王都編1-17 観劇
馬車から降りたエルナは、眼前に広がる光景に瞳を輝かせた。
「こちらが王立劇場ですのね」
幾本もの巨大な柱には精緻な彫刻が施され、その奥には昼にも関わらず煌々と輝くエントランスが広がっている。
白を基調とした壮麗な壁面には、現在上演されている演目の案内や、劇中の一場面を描いた挿絵が並んでいた。
「劇場は初めてだったよな?」
「はい。とても楽しみですわ」
弾んだ声で答えるエルナに、ルシアンはわずかに目を細めた。
「それはよかった」
しばらく外観を眺めていたエルナが満足した頃、ルシアンがそっと腕を差し出す。
エルナがその腕に手を添えると、二人はゆっくりと劇場の中へ歩を進めた。
中へ足を踏み入れた瞬間、エルナは思わず周囲を見渡す。
よく磨かれた大理石の床はシャンデリアの明かりを映し、壁には今話題の役者たちの肖像画や、これまで上演された演目の一場面を描いた絵画が飾られていた。
エントランスには、これから始まる舞台を楽しみにしている親子連れや、年配の夫婦の姿もある。
誰もがどこか浮き立った様子で、開演の時を待っていた。
「ようこそいらっしゃいました。ヴァレリオン公子様、ノルドガルド辺境伯令嬢」
ルシアンに気づいた案内係が、恭しく頭を下げる。
「こちらへどうぞ」
「よろしくお願いいたします」
案内係へ律儀に挨拶を返すエルナに、彼はもう一度丁寧に礼をした。
その後ろについていくと、二人が案内されたのは一般の客席とは別に設けられた貴賓室だった。
「開演まで、こちらでおくつろぎください」
「ありがとうございます」
広々とした室内には、ゆったりとしたソファとテーブルが置かれ、身支度を整えるための化粧台まで用意されている。
エルナはテーブルの上に置かれていた冊子へ目を留めた。
「まあ」
手に取ったのは、これから観る演目のパンフレットだった。
――――――――――――――――――――
王立劇場 公演案内
『北天に誓う剣』
――国を守るとは、剣を振るうことだけではない。
『あらすじ』
建国から百年。
北方より、かつてない規模の大軍が王国へ侵攻した。
迎え撃つのは、若き将軍ヴィクトル。
圧倒的な兵力を前に、王都からは早期決戦を求める声が上がる。
しかしヴィクトルが選んだのは、華々しい勝利ではなかった。
兵糧を蓄え、各領へ協力を求め、街道を整え、戦火の及ぶ地域から民を避難させる。
「戦うために、まず生き残る」
それは将軍としてはあまりにも地味で、臆病とさえ嘲笑される選択だった。
やがて敵軍との決戦が迫る。
味方の兵は疲弊し、食糧も限られている。それでもヴィクトルは剣を掲げる。
守るべきものは、名誉でも勝利でもない。
この国で暮らす、人々の明日なのだと。
※物語の結末は、ぜひ劇場にてお確かめください。
――――――――――――――――――――
「北方の歴史劇ですわ!」
内容を読んだエルナは、ぱっと瞳を輝かせた。
「建国から百年ということは……北天戦役がモデルでしょうか」
「おそらくな」
ルシアンはエルナの手にあるパンフレットへ視線を落とす。
「舞台装置に最新の技術を取り入れていることも話題らしいが、内容もそれだけではないようだ。主人公の葛藤や政治的な駆け引きだけでなく、その陰にあった食糧事情や民の暮らしまで描いていることが注目されている」
「そうだったのですね!」
若い令嬢たちとの茶会では、こうした話題が上ることはほとんどない。
けれどエルナも、以前、公爵夫人とともに年配の貴族たちと話していた際、この劇について耳にしたことがあった。
ルシアンの言葉を聞くと、エルナは先ほどまで読んでいたページへ戻り、改めて見どころを読み始める。
兵站。補給。街道の整備。民の避難。
一つひとつの項目を、まるで何かを確かめるように真剣な眼差しで追っていく。
