王都編1-18 アイゼンベルク公爵家夜会
ヴァレリオン公爵家が「文」の名門ならば、アイゼンベルク公爵家は「武」の名門である。
その夜会は品格に満ちていながらも、どこか凱旋を思わせる熱気に包まれていた。
赤と黒を基調とした大広間には、歴代当主ゆかりの剣や斧が飾られ、壁際には磨き上げられた甲冑が等間隔に並んでいる。
家族とともに社交シーズンの始めに招かれて訪れたことがあるが、二度目であっても、その重厚な雰囲気には圧倒されていた。
力強く息の合った公爵夫妻がファーストダンスを終えると、ルシアンがエルナへ一礼した。
「私と踊ってくれるか?」
「もちろんですわ」
返礼をしてルシアンの手を取り、ホールへ進む。
華やかなワルツが奏でられると、二人は踊り始めた。
「一緒に踊るのも、すっかり慣れましたわね」
「そうか」
「はい」
目の前でにこりと笑うエルナに、ルシアンは真顔で頷いた。
ファーストダンスが終われば必ず踊る。
途中であったり、ラストダンスの時も、互いに歓談の最中でなければ一緒に踊っていた。
もう、二人にとってはすっかり馴染んだ習慣だった。
エルナがルシアンの手を取りながら、くるりとターンする。
濃緑色のドレスがふわりと花開いた。
その姿を目で追いながら、ルシアンは思う。
――ずっと、このまま踊っていたい。
「今日は子爵家や男爵家の方も多く招かれていらっしゃるのですね」
「アイゼンベルク家は今日がシーズン最後の夜会だからな。まだ王都に残っている、縁ある武家も多く招待したのだろう」
「それは楽しみですわ」
弾むような声に、ルシアンはわずかに首を傾げた。
「最近は奥様と一緒に他家の皆様へ挨拶をする必要がなくなったので、今日はゆっくり、普段お話しできない方ともお話しできそうです」
侯爵家や伯爵家の茶会や夜会へ行けば、自然と同じくらいの家格の令嬢や令息たちと話すことが多い。
母や公爵夫人とともに他家へ挨拶をして回っていた頃は、子爵家や男爵家の者とゆっくり話す時間もなかなか取れなかった。
「すっかり顔も覚えられたからな。今日は、話したい家の者と話すといい」
「そうさせていただきますわ」
返事をしながら、エルナの視線がちらちらと大広間を泳ぐ。
あちらには見覚えのある武家の令嬢。
その隣には、以前挨拶だけ交わしたことのある令息。
さらに奥には――。
どうやら、もう誰と話すか考え始めているらしい。
ルシアンはそんなエルナを見つめた。
少し前までは、夜会へ来ればまず自分や母のそばにいて、誰かに話しかけられれば丁寧に応じる。
それが今では、自分から話したい相手を探している。
頼もしいことだ。
そう思う一方で――。
せめて、今くらいは。
ルシアンはエルナがターンした瞬間、その手を離さなかった。
そのまま軽く引き寄せる。
「ルシアン様!?」
予想していなかった動きに、エルナが驚いて顔を上げた。
いつもなら、そのまま次のステップへ移るところだった。
けれどルシアンは、エルナの手を取ったまま静かに囁く。
「今はダンスに集中だ」
「……失礼いたしました」
エルナは慌てて姿勢を正した。
思わずルシアンへ視線を向ける。
煙水晶の眼鏡の奥で、澄んだ青い瞳がこちらを見つめていた。
エルナは気を引き締めるように、その瞳を見つめ返す。
すると、ルシアンの目がほんのわずかに細められた。
満足したようにも見えた。
やがて曲が終わる。
最後の一音が消えると、ルシアンはエルナへ深く礼をした。
そのまま元いた場所までエスコートする。
「今日は人も多い。あまり無理はするなよ」
「もちろんですわ」
エルナは笑みを浮かべた。
そして、ルシアンの手を離す。
一度だけ彼を振り返った。
けれど次の瞬間には、もう別の令嬢の姿を見つけている。
「あちらの方に、少しお話を伺ってみますわ」
「……ああ」
返事をする間にも、エルナは軽やかな足取りでその令嬢のもとへ向かっていく。
あっという間だった。
ルシアンの隣から、エルナの姿が消える。
「……」
ルシアンはその背中を見送った。
社交界に慣れてきた。自分から人の輪へ入っていけるようになった。それは、喜ぶべきことだ。
分かっている。
