王都編1-14 社交教育
三日後、エルナはエリーゼからの呼び出しを受け、王宮へやってきた。
昨日、王宮から使者が訪れたときには少し驚いたものの、ちょうど予定は空いている。
エリーゼの庭園へ案内されると、円卓にはエリーゼとクレアがすでに席についていた。
「ごきげんよう、エリーゼ様、クレア様」
「ごきげんよう。突然呼びつけてしまったのに、都合をつけていただいて感謝しますわ」
エリーゼの言葉に、エルナは首を振った。
「予定が空いておりましたので、お気になさらないでくださいませ。――シャルロット様とオリヴィア様はいらっしゃらないのですか?」
「二人は予定があるのです。今日は三人だけですわ」
「そうなのですね」
エルナが席に着くと、爽やかな香りの紅茶が注がれた。
「辺境伯たちは先に帰領されたようですが、その後は変わりありませんか?」
「はい。ルシアン様が、何か困っていることはないかと尋ねてくださいますわ」
エリーゼがわざわざ心配する必要はないとでも言うように、エルナは頷いた。
「仲がよろしいのですね」
「ルシアン様は昔からお優しいのです」
笑みを浮かべるエルナを一目見ると、エリーゼは紅茶を口に含んだ。
「――クレアから、ハルトマン伯爵家のお茶会で一緒だったと聞きました。どうでしたか?」
「お庭がとても素敵でした。猫さんや小鳥さんを模したお花畑があったのです」
エルナが庭園の様子を楽しそうに語る間、エリーゼは紅茶を片手に静かに耳を傾けている。
やがてエルナが話し終えると、エリーゼはカップをソーサーへ戻した。
そして、まっすぐにエルナを見つめる。
「――お茶会の方は、どうでしたの?」
「とても楽しかったですわ」
エルナは嬉しそうに頷いた。
「ヴィオラ様と同じお席で、一緒にお菓子を楽しみました」
「そう。――ミレイユ様とも?」
「はい」
エリーゼは穏やかに微笑んだまま、エルナを見つめている。
(どうして、ミレイユ様のことをご存知なのでしょうか……?)
エルナは頷いてから、ふと首を傾げた。
「では、ミレイユ様のお席についても、何も問題はありませんでしたのね?」
「あ……」
エルナは目を瞬かせた。
「クレアから聞きました。ミレイユ様のお席が用意されていなかったのでしょう?」
「はい。――ですから、私の卓にご一緒していただきました」
「そのようね」
エリーゼは紅茶を一口飲んだ。
いつもと変わらない仕草のはずなのに、エルナにはそれがどこか違って見えた。
何かを感じ取ったエルナを見つめ、エリーゼの青い瞳がすうっと細くなる。
「では、なぜミレイユ様のお席がなかったのかは、お分かりになりまして?」
「……お二人のお父様の関係が、以前からあまりよろしくないから、ですよね?」
「その通りですわ」
俯くエルナへ、エリーゼは静かに頷いた。
「ヴィオラ様がミレイユ様のお席を用意しなかったことには、当事者にしか測れない理由があったと思いませんか?」
「……はい」
エルナは少しだけ肩を落とした。
それでも、ミレイユをあのままにしておきたくはなかった。
「ヴィオラ様が、なぜご招待されたのかまでは分かりません。――ですが、ミレイユ様が応じられたのであれば、このひとときくらいは、皆で楽しくお茶をいただきたいと思ったのです」
「ええ。あなたがそう考えたことは、間違いではありません」
意外な言葉に、エルナが顔を上げた。
「ただし――社交の場では、正しいことと、適切なことが同じとは限りませんの」
「適切なこと……?」
「ヴィオラ様には、ミレイユ様を席につかせないという事情がありました。それなのに、あなたはミレイユ様を自分の卓へ――よりによって、ヴィオラ様と同じ卓へお連れした」
エルナは黙って話を聞いていた。
「あなたは、ヴィオラ様を指摘したつもりはないのでしょう?」
「もちろんですわ」
「ええ。そこは分かっています」
エリーゼは優しく微笑んだ。
「むしろ、あなたはヴィオラ様の面目を潰さないように、『ミレイユ様とお話ししたい』という形にしたのでしょう?」
「……はい」
「それは、とてもよい気遣いですわ」
エルナの表情が、ほんの少し和らいだ。
「けれど、ヴィオラ様がミレイユ様を席につけない理由を――あなたはフォローしたつもりだったのでしょうが、結果として皆の前に明らかにしてしまったのです。ヴィオラ様は、あなたの申し出を断ることもできなくなりました」
エリーゼには、エルナに悪気がなかったことは分かっている。