その様子を見て、ルシアンは満足そうに微笑んだ。
どこへ連れて行くべきか、随分と考えた。
王都の外へ出るのは、移動だけでもエルナの負担になるかもしれない。
買い物にしても、必要なものはすでに揃えている。流行の菓子も、以前贈っている。
図書館や庭園では、普段公爵邸で過ごす時間とあまり変わらないだろう。
そうして悩んだ末に選んだのが、劇場だった。
エルナにとって新鮮で、それほど疲れることもなく、楽しんでもらえそうな場所。
どうやら、その判断は間違っていなかったらしい。
しかも、ちょうど上演されている演目は北方を舞台とした歴史劇だ。
辺境伯領で育ったエルナの好みにも合うだろうと思っていたが、その予想は見事に当たったようだった。
パンフレットを読み込んでいたエルナは、ふと顔を上げる。
「街道を整えることまで、戦の一部として描くのですね」
「兵が進めなければ戦えないからな」
ルシアンが何でもないことのように答えると、エルナは小さく頷いた。
「そうですわね……。北方であれば、街道の状態は特に重要でしょうし」
「季節によっては、荷車も思うように進まない」
「では、兵糧を集めるだけでは足りませんわね。運ぶ者と、そのための馬も必要ですもの」
「そうなる」
エルナは再びパンフレットへ目を落とした。
「古い戦ですから、戦法については諸説あるのでしょう?」
「ああ」
「どの説を採るのかしら」
エルナは楽しそうに首を傾げる。
「もし王都で早期決戦を求める声が上がっていたのなら、最初から守りに徹するわけではなかったのでしょうし……。兵を分けて各地を守るのか、それとも敵軍をある程度まで引き込むのか――」
「敵軍の規模によるな」
「そうですわよね」
「北方から大軍が侵攻したという設定なら、補給線を伸ばさせる方法も考えられる」
「……なるほど」
ルシアンの言葉に、エルナの瞳がさらに輝いた。
「でしたら、劇中で敵軍がどこまで進んだのかも重要ですわね」
「そういうことになる」
パンフレットに書かれたわずかな情報から、エルナはあれこれと物語の展開を推測し始める。
一般的な令嬢であれば見どころとして読み流すような兵站や戦術の記述まで、エルナにとっては十分に興味を引くものらしい。
質問を重ねるエルナへ、ルシアンも一つひとつ答えていった。
◇ ◇ ◇
案内係が扉を叩き、開演が近いことを告げると、エルナとルシアンは貴賓室を出て、客席へと向かった。
案内された席は、舞台全体を見渡せる二階の貴賓席だった。
眼下には赤い絨毯の敷かれた客席が広がり、その向こうには、まだ幕の閉じた大きな舞台がある。
「まあ……」
エルナは思わず小さな声を漏らした。
劇場の外観や控室にも驚かされたが、実際に客席へ足を踏み入れると、その光景はさらに壮大だった。
幾重にも連なる客席。 天井から吊るされた巨大なシャンデリア。 舞台を覆う深い色の幕。
そのすべてが、これから始まる何かを静かに待っている。
「すごいですわ……」
エルナは食い入るように舞台を見つめた。
客席には、すでに多くの観客が集まっている。
子どもを連れた家族。これから始まる劇について楽しそうに話す若者たち。年配の夫婦や、仲の良さそうな友人同士。
話題の舞台を観に来たのだろう。
その中に、若い男女の姿もわずかにあったが、エルナは特に気に留めることもなかった。
「まもなく始まる」
ルシアンの声に、エルナは慌てて姿勢を正した。
「はい」
劇場の明かりが、ゆっくりと落とされていく。
ざわめいていた客席が、次第に静かになった。
幕が上がると同時に、エルナは息を呑んだ。
目の前に広がったのは、北方の荒々しい山々と、そこへ進軍する王国軍だった。
最新の舞台装置によって作り出された雪原。兵士たちの足音。遠くで鳴り響く角笛。
初めて見る劇場の舞台に、エルナはすっかり引き込まれていた。