分かっているのだが――。
「……少し寂しいものだな」
誰にも聞こえないほど小さく呟いて、ルシアンは視線を戻した。
エルナは、これまで何度か夜会で見かけたことはあるものの、深く話す機会のなかった武家の令嬢たちと談笑していた。
「アイゼンベルクの第三騎士団に、すごく素敵な方がいらっしゃるでしょう?」
「コンラート卿ですね?」
「そうですわ! 以前、公開演習でお見かけしたけれど、とても格好良かったわ」
「私は第二騎士団のヨハン卿のほうが気になりますわ。あの方、とてもお強いのよ」
「ですが、平民出身ではなくて?」
「強さに出自など関係ありませんわ!」
次第に話題は、年頃の少女たちらしい、憧れの騎士の話へと移っていった。
「ヨハン卿は先日の演習で、崩れた橋を一人で渡って――」
「橋を渡ったのではなく、部下を先に退避させるために、危険がないか確認しに行ったのではありませんか?」
「……エルナ様、詳しいですわね」
「ルシアン様から伺いましたわ。とても素敵ではありませんか」
「そうなのですわ!!」
誰かを品定めするような話ではなく、ただ憧れの騎士について楽しげに語り合う。
そんな肩肘張らない会話に、エルナも思わず気が抜けて、自然と笑みがこぼれていた。
騎士団員の武勇伝や演習の裏話に花を咲かせていると、不意に、一人の令嬢が別の場所へ視線を向けた。
「……あら」
その視線を追うように、エルナもそちらを見る。
少し離れた場所では、オリヴィアが数人の令嬢たちと談笑していた。
華やかな笑顔を浮かべながら、皆の話に耳を傾けている。
けれど、その輪の中にいる一人の令嬢だけが、どこか居心地が悪そうにしていた。
周囲に合わせて微笑んではいるものの、会話に入るきっかけを失っているようにも見える。
「どうかなさいましたの?」
エルナが尋ねると、令嬢は少し迷うように言葉を濁した。
「……あちらのイングリッド子爵令嬢ですが、少し前から、あのような感じなのです」
「そうなのですか?」
「ええ……」
令嬢の声は小さかった。
エルナはもう一度、オリヴィアたちへ視線を戻す。
よく見れば、オリヴィアが何度かイングリッド子爵令嬢へ話を振っている。
けれど、そのたびに別の令嬢が会話をさらっていく。
笑顔は崩れていない。
それでも、輪の中にいるはずの彼女だけが、少しずつ会話から遠ざけられているように見えた。
先ほどまで楽しそうに話していた令嬢たちも、黙ってオリヴィアたちを見ている。
「オリヴィア様がいらっしゃるのに……」
誰かが困ったように呟いた。
先ほどから、あの令嬢だけが会話に入れてもらえていない。
オリヴィアは気づいている。
それでも、場を荒立てないように何度も話題を繋ごうとしていた。
「……少し、様子を見て参りますわ」
「え?」
思わず声を上げた令嬢をよそに、エルナはドレスの裾を整えた。
「すぐ戻りますので」
そう言って、エルナはオリヴィアたちの輪へと歩いていく。
残された令嬢たちは、しばらく無言でその背中を見送った。
「……行ってしまいましたわね」
「ええ」
「止めなくてよろしかったのかしら」
「……止められると思います?」
「……思いませんわ」
揃ってもう一度エルナの背中を見る。
その先では、オリヴィアがちょうどこちらに気づいていた。
エルナと目が合う。
一瞬だけ、オリヴィアの目が細められた。
どうやら、気づいてしまったらしい。
オリヴィアは小さく息を吐き、それから何事もなかったかのように微笑んだ。
「まあ、エルナ様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、オリヴィア様」
輪の中へ入ったエルナに、令嬢たちが次々と挨拶をする。
「皆様、楽しそうにお話しされていますわね」
「ええ。ちょうど今、アデル様から騎士団のお話を伺おうとしていたところですの」
エルナは、アデルへ顔を向けた。
「でしたら、ぜひ私にも聞かせてくださいませ」
「エルナ様……」
アデルが驚いたように目を瞬く。
「騎士団のお話、とても興味がありますわ」
「まあ、そうでしたの」
エルナとアデルのやり取りを聞いていた令嬢が、わずかに眉を寄せた。