本人なりに相手を気遣い、誰も傷つけないように動いたのだろう。
ただ、他の令嬢たちよりも、エルナは少しばかり素直すぎる。
――ほんの少しだけ、惜しかった。
「もう少し踏み込まずにいれば、ヴィオラ様はその事情を隠したまま、お茶会を続けられたかもしれません」
「……」
「あなたが悪いと言っているのではありません。ただ、相手があえて触れずにいる事情に、善意で手を差し伸べることが、かえって相手を困らせる場合もあるのです」
エルナの優しさも、強さも、責められるものではない。
けれどエルナには、自分の意見を相手に認めさせるだけの地位がある。
そのことを、本人はまだ十分に理解していない。
「あなたは、ルシアン公子の婚約者です」
エリーゼの声が、少しだけ真剣なものになる。
「あなたが何気なく口にした言葉や、善意で取った行動が、あなた自身だけの問題では済まなくなることもありますわ」
「承知しております……」
力ある者こそ、剣の振り方に気をつけなければならない。
それは家族からも、公爵夫人からも、幾度となく教えられてきたことだ。
けれど、鞘に収まったままの剣に意味はない。
「私、どうすればよかったのでしょうか? ――きっとこれから先も、困っている方を見て、手を出さずにいる自信がありませんわ」
教えを請うエルナを見て、エリーゼはクレアと顔を見合わせた。
王太子妃に指摘されれば、萎縮して自ら言葉を発することを控える者も多い。
どうするべきかは、エリーゼも伝えようと思っていた。けれど、それを先に口に出されるとは思わなかった。
「困っている方を、見捨てる必要はありません」
エリーゼの目が細くなる。
「直接手を出す以外の方法がないかを考えるのです」
「別の方法……」
「ええ。――たとえば、今回ならミレイユ様に『少しこちらでお話ししませんか』と声をかけて、まずはその場から離れることもできましたでしょう?」
エルナは目を丸くした。
そんな発想はなかった。
「……そうすれば、ヴィオラ様にお願いする前に、ミレイユ様とお話しできます」
エルナはそこで一度言葉を切り、自分の行動を振り返る。
「私が手を出してよいことなのかを、考えるのですね」
「ええ」
「私、そこまでには及びませんでしたわ」
エリーゼは微笑んだ。
「助けたことで、相手が困ることもあるのです。善意であっても、相手が望んでいないところまで動かしてしまってはいけません」
「……難しいですわ」
眉をひそめるエルナへ、エリーゼはくすりと笑った。
「でしょうね」
それでも、エルナが困っている人を見過ごせない性格であることは、エリーゼもよく分かっている。
「あなた自身が判断できないときは、無理に動かなくてもいいのです。信頼できる方に相談する。それも何もしていないのと同じではありませんわ」
隣で聞いていたクレアが、静かに頷いた。
「エルナ様であれば、公子様へお尋ねになるのがよいかと思われます」
「あの方なら、事情を聞けばすぐに分かるでしょうから」
ルシアンが夜会のときに、男女を問わず人に囲まれているのは、そういう理由もあるのだろうか。
婚約者の名前が出たことで、少しだけエルナの心が和らいだ。
「すぐに答えを出さなくてもよいのです。私やシャール、オリヴィア様やクレア様に尋ねても構いませんわ」
「……よろしいのですか?」
「もちろんです」
瞳を瞬かせるエルナへ、エリーゼはゆっくりと頷いた。
クレアも穏やかな笑みを浮かべている。
「社交の場では、すべてを自分一人で解決する必要はありません。むしろ、自分が動くべきことなのかを見極めることのほうが大切ですわ」
「よく、分かりましたわ」
きっと次は、もっと上手く立ち回ってみせる。
新たな決意を胸にエルナは頷いた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「――では、私、ヴィオラ様へ謝罪のお手紙を書きますわ」
「え?」
「……なぜです?」
首を傾げるエリーゼとクレアに、エルナは頷いた。
「困らせてしまったのですから、お詫びをしなくては」
まっすぐな茶色の瞳を見つめ、エリーゼは苦笑を浮かべた。
「あなたの気持ちは分かりますわ。ですが、謝罪の手紙を送れば、ヴィオラ様はさらに困ると思いませんか?」
「……?」
首を傾げるエルナを見て、エリーゼはまだまだ教え甲斐があることを悟った。