貴賓席に座ったまま、茶色い瞳を舞台へ向け、一瞬たりとも見逃すまいとするように見つめている。
そんな彼女の様子を横目に、ルシアンは小さく微笑んだ。
どうやら、劇場を選んだのは正解だったらしい。
物語の主人公であるヴィクトル将軍は、王都から求められる早期決戦を退けた。
兵を集めるだけではない。
食糧を蓄え、街道を整え、各領へ協力を求め、戦火の及ぶ地域から民を避難させる。
戦場へ向かう前から、彼は戦っていた。
「……なるほど」
隣で、エルナが小さく呟く。
兵士たちが剣を交える場面だけではなく、荷車で運ばれる食糧や、避難していく民の姿まで、真剣な表情で追っていた。
ルシアンにとって、それらはすべて戦略の一つだった。
兵が戦うには食糧がいる。食糧を運ぶには街道がいる。各領の協力がなければ、軍は長く戦えない。
そして、守るべき民を失ってしまえば、たとえ敵軍に勝ったとしても意味はない。
剣を振るう者だけが、戦っているわけではないのだ。
舞台の上では、周囲の理解を得られないヴィクトルが、それでも自らの方針を貫いていた。
エルナは身を乗り出すように、その姿を見つめている。
戦が始まれば、ただ強い者が勝つわけではない。
多くの人々が、それぞれの場所で支えている。
そのことを知っているエルナだからこそ、この物語はひどく心に響いたのだろう。
ルシアンは再び舞台へ視線を戻した。
そして隣で、夢中になって劇を見つめるエルナの存在を、どこか満足そうに感じていた。
◇ ◇ ◇
幕が閉じ、物語は終わりを迎えた。
劇場を満たしていた緊張が解けると、客席から一斉に拍手が沸き起こる。
エルナも、ルシアンの隣で心から拍手を送った。
「とても素晴らしい内容でしたわ」
興奮の冷めない様子でそう告げるエルナに、ルシアンは満足そうに目を細めた。
「ああ。よくできていた」
「領主様が、ヴィクトル将軍の言葉を受けて、領民を守るために避難を決断されたところが、とても印象的でしたわ」
息を呑むような剣戟にも目を奪われた。
けれどエルナの心に残ったのは、剣を交える場面だけではない。
領地を守るため、民を逃がす決断をした領主。戦場へ食糧を届ける者たち。そして、故郷を離れることを余儀なくされた人々。
白熱した舌戦の末に、一人の領主が決断を下す場面には、思わず胸を打たれた。
「あそこで避難を決めなければ、結果はまた変わっていただろう」
「そうですわね」
エルナはまだ舞台を見つめていた。
まるで、つい先ほどまで目の前に広がっていた北方の戦場から、まだ戻ってきていないようだった。
その横顔を見ながら、ルシアンは小さく微笑む。
どうやら、選択は間違っていなかったようだ。
「近くの茶屋で席を予約してある。そこでゆっくり話そう」
「はい」
呼びかけられたエルナは、ようやく現実へ戻ってきたように顔を上げた。
それでも瞳には、まだ劇を観終えたばかりの興奮が残っている。
ルシアンが腕を差し出すと、エルナはためらうことなくその手を取った。
人の流れの中で、エルナがドレスの裾を踏まないよう気を配りながら、ルシアンはゆっくりと歩き出す。
エルナの頭の中は、まだヴィクトル将軍と北方の戦いでいっぱいだった。
そしてルシアンの頭の中には――どうやら、楽しんでくれたらしい婚約者のことしかなかった。
◇ ◇ ◇
王立劇場を出ると、二人は人の流れを抜けて街路を歩いた。
劇場から少し離れた場所に、ルシアンが予約していた茶屋があるという。
エルナはルシアンの腕にそっと手を添えたまま、珍しそうに周囲を見渡していた。
劇場の近くには、観劇を終えた人々が立ち寄る店が並んでいる。菓子店の甘い香りや、通りに面した店先の商品。行き交う人々の姿まで、エルナにはどれも新鮮に映った。
時折足を止めそうになるエルナに歩調を合わせながら、ルシアンはゆっくりと彼女を先導する。