「エルナ様は辺境伯家のご令嬢ですもの。そういったお話には慣れていらっしゃるのでしょうけれど……」
「はい」
エルナは素直に頷いた。
「父や兄から、よく聞いておりますわ」
その言葉に、令嬢は少し残念そうに声を落とした。
「そう……。やはり私たちとは少し違いますのね」
「そうなのですか?」
「いえ……その、武家の方々には馴染み深いお話なのでしょうけれど、私たちには少し物騒なお話ですもの」
柔らかな笑みを浮かべる令嬢。
けれど今度は、エルナにも分かった。
アデルが話そうとするたびに、誰かが別の話題を挟んでいる。
先ほどから何度も続いていたことだった。
そして、そのたびにオリヴィアが自然な形でアデルへ話を戻そうとしている。
オリヴィアも気づいているのだろう。
それでも、場を荒立てないように、何度も会話を繋ごうとしていた。
――ならば。
エルナは、もう一度アデルへ視線を向けた。
このままでは、いつまで経ってもアデルの話を聞くことはできない。
「……それは、少し残念ですわね」
エルナが静かに口を開いた。
令嬢たちの視線が、一斉にエルナへ集まった。
「今日はアイゼンベルク公爵家の夜会ですもの。騎士団のお話が、どうして物騒なお話になるのでしょう?」
「それは……」
先ほどから言葉を挟んでいた令嬢が、わずかに眉を動かした。
「もちろん、そういう意味ではありませんわ。ただ、私たちには少々馴染みがないというだけで――」
「でしたら、ちょうどよろしいのではありませんか?」
「……え?」
エルナがにこりと微笑んだ。
「私も先ほどまで、騎士の方のお話をしておりましたの。皆様、素敵な方ばかりですわ」
そう言うと、エルナは先ほどまで話していた騎士たちの名前を次々と挙げ始めた。
見目麗しい騎士。 勇ましい騎士。 武勇に秀でた騎士。 そして、部下思いで知られる騎士。
「コンラート卿は公開演習で――」
「まあ、あの方ですわね!」
「ええ。それからヨハン卿は――」
「ヨハン卿は私も存じていますわ!」
いつの間にか、令嬢たちの間から次々と声が上がる。
話題を逸らそうとしていたはずの令嬢は、口を挟む隙を失っていた。
エルナ本人は、それに気づいているのかいないのか、楽しそうに続けている。
いつの間にか、会話の空気が少しずつ変わっていた。
先ほどまで騎士団の話を「物騒なもの」と言っていた令嬢たちも、目を見張るような騎士たちの話に、自然と耳を傾けている。
エルナはそこで、ふとアデルへ顔を向けた。
「アデル様も、騎士団のお話にお詳しいのでしょう?」
「エルナ様ほど、詳しいというわけでは……」
話を振られたアデルが、慌てて首を振る。
「父が昔、王国騎士団に務めておりましたので、その影響で少し知っているだけです」
「まあ!」
エルナの目が輝いた。
「イングリッド子爵様が送り出す騎士様は、剣の腕が確かだと、お父様が仰っておりましたわ」
その言葉に、アデルの表情がほんの少しだけ和らいだ。
「……ありがとうございます」
その様子を見ていたオリヴィアは、静かに扇を閉じた。
先ほどから何度もアデルへ話を繋ごうとしていた。
けれど、もう必要はないらしい。
「そうですわね」
オリヴィアが穏やかに続ける。
「私もアデル様のお話を伺いたいと思っておりましたの。どのような騎士様がいらっしゃるのですか?」
「えっと……」
アデルが少し戸惑いながらも、ゆっくりと話し始める。
すると、先ほどまで彼女を囲んでいた令嬢の一人が、少しだけ居心地悪そうに口を開いた。
「ですが、オリヴィア様。せっかくの夜会ですもの。もっと華やかなお話を――」
「あら」
つい熱くなってしまっていたエルナが、ふと気づいたように声を上げた。
「それでしたら、私のほうが場違いなのかもしれませんわ」
「……え?」
「先ほどから、騎士様のお話ばかりしておりますもの」
エルナは少し困ったように、それでも穏やかに微笑んだ。
「私にはとても楽しいお話なのですけれど……皆様には馴染みのないお話だったのですね」
「それは……」
令嬢が言葉に詰まる。
「アイゼンベルク公爵家の夜会ですもの。騎士様のお話をするのは、自然なことだと思っておりましたわ」
