王都編1-11 辺境伯家夜会
王宮での公務を終え、いつものように辺境伯邸を訪れたルシアンは、邸内がいつもより慌ただしいことに気がついた。
普段なら穏やかに行き交う使用人たちも、今日は足早に廊下を行き来している。
「辺境伯卿は王宮だと思うが、夫人はいらっしゃるか?」
出迎えた使用人が頷いた。
「はい。奥様は大広間にいらっしゃいます。――お嬢様もご一緒です」
「そうか」
使用人に案内されて大広間へ向かう。
入り口から中を覗くと、ちょうどエルナが辺境伯夫人と話し込んでいるところだった。
「お花は例年と同じものですが、庭師に生育具合を確認しておくのですよ。もし不都合があった場合は、代わりのお花の生育具合も尋ねてくださいね」
「はい」
エルナは手帳を片手に、母からの指示を一つずつ書き留めている。
「それが終わりましたら、新たに届いた招待状の返送内容と名簿を確認して、当初の予定と実際にいらっしゃる方に相違がないか確認しましょう」
「はい」
穏やかな母娘の会話。
けれど、エルナの手は止まらない。
ルシアンが大広間の入り口でその様子を眺めていると、辺境伯夫人がこちらに気づき、にこりと微笑んだ。
「ルシアン殿、いらっしゃい」
「夜会の準備中に、失礼いたしました」
ルシアンはエルナたちのもとへ歩み寄り、一礼する。
夫人は穏やかに首を振った。
「いいのですよ。そろそろいらっしゃる頃だと思っておりましたわ」
「いらっしゃいませ、ルシアン様」
嬉しそうに笑みを浮かべたエルナだったが、すぐに少し残念そうに眉を下げた。
「お会いできて嬉しいのですが、まだお母様のお手伝いが終わっておりませんの」
数日後には、社交シーズン中に一度だけ開かれる辺境伯家の夜会が控えている。
今回は社交界にデビューした主催家の令嬢として、エルナも準備を手伝っているようだった。
「少しくらい、一緒に話をしたら?」
エルナがそう誘うも、ルシアンは首を横に振った。
「いえ。もうすぐ夜会だと存じておりましたのに、準備への配慮が足りず失礼いたしました。今日は帰ります」
恭しく一礼するルシアンを見て、辺境伯夫人が目を細める。
「せっかくいらしてくださったのですもの。お茶くらい召し上がっていらして。料理長が試作をたくさん作ってしまったので、感想をいただけると助かりますわ」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「エントランスのほうでよろしいかしら? ここなら、様子も見えますわ」
誰とは言わない。
けれど、その言葉の意図をルシアンは一瞬で察した。
「ありがとうございます」
「いつもの談話室のほうが、ゆっくりできるのではないですか?」
エルナが不思議そうに尋ねる。
「すぐに帰るから、気にするな」
「そうですか?」
首を傾げるエルナに、夫人とルシアンは一度顔を見合わせた。
「エルナはそのまま、手伝ってくれるかしら?」
「もちろんですわ。庭師の所へ行ってまいります」
エルナは手帳を抱え直し、早足で屋敷を出ていった。
ルシアンは使用人に案内され、エントランス脇の小さな応接スペースへ腰を下ろす。
ほどなくして運ばれてきた紅茶と試作品の菓子を前に、ルシアンは用意された紙とペンにも目を向けた。
「こちらにご感想をいただけますと、料理長も喜びますので」
「そうか。分かった」
夫人が気を遣って用意させたのだろう。
せっかく出してもらったものを無駄にするわけにもいかない。
ルシアンは紅茶を一口飲み、菓子を一つずつ味わいながら、紙へ丁寧に感想を書き始めた。
甘さや食感、果実の風味。
気づいたことを一つずつ書き留めていると、エントランスの向こうから足音が聞こえてくる。
顔を上げれば、エルナが手帳を片手に屋敷へ戻ってきたところだった。
エルナはそのまま大広間へ向かい、しばらくすると今度は厨房へ。
また大広間へ戻り、使用人と何かを確認している。
忙しそうに、けれど一つひとつ母の指示をこなしていく。
その姿を、ルシアンは紅茶を飲みながら静かに眺めていた。
やがて菓子を食べ終えると、最後に紙へ感想を書き終える。
「料理長へお渡しください」
「かしこまりました」
ルシアンは立ち上がった。
「それでは、私はこれで」
使用人へそう告げると、最後にもう一度、大広間へ視線を向ける。
そこではエルナが、また手帳を開いていた。
ルシアンは小さく目を細めると、そのまま屋敷をあとにした。
◇ ◇ ◇
その翌日。
エルナが夜会の準備に勤しんでいると、公爵家の使用人がやってきた。
「公子様から、エルナ様への贈り物でございます」
「……?」
エルナは首を傾げながら、両手いっぱいになるほどの箱を受け取った。
見た目の大きさに反して、箱は驚くほど軽い。
蓋を開けてみると、中には保存の利く焼き菓子やドライフルーツ、それにエルナが好んで飲んでいる茶葉が綺麗に敷き詰められていた。
「まあ……」
よく見ると箱は二段になっており、下にも菓子がぎっしりと詰められている。
