々を、忘れないように記録しておいてくださいませ」
「かしこまりました」
ソフィーが手帳を取り出し、名前を書き留めていく。
「辺境伯家の皆様は、きっとエルナ様のお戻りを心待ちにしておりますね」
「私も皆様にお会いするのが楽しみですわ。王都でお話しした皆様が、素敵な方たちばかりだったと、たくさんお伝えしたいですもの」
「まあ!」
ソフィーが嬉しそうに微笑む。
エルナは一つの輪に留まることなく、次の相手へと歩いていく。
今季に出会った人々との思い出を語り、領地へ戻った後の予定を話し、また来年会いましょうと笑顔で別れを告げる。
いつの間にか、挨拶をすることにもすっかり慣れていた。
社交界へ出たばかりの頃は、何を話せばよいのか分からず、ルシアンや母たちの後ろについて歩いていたというのに。
今では、自分から話したい相手を見つけ、会話を楽しみ、次に会う約束まで交わしている。
(そろそろ少し飲み物でもいただこうかしら……?)
そう思ったところで、聞き慣れた声がした。
「エルナ」
「ルシアン様」
振り向けば、そこにはルシアンが立っていた。
「少し休憩しないか?」
「そうですわね。ちょうど私も、何か飲みたいと思っていたところですわ」
差し出された手を取り、エルナは微笑む。
「では、ご一緒いたしましょう」
ちょうどよいところで声を掛けてくださるなんて。
(さすがルシアン様ですわ)
エルナはそんなことを思いながら、ルシアンと並んで歩き出す。
軽食が用意された一角へ来ると、ルシアンは慣れた手つきでサンドイッチやローストビーフ、サラダ、ミニケーキを皿に盛りつけ、エルナへ差し出した。
「食べるといい」
「ありがとうございます」
エルナが皿を受け取ると、ルシアンは自分用のワインと、エルナ用の果実水をグラスを給仕から受け取る。
いそいそと軽食を口にするエルナを、ルシアンは目を細めて眺めている。
「ルシアン様は召し上がらないのですか?」
「見ているだけで十分だ」
「食べないと元気が出ませんわよ?」
「大丈夫だ」
本人がそう言うのなら、無理に勧めるのもよくないだろう。
そう思ったエルナは、再びサンドイッチへ手を伸ばした。
やがて果実水で喉を潤すと、エルナは隣に立つルシアンへ笑みを向ける。
「ルシアン様は、私のことを何でもお見通しですのね」
「まあ……そうだな」
「さすがですわ」
何でもないことのように頷くエルナに、ルシアンも静かに頷き返した。
しばらくして、ルシアンが口を開く。
「ラストダンスは、私と踊ってくれるな?」
「もちろんですわ」
二つ返事で答えるエルナに、ルシアンの表情がわずかに和らぐ。
「では、私はあちらへ参りますので。あとで踊りましょうね」
「ああ」
エルナはそう言うと、再び人の輪の中へ歩いていった。
その背中を、ルシアンはしばし静かに見つめていた。
やがて、最後の曲が近づいてきた。
人の輪の中で談笑していたエルナのもとへ、ルシアンが歩み寄る。
「エルナ」
「はい、ルシアン様」
「そろそろ最後の曲だ」
「もうそんな時間なのですね」
差し出された手を、エルナは嬉しそうに取った。
「参りましょう」
「ああ」
二人は連れ立って、人で埋まり始めた広間の中央へ向かう。
ルシアンはエルナが歩きやすいよう半歩先を行き、行き交う人とぶつからないよう、さりげなく肩を寄せている。
広間の中央には、最後の一曲を惜しむように、多くの貴族たちが集まっていた。
やがて楽団が最後の曲を奏で始める。
互いの手を取り、二人は踊り始めた。
何度も、こうして夜会でダンスをした。
今日で最後だと思うと、エルナは少しだけ名残惜しかった。
「たくさんの殿方と踊りましたが、やっぱりルシアン様と踊るのが一番ですわ」
「……そうか」
ルシアンがいるため、自分から誘うことはなかったが、社交の一環として、夜会のたびに令息たちともダンスをしてきた。