「……っ」
思わず息を呑んだ気配がした。
アイゼンベルク公爵家の夜会で、騎士の話をすることを「物騒だ」と言ってしまえば、今度は主催者である公爵家の在り方そのものを否定することになる。
かといって、エルナの言葉を否定すれば、辺境伯家の令嬢に対して「あなたの家の話は華やかではない」と言うことになりかねない。
どちらへ進んでも、得策ではない。
「……もちろん、そういう意味ではありませんわ」
ようやく、それだけを返す。
「あら。でしたら安心いたしました」
エルナは、本当にほっとしたように微笑んだ。
そして、ふと何かを思いついたように、エルナが顔を上げた。
「そうですわ」
「?」
「先ほどまで、あちらの令嬢方と騎士の方のお話をしておりましたの」
エルナは、少し離れた場所にいる令嬢たちへ目を向ける。
「よろしければ、アデル様のお話を、あちらでお聞かせいただけませんか?」
「え……?」
「もっと伺いたいですわ」
そう言って、エルナはごく自然にアデルの手を取った。
「よろしいでしょう?」
「あ……はい」
戸惑いながらも、アデルが頷く。
「では、参りましょう」
エルナはそのまま、彼女を連れて歩き出した。
向かった先は、先ほどまで自分が話していた令嬢たちの輪だった。
「皆様、お待たせいたしましたわ!」
「あら、エルナ様。お戻りになったのね」
「ええ。こちら、アデル様ですの。先ほど騎士団のお話をしていらしたので、続きを聞かせていただこうと思って」
「まあ! ぜひ伺いたいですわ」
「私も気になります!」
たちまち令嬢たちがアデルを迎え入れる。
少し離れた場所に残された令嬢たちは、誰も何も言えずに、その様子を見つめていた。
オリヴィアだけが、そんな彼女たちへ柔らかな笑みを向ける。
「では、私たちも続きを楽しみましょうか」
「……ええ」
曖昧に頷きながら、令嬢たちはもう一度、エルナへ視線を向けた。
そこでは、アデルが先ほどまでとは別人のように表情を和らげ、エルナの隣で楽しそうに話している。
エルナもまた、興味津々といった様子で耳を傾けていた。
オリヴィアは、その光景を眺めながら、扇の陰で小さく笑った。
エリーゼが呼びつけて、きちんと灸を据えたと聞いている。
さぞ大人しくなるのかと思えば――どうやら、そうではなかったらしい。
立ち止まろうとも、変わらず前を向く。
ただ、今度は少しだけやり方を変えて。
「……これが、エルナ様なのですね」
オリヴィアは小さく呟いた。
そして、ほんの少しだけ楽しそうに目を細めた。
オリヴィアがふと視線を上げると、少し離れたところから、こちらの様子を窺っている四人と目が合った。
オリヴィアが小さく目配せをすると、エリーゼが微笑んだ。
「及第点はいただけたようですわね」
「本当にそうか?」
レオンハルトが疑わしそうに眉を寄せる。
「オリヴィア様を疑いますの?」
「いや……」
レオンハルトは言葉を濁した。
社交界の華と呼ばれるオリヴィア。その所以は、美しいものを見抜く審美眼にもある。
ならば、あの表情を浮かべているのなら問題ないのだろう。
――とはいえ。
「エルナ嬢だぞ?」
「面白いものを見つけた顔をしておりますから、問題ありませんわ」
「それはオリヴィア嬢にとってか? それともリゼにとってか?」
レオンハルトはそう言いながら、柱の陰へ視線を向けた。
そこではクレアが、手帳に何やらせっせとペンを走らせている。
「あなたまで過保護になって、どうするのです?」
「…………」
レオンハルトは、返す言葉を失った。
そこへ、シャルロットが口を挟む。
「エルナ様はお強いですもの。お義姉様に呼び出されたくらいでは、へこたれませんわ」
「シャールのその確信はどこから来るんだ?」
今度は妹にまで一本取られ、レオンハルトは眉間を押さえた。
シャルロットは少しだけ誇らしげに胸を張った。
「昔、王宮で一緒に迷子になった時も、エルナ様は泣かずに私の手を引いてくれましたもの」
あの時のことを、シャルロットは今でもよく覚えている。
自分が暮らす王宮で迷子になった。 不安になって泣き出した自分を、エルナは一生懸命励ましてくれた。