やがて目的の茶屋へ着き、二人は予約していた席へ案内された。
それぞれ気になる茶を選び、軽食を頼む。
注文を終えた途端、エルナは待っていましたと言わんばかりに顔を上げた。
「ルシアン様、今日はありがとうございました。とても楽しかったですわ」
「それはよかった」
「この辺りは初めてでしたので、お散歩も新鮮ですわ」
にこにこと話すエルナを見て、ルシアンは穏やかに頷いた。
「またあとで、歩こう」
「はい」
エルナが嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見るだけで、今日ここへ連れてきた甲斐があったとルシアンは思った。
「それにしても……」
ふと、エルナが劇場で観た物語を思い出すように目を細める。
「ヴィクトル将軍、とても素晴らしい方でしたわ」
「そうだな」
ルシアンが短く答えると、エルナは劇場で見た場面を思い返すように、嬉しそうに微笑んだ。
「最初は、もっと華々しく戦場で活躍される方なのかと思いましたの」
「そうだったな」
「けれど、兵のことだけではなく、民の避難や食糧のことまで考えていらっしゃったでしょう?」
エルナの瞳がきらきらと輝く。
「戦で勝つことだけではなく、その後も人々が生きていけるようにと考えていらしたのが、とても素敵でしたわ」
「……ああ」
ルシアンは頷いた。
確かに、その通りだ。
将軍として、あの判断は評価すべきものだった。
だが。
「民を守るために、自分が理解されなくても信念を曲げないところも……とても立派でしたわ」
エルナは、すっかりヴィクトル将軍に夢中だった。
もちろん、劇中の人物に対して何を思おうと自由だ。
それが実在した人物をモデルにした役柄であることも、ルシアンは理解している。
理解しているのだが。
「勇敢で、民思いで、それでいてあれほど冷静に物事を考えられる方なんて……」
「エルナ」
「はい?」
ふと名前を呼ばれ、エルナが顔を上げる。
ルシアンは一度、紅茶のカップへ視線を落とした。
「……あの程度の判断なら、私でもする」
「え?」
思わず目を瞬かせるエルナに、ルシアンは続けた。
「民を避難させることも、補給を整えることも、戦場だけを見ずに判断することも当然だ」
「……そうですわね」
「むしろ、劇では少し簡略化されすぎていた」
「簡略化……ですか?」
エルナの瞳が、今度は別の意味で輝いた。
その反応を見て、ルシアンは少しだけ満足する。
「敵軍があれほどの規模なら、兵糧の確保だけでもかなり早い段階から準備が必要になる。各領へ協力を求めるにしても、単に食糧を出せと言えば済む話ではない」
「確かに……」
「領地によっては収穫量も違う。輸送に使える馬や荷車の数も限られる。どの街道を使うかによって、必要な日数も変わる」
ルシアンは劇場の場面を思い返しながら、淡々と説明していく。
「それに、民を避難させるなら、避難先だけ用意しても意味がない。途中で食糧が尽きれば動けなくなるし、老人や幼い子どもが多ければ移動速度も落ちる」
「……そうですわね」
「だから、兵の移動と民の避難を同じ街道へ集中させるのは避けるべきだ。荷車が詰まれば、どちらも動けなくなる」
「なるほど……!」
エルナが身を乗り出す。
「そう考えると、劇の中ではあっという間に避難が終わっていましたけれど、本当はもっと大変なのですね」
「当然だ」
「さすがルシアン様ですわ。そんなところまでお分かりになるなんて」
尊敬の眼差しが、まっすぐルシアンへ向けられる。
先ほどまでヴィクトル将軍へ向いていた瞳が、再び自分へ戻ってきた。
ルシアンは満足そうに頷いた。
「まあ、舞台だからな。そこまで描けば話が進まなくなる」
「そうですわね。ですが、本物のようでしたわ」
「あの演出か?」