踊っている最中も、相手の表情や会話、礼儀作法に自然と意識が向く。
けれど、ルシアンと踊るときだけは違った。
次にどちらへ動くのかも、どのタイミングで身体を返すのかも、何度も踊ってきたから分かっている。
何も考えずとも自然に足が合う。
だからなのだろう。
ルシアンと踊っていると、楽しいというよりも、どこか心が落ち着いた。
「少し、名残惜しいですね」
「私もだ」
ルシアンも同じ気持ちでいてくれる。
そのことが嬉しくて、エルナはふわりと笑った。
けれど、ふと思い出したように真面目な表情になる。
「私、ルシアン様の婚約者として、少しは相応しくなれたでしょうか」
思えば、社交界へ出たばかりの頃は、なんと世間知らずだったことか。
何をするにもルシアンや母たちに教えてもらい、人の輪へ入ることさえ心細かった。
「お兄様」と呼んでいたことも、今では懐かしい。
エルナの問いに、ルシアンは一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに目を細める。
「十分だ」
「本当ですか?」
「ああ。もう一人でも平気だろう」
ルシアンに認めてもらえたことが嬉しくて、エルナは満面の笑みを浮かべた。
「ルシアン様の婚約者として、来年も頑張りますわ」
「ほどほどにな」
「ご心配には及びませんわ」
きっとエルナは、来年もこの調子で、どんどん人の輪を広げていくのだろう。
けれど、それでいい。
自分の隣にいることを疑わず、来年の話をする彼女を見ていると、それだけで胸が満たされる。
ノルドガルド辺境伯令嬢。
彼女だけが、自分のただ一人の婚約者だ。
この社交シーズンを通して、彼女がどれほど多くの貴族たちにその事実を見せつけたのか。
そして、自分がどれほど彼女を誇らしく思っているのか。
きっとエルナは、何も知らないままなのだろう。
それでも今は、こうして自分の手を取っている。
ルシアンは踊りながら、エルナの顔を静かに見つめていた。
まるで一つの生き物のように息の合った、優雅なダンスを披露するエルナとルシアンを、遠くから見つめる者たちがいた。
「本当に、仲睦まじいお二人ですこと」
「ご覧になって、公子様のあのお顔」
「いつ見ても素敵なダンスですわ」
令嬢や夫人たちがうっとりと二人を眺める中、その声を辺境伯夫人と公爵夫人は揃って聞いていた。
「あらあら。本当に、仲良しさんだこと」
嬉しそうにエルナを眺める辺境伯夫人に、公爵夫人は小さくため息をついた。
「本当に、仲だけは良いですわね……」
今や誰もが認める婚約者同士。
エルナを見つめる息子は、婚約者を慈しむ青年そのものだ。
対するエルナも、ルシアンへ満面の笑みを浮かべている。
けれど、その瞳にあるのは深い敬愛と信頼。
そこに恋情がないことに、二人は気づいていない。
(まったく……毎日会いに行った結果がこれですの?)
いったい辺境伯家で、息子は何をしていたのだろう。
間もなくエルナは辺境伯領へ帰る。
次に会えるのは来春だというのに。
婚約者として、本当にそれでいいのだろうか。
「ですが、あの二人なら大丈夫ですわ」
辺境伯夫人は、何の心配もないとばかりに微笑んでいる。
「夫婦としてではなく、男女として心配なのです」
「あらあら」
それでも辺境伯夫人は楽しそうに笑う。
「大丈夫ですわ。あの二人ですもの」
「……そうでしょうか」
どうにも納得しきれない公爵夫人は、扇の陰でそっと頭を抱えた。
やがて、最後の曲が終わる。
惜しむように広間へ拍手が響き渡り、今季最後の舞踏会は幕を閉じた。
華やかな夜の余韻が残る中、貴族たちはそれぞれに別れの挨拶を交わし始める。
エルナにとって初めての社交シーズンは、こうして最後の舞踏会を終えたのだった。




