海に行っても腹は減る
ギルドの依頼掲示板。
そこは冒険者にとっての生命線であり、夢と現実が交差する場所だ。
だが俺にとっては、ただの「お品書き」に過ぎない。
「……これ、身は締まってそうだけど、泥臭そうだな」
「こっちは……毒耐性必須か。下処理が面倒すぎる」
指先で依頼書をなぞる。
他の冒険者たちが「報酬」や「死亡率」を血眼で見比べている横で、俺は「食感」と「脂の乗り」を真剣に吟味していた。
「……あ、これ。絶対うまいやつだ」
「おい坊主。お前、また来てんのか」
横から太い声。
振り返ると、昨日キング・ベアの件で声をかけてきた、あの前衛職の男が立っていた。
「……あ、昨日の。どうも」
「何をそんなに見てるかと思えば、それ『暴れ岩蟹』だろ。殻が鉄より硬くて、普通の剣じゃ歯が立たねえぞ」
「やっぱり? でもこういうのって、中身はぷりぷりしてて甘いんですよね」
俺の返答に、男がわずかに顔を引きつらせる。
「……目的、おかしくねえか? 普通は報酬とか、名誉とか――」
「名誉じゃ腹は膨らみませんし」
即答だった。
「それより、この街、あんまり目新しい食材がないなって思って」
男はしばらく黙ったあと、呆れたように息を吐き、掲示板の端を顎で指した。
「なら、海の都市『ゼノス』に行け。今の時期、“潮喰いの大イカ(タイダル・クラーケン)”が旬だ」
「クラーケン」
「ああ。……ただし、クソ強い。Bランク上位のパーティーが数組がかりで挑むレベルだ。普通は近づこうとも思わねえ」
・巨大なイカの刺身。
・炙ったゲソに、甘辛いタレ。
脳内に、完璧なビジュアルが浮かび上がる。
「……それ、うまいの?」
「……食った奴の話じゃ、この世の物とは思えねえ絶品らしい」
決まりだ。
名誉でも、依頼でもない。
ただ最高のイカを食うために俺は移動することにした。
街からゼノスまでは、通常なら馬車で一週間。
だが、イカは待ってくれない。
「……ちょっと、ズルするか」
街道を外れた平原で、意識を“外部”へと接続する。
摩擦係数を限りなくゼロへ。
重力ベクトルを前方へ傾ける。
空気抵抗は風圧で強制的に分断。
「加速」
ドン、と空気が爆ぜた。
景色が線になって後方へ流れる。
疑似的な超高速滑走。
「……あ、これ、ちょっと頭痛いな」
脳の奥がじりじりする。演算負荷だ。
いつものことなので無視する。
それよりも速い。圧倒的に速い。
ただ“美味いもの”を求めて進むその裏で、世界は静かに軋んでいた。
森の魔物たちは、本能的な恐怖に従い巣穴の奥へと逃げ込む。
踏み抜かれた空間座標は、わずかに歪み、修復が追いつかない。
視界の端で、赤い警告がちらつく。
無視。
今は警告より、鮮度だ。
その頃。
世界の「裏側」、管理領域。
「……またです。対象個体、物理法則を無視した高速移動を開始」
白い空間に、乾いた声が響く。
「移動系への多重干渉……空間摩耗率、限界値を突破。このままだと、通過ルートの重力が一時的に反転します」
「負荷が洒落にならん……。自動修復が追いつかない」
モニターには、異常な速度で移動する一点の影。
その空間の隅。
書類に埋もれていた一人の男が、ゆっくりと顔を上げた。
目の下に深いクマ。
今にも消えそうな顔色。
例外処理係レオ、この世界の“後始末”担当。
「……無理です」
「しっかりしろ」
「もう無理です……ログ修正、エラー補完、因果の整合……全部一人で回してるんですよ……?」
声に力がない。
「休ませてください……給料いらないんで……休みを……」
ガクン、と首が落ちた。
沈黙。
そして、管理責任者が静かに言った。
「……監視を強化しろ」
「しかし、干渉制限が...」
「限界だ。直接“楔”を打つ」
責任者は、倒れ伏した男を指差す。
「……こいつを、現地に投入する」
「ハクチュン!」
高速移動の最中、盛大なくしゃみが出た。
「誰か噂してるな」
学院の先生かもしれない。
単位の話とか。
「……まあいいか」
軽く鼻をすすり、前を向く。
「飯の方が大事だし」
風の中に、わずかに潮の匂いが混じり始めていた。
イカまで、あと少し。