「はい。敵軍が山を越えて現れる場面です」
エルナは興奮した様子で続ける。
「遠くから大勢の兵が押し寄せてくるように見えて……本当に北方の戦場にいるようでしたわ」
「あれは舞台の奥へ傾斜をつけて、兵の姿を小さく見せているんだろう」
「そうなのですか?」
「加えて、後方の幕へ影を映していた。実際よりも多くの兵がいるように見せるためだ」
「まあ……!」
「照明の当て方も工夫していたな。奥を暗くして手前だけを明るくすれば、距離感が分かりにくくなる」
「だから、あんなにたくさんの兵がいるように……」
エルナは感心したように頷いた。
「本当に、ルシアン様は何でもご存じなのですね」
「何でもではない」
そう答えながらも、声はどこか満足そうだった。
ようやく二人の紅茶と軽食が運ばれてくる。
しかし、エルナはまだ劇の世界から抜け出せていないらしい。
カップを手に取ったところで、ふと考え込むように首を傾げた。
「……では、もしも」
「何だ?」
「劇中のように、民を避難させる予定だったのに、何らかの理由で間に合わなかったらどうなさいます?」
ルシアンの手が止まる。
「例えば、敵軍の進軍が予想より早くて……民が逃げる前に領地が戦場になってしまった場合です」
「……」
エルナは真剣な表情で続けた。
「民を置いて兵だけ撤退することはできませんわよね?」
「できない」
ルシアンは即答した。
「では、どうなさいます?」
いつの間にか、エルナは身を乗り出している。
ルシアンもまた、少し考えてから口を開いた。
「まず、敵軍の目的を確認する」
「目的……ですか?」
「略奪が目的なのか、領地を通過することが目的なのか。それとも、こちらの兵を誘い出すためなのか。それによって対応が変わる」
エルナは真剣に頷いた。
「もし略奪なら?」
「民を一か所へ集めるのは危険だ。小さな集落へ分散させるか、地形を利用して隠れる場所を確保する」
「では、戦う場所は?」
「領地の中心から離す。できるだけ民の生活圏へ戦火が及ばない場所を選ぶ」
「……でも、敵軍が領地へ入ってきてしまったら」
「その場合は、敵の進軍を遅らせる」
「遅らせる?」
「ああ。橋を落とす、道を塞ぐ。正面から勝てないなら、戦わずに時間を稼ぐ」
「その間に、民を逃がすのですね」
「そうだ」
二人の間で、いつの間にか紅茶の存在感がなくなっていた。
「ですが、橋を落とせば、こちらの民も移動できなくなるのでは?」
「だから、落とす順番を考える」
「順番……!」
「先に民を渡らせる。その後、敵軍が来る前に壊す」
「なるほど……!」
エルナはすっかり感心した様子で頷いている。
「それでは、もし敵軍が複数の道から攻めてきたら――」
「その場合は、最初からすべてを守ろうとしない」
「え?」
「守る場所を選ぶ」
「……」
「すべてを守ろうとして兵を分散させれば、結局すべてを失うことになる」
ルシアンの声は静かだった。
「だから、何を守るべきかを決める」
エルナはしばらく黙り込んだ。
そして、ゆっくりと頷く。
「……難しいですわね」
「ああ」
「でも、民を守るためには、戦うことだけを考えていてはいけないのですね」
「その通りだ」
二人はしばらく、真剣な表情で向かい合った。
そして。
「……ところで、軽食が冷めておりますわね」
「……そうだな」
テーブルの上には、ほとんど手をつけられていない料理と、少しぬるくなった紅茶が並んでいた。
エルナとルシアンは顔を見合わせる。
「先にいただきましょうか」
「ああ」
そうしてようやく、二人は遅めの昼食を始めた。
――なお、その日の外出について、二人が「楽しい時間を過ごした」と認識していたことだけは間違いなかった。
それが一般的に、恋人同士の観劇の後に行われる会話ではなかったことにも。
二人は、最後まで気づかなかった。