そして最後まで手を離さなかった。
一つ年下の少女だったのに、その時のエルナは、シャルロットには物語に出てくる騎士のように見えた。
今でも、あの時握った手の温もりを覚えている。
「……だから、エルナ様はお強いのですわ」
「偶然俺が見つけなければ、危うく王宮仕え総出で捜索するところだったぞ」
「子どもの時の話ですわ」
シャルロットはぷいとそっぽを向いた。
「無事だったから良いではありませんか」
ジークがすかさずシャルロットを庇う。
「…………」
レオンハルトは頭を抱えた。
ジークまで妹の味方である。
「ヴァレリオン家が全面支援するだけのことはありますね」
ジークが、再びエルナへ視線を向ける。
レオンハルトは苦笑した。
「……あいつに、その自覚はないぞ?」
「でしょうね」
むしろ――。
囲いから飛び出していく婚約者を、繋ぎ止めるのに必死になっているのではないか。
そんなことを思いながら、レオンハルトはルシアンへ目を向けた。
何人もの令息や令嬢たちに囲まれながら、公爵家の嫡男として非の打ち所のない応対をしている。
けれど、その視線がふと途切れた。
エルナの表情を確かめるように、一瞬だけ視線を留める。
そして何事もなかったかのように、再び目の前の令嬢へ向き直った。
つかの間、四人は頭を突き合わせるようにして、エルナとルシアンの様子を見守った。
◇ ◇ ◇
アイゼンベルク公爵家の夜会は、つつがなく幕を閉じた。
エルナがルシアンの手を取って馬車へ乗り込むと、ルシアンも続いて隣に腰を下ろす。
やがて馬車は、夜の王都をゆっくりと走り始めた。
夜の静けさが、華やかな夜会での出来事をひとつひとつ思い起こさせる。
ルシアンが眼鏡を外して胸元へしまうと、エルナが声をかけた。
「ルシアン様」
「どうした?」
「私……あれでよかったのでしょうか?」
不安そうに見上げてくるエルナに、露わになった青い瞳が細められる。
「ああ。あれでよかった」
「本当ですか?」
「ああ。以前は、相手を問い詰めてしまっただろう」
「……はい」
ハルトマン伯爵家での出来事を思い出し、エルナは目を伏せた。
「今回は周囲を見ていた。オリヴィア嬢が動いていることも理解して、そのうえで自分にできることを選んだ」
「……」
「十分だ」
穏やかな声に、エルナの肩からふっと力が抜ける。
「ルシアン様がそう仰ってくださるのなら、大丈夫ですわね」
「ああ」
安心したように微笑むエルナを見て、ルシアンの口元にも笑みが浮かんだ。
いつまでも彼女の前に立ち、導いていたいと思う。
けれど今のエルナは、そんな自分を容易く追い越して、誰かの手を取ることができる。
社交界での立ち回りも、すっかり板についてきた。
(少し、寂しいな……)
そう思うのに。
「ルシアン様に認めていただけて、よかったですわ」
嬉しそうに笑うエルナを見て、そんな寂しささえ愛おしく思えた。
成長した彼女が、今もこうして自分を頼ってくれることが、何より嬉しかった。
ルシアンの気持ちなど露知らず、エルナはふと首を傾げた。
「ルシアン様は、馬車に乗るといつも眼鏡を外しますよね」
「ただの飾りだからな」
視力に困っているわけではない。ただ、この瞳を隠すためのものだ。
エルナと二人きりの馬車でまで掛けている必要はない。
「私、ずっと気になっていたのですが……外でも、外したほうが見やすいのではないですか?」
エルナの素朴な疑問に、ルシアンは苦笑した。
「気にするな。便利な使い道がいくつかあるんだ」
「そうなのですね」
「ああ」
ひょんなことから手に入れた煙水晶の眼鏡だが、印象を変えたり、視線を悟られにくくしたりと、思いのほか役に立っている。
「馬車の中は暗いからな。外したほうがよく見えるだろう」
「そうですわね」
エルナは素直に納得した。
本当は、眼鏡を外したほうがエルナの姿がよく見える。
そして、この瞳を隠すために掛けるようになった眼鏡だからこそ――。
できることなら、この瞳だけはエルナに見ていてほしい。
そんなことを口にするつもりはない。
ルシアンはただ、目の前で安心したように微笑むエルナを、眼鏡越しではない青い瞳で静かに見つめていた。