添えられていた小さなメッセージカードには、短く一言だけ。
『夜会で会おう』
それを読み終えたエルナは、箱の中をもう一度見つめた。
「……こんなに、食べきれませんわ」
準備に勤しむ使用人たちと分け合っても、ルシアンはきっと何も言わないだろう。
そう考えたエルナは、さっそく近くにいた侍女へ菓子をいくつか手渡した。
その様子を見ていた辺境伯夫人は、にっこりと目を細める。
「あらあら」
まるで、何もかも分かっているような笑みだった。
◇ ◇ ◇
ノルドガルド辺境伯家の夜会当日。
日暮れまで、まだたっぷりと時間があるというのに、公爵夫人はルシアンから準備を急かされていた。
「母上。道中、何かあったときに備えて、そろそろ準備を始めてはいかがでしょう」
「急がなくとも、まだ時間はありますよ」
夫人はそう答え、ゆっくりと紅茶を口に含む。
「夜会に遅れるべきではありません」
「まだ遅れるような時間ではありません」
何かと理由をつける息子に、夫人は動じない。
「それに、あの人が帰っていないのに、私だけ用意して、どうするのです?」
「父上の準備はすぐに終わります」
「私が遅れをとるとでも?」
夜会は家全体で出席するものだ。
いくら次期公爵とはいえ、ルシアン一人が先に向かうわけにはいかない。
魂胆が見え透いた息子に、夫人は小さくため息をついた。
「準備中に伺うのも、先方へ失礼でしょう」
「夫妻には、いつ来てもよいと言われております」
「それは平時の話でしょう?」
「夜会が例外とは伺っておりません」
普段の冷静さはどこへやら。
屁理屈を並べる息子を見つめたまま、夫人は紅茶を飲み干した。
「……少しだけ、早く準備を終えるだけですよ」
「もちろんです」
目的を果たしたルシアンは、満足そうに部屋をあとにした。
数日前に辺境伯邸へ顔を出してから、大人しくしていると思っていたのだが。
どうやら、早くエルナに会いたくてたまらないらしい。
夫人は去っていく息子の背中を見送りながら、ふと首を傾げた。
(その気持ち、エルナには伝わっているのかしら……)
夜会の時刻にはまだ早いというのに、公爵家の一行が辺境伯邸へ到着すると、辺境伯家は温かく迎え入れた。
「今日は早いな」
公爵家が準備中に訪ねてくるのは初めてだった。
「ああ。準備が早く済んだものでな。少々早く着きすぎたようだ。準備中に邪魔をしてすまない」
そう言って、公爵はちらりとルシアンへ視線を向けた。
その一瞬だけで、辺境伯には事情が伝わったらしい。
「何を言っている。こちらこそ、まだ落ち着かなくてな。好きなところでゆっくりしていってくれ」
「そう言ってもらえると助かる」
笑みを浮かべながら、二人は固く握手を交わした。
「妻とエルナは大広間だ。よかったら挨拶していってくれ」
「もちろんだとも」
公爵夫妻とルシアンが大広間へ向かうと、そこでは辺境伯夫人とエルナが最後の確認をしていた。
「あらあら。皆様、今日はお早いですのね」
温かな笑みを浮かべる辺境伯夫人に、公爵は先ほどと同じように答えた。
「道中、何か起きて遅れるわけにはまいりませんからな」
その言葉に、公爵夫人がちらりとルシアンを見る。
ルシアンは何食わぬ顔で辺境伯夫人へ一礼した。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、いらしてくださって嬉しいですわ」
顔を上げたルシアンの視線が、そのままエルナへ向かう。
今日のエルナは、主催家の令嬢として動きやすいよう、髪をハーフアップにまとめていた。後ろで編み込んだ髪は、エメラルドと銀の髪飾りで留められている。
いつもよりふわふわとした髪の量は抑えられているものの、深緑色のドレスに銀糸の刺繍が映え、すっきりとした佇まいの中にも、いつもの可愛らしさが残っていた。
ルシアンは、ほんの一瞬だけ目を細める。
「お菓子、たくさんありがとうございました」
エルナが嬉しそうに微笑んだ。
「たいしたことではない」
「食べきれないので、皆で分けさせていただきましたわ」
「エルナのしたいようにすればいい」
にこにこと笑うエルナを前に、ルシアンはただ穏やかに頷いている。
その二人を見た公爵と公爵夫人は、揃って顔を見合わせた。
辺境伯夫人もまた、目を細める。
「あらあら。今日も仲良しさんね」
たわいのない会話を続ける二人に、公爵が小さく咳払いをした。
「ルシアン」
「はい、父上」
即座にルシアンが公爵へ向き直る。
「エルナと夫人は、まだ準備中だ。おまえは私と辺境伯卿のところへ来なさい」
「心得ております」
「行くぞ」
公爵が促すと、ルシアンは優雅に一礼した。
「エルナ、またあとで」
「はい、ルシアン様」
穏やかな表情を浮かべたルシアンは、エルナに別れを告げると、父の後に続いて大広間を出ていった。
その日のノルドガルド辺境伯家の夜会は、例年より多くの招待客を迎え、盛況のうちに幕を閉じた。