「あなたから謝られてしまえば、ヴィオラ様は『エルナ様に謝らせてしまった』という立場になります。まして、あなたは辺境伯令嬢ですもの」
「……あ」
気づいてしまえば、理解が早いのが救いだった。
――まったく、どうしたらこんなにもまっすぐでいられるのだろう。
「あなたが悪かったわけではありません。ヴィオラ様も、あなたを責めているわけではないでしょう」
「では……どうすればよいのでしょう?」
過ちを認め、自らを是正するのはよいことだ。
けれど、ただ前へ走ればよいというものでもない。
「何もしなくてよいのです」
「何もしない……」
「ええ。今回のことは、もう終わったことにする。それも社交の一つですわ」
難しい表情を浮かべるエルナの前で、エリーゼはすっかりぬるくなった紅茶を口に含んだ。
眉をひそめるエルナへ、クレアが静かに口を開いた。
「社交界へ出たばかりのエルナ様には、まだまだ理解しがたいことも多いでしょう。――ですが、私はエルナ様があのように仰ってくださって、よかったと思っておりますよ」
「そうなのですか?」
「中立を謳う我が家は、他家の事情に介入することができません。他の令嬢方も、理由はさまざまあるでしょうが、同じなのです」
アーヴェル伯爵家は、どの家にも与しない。
それゆえに、子爵家から公爵家まで、あらゆる家と良好な関係を築くことができている。
けれど、その立場にあるからこそ、クレア自身が自ら動くことはできない。
「だからこそ、エルナ様が動いてくださったことを、私は否定いたしません」
「そう仰っていただけると、少し安心いたしますわ」
クレアは微笑んだ。
自分にはできないことを、エルナは迷いながらも行動に移すことができる。
それが少しだけ羨ましくもあった。
きっとルシアン公子も、苦笑しながらではあっても、彼女の行いを認めるのだろう。
「――ちなみに、シャールが出ているときは、エルナ様は静かになさっていてくださいね」
「シャルロット様が?」
「ええ」
エリーゼはにこりと笑った。
「あの子も、困っている方を見ると放っておけないところがありますから」
「まあ……」
エルナが目を瞬かせる。
「お二人が揃ってしまうと、どちらも止まらなくなるでしょう?」
「……」
「私やオリヴィア、クレアの誰かがいるときなら、まだよいのです。ですが、二人だけで勢いづかれると大変ですから」
クレアが思わず口元を緩めた。
「……想像できます」
「クレア様まで」
エルナが困ったように眉を下げると、三人の間に小さな笑いが起こった。
◇ ◇ ◇
「……ということがあったのです」
その日の午後、ルシアンが辺境伯邸を訪れると、少しだけ覇気のないエルナが事情を説明してくれた。
先日のハルトマン伯爵家の茶会については、ルシアンの耳にも入っていた。
辺境伯令嬢が、席を用意されなかった令嬢を自ら自分の卓へ招き入れたらしい。
しかも、善意と正論で主催者を押し切ったのだとか。
「……エルナらしい」
思わず苦笑が漏れる。
幸い、エルナ自身に非難の矛先が向いたという話はない。
本人が気にしている様子もないのなら、わざわざ自分から介入する必要もないだろう。
そう思っていたのだが、今回はエリーゼに先を越されてしまったようだった。
「次は、もう少し上手く立ち回れると思いますわ」
どこか誇らしげに頷くエルナへ、ルシアンは小さく息を吐いた。
デビュタントして間もない頃。
エルナがエリーゼたちに呼ばれ、呼び方が「お兄様」から「ルシアン様」へと変わったときには、これから先のことを少なからず心配していた。
自分が常に傍にいられるわけではない。
社交の場には、自分には手を出せないこともある。
大切に見守ってきた少女が、社交界という底の見えない沼に足をすくわれるのではないか。
じわじわと沈んでいくのではないか。
そんなことを考えてしまう日もあった。
けれど、早くもエルナを支えてくれる存在がいるようだった。
悔しくないと言えば、嘘になる。
自分が守ってやりたいと思っている相手を、自分の知らないところで支えてくれる人がいる。
その事実に、感謝しないわけにはいかなかった。
「……何かあれば、いつでも私に聞いてくれ」
「はい」
迷いなく頷くエルナを見て、ルシアンはわずかに目を細めた。
本当は、自分だけを頼ってほしい。
けれど、エルナはそんなことをしない。
だからせめて、常に彼女の様子に気を配り、誰よりも先に彼女へ手を伸ばそう。
ルシアンは、密かにそう決心した。




