頭の中が騒がしくても腹は減る
「……ん」
白い。あまりにも白い天井だ。
レオは、数ヶ月ぶりに訪れた「完全な静寂」の中で目を覚ました。
常に網膜を焼き続けていたエラーログの奔流も、鼓膜を震わせていた警告音もない。
「……久しぶりに寝た。しかも、めちゃくちゃスッキリしてる」
体を起こすと、節々の痛みが消えている。
あんなに酷かったクマも、心なしか薄くなっている気がした。
あまりの平和さに、逆に背筋が寒くなる。
「……怒られてないの、逆に怖いんだけど。世界、消滅してないよね?」
おそるおそる部屋を出て、管理本部の廊下を歩く。
いつもは修羅場と化しているはずのオフィスが、今日は妙に活気付いている。というか、上司の顔が妙に明るい。
「あ、レオ君! おはよう。よく眠れたかね?」
「……おはようございます。あの、僕、どれくらい寝てたんでしょうか。あと、あの『バグの塊』みたいな奴の処理はどうなったんですか?」
レオが身構えると、責任者は満面の笑みで肩を叩いた。
「いやぁ、君の献身的な働きのおかげで、ようやく一つの結論が出たんだよ。君には、特別に長期の休暇をプレゼントしようと思ってね」
「きゅ、休暇!? 本当ですか!?」
レオの瞳が輝いた。
(やっと休める……ログも、エラーも、全部忘れて……)
「ああ。君には、例の監視対象……『カイル・エドフォード』の近くで、ゆっくり休んでもらうことにした」
「……はい?」
「正確には、彼の脳内だね」
「……はい?」
責任者が指差した先には、既に起動済みの転送ゲート。
嫌な予感が、ゆっくりと形になる。
「君を精神体としてカイルの意識へダイレクトに送り込む。そこで彼の行動をリアルタイムで監視しつつ、異常があればその場で直接修正してくれ。移動の必要もないし、衣食住の心配もゼロ! 究極のワークライフバランス、通称『脳内送り』だ!」
「それ、ただの二十四時間強制労働ですよね!? 休暇の定義、どこの辞書で調べたんですか!?」
「カイルの奴、今は海の都市に向かってるらしいぞ。観光気分でいいじゃないか。じゃあ、いってらっしゃい!」
「待って、聞いてない! 全然聞いてないですよ……ッ!!」
次の瞬間。
世界が、裏返った。
音が消える。
視界が白に塗り潰される。
身体の輪郭がほどけ、意識だけが引きずり出される。
「いやだあああああああああああああああああああああ!!」
その絶叫ごと、レオの意識は叩き込まれた。
海は、もう目の前だった。
水平線の向こうから届く潮の香りが、カイルの食欲を野生レベルまで叩き起こす。
だが、その内側。
カイルの脳内意識空間は、それどころではなかった。
「……なんだよこれ、意味がわからない。なんなんだよこの空間は!」
レオは、真っ白な空間にぽつんと置かれた長テーブルの前に立ち、絶望に震えていた。
壁一面を埋め尽くしているのは、膨大な数のメニュー札。
『クラーケンの踊り食い(仮想試作第42号)』
『岩蟹の甲羅蒸し(演算中)』
『中央森域産キング・ベアのステーキ・ベリーソース添え(完食済)』
「ここ、僕の頭の中です。一応、一番落ち着くレイアウトにしたんですけど」
『落ち着くわけないだろう! 思考の9割が食い物じゃないか!』
その横で、南真一がいつもの調子で口を開く。
『落ち着け、新入り。ここはカイルの欲求が具現化したセーフティエリアだ。それより、お前が管理局の人間なら好都合だ。この個体、出力が設計限界を超えている』
「……二人もいる。バグが、喋るバグと会話してる……」
レオは膝から崩れ落ちた。
(休暇……温泉……布団……)
そのすべてが、今この瞬間――
「食欲モンスターの脳内で働く」という現実に上書きされる。
「……僕のゴールデンウィーク……」
『泣くな。ログの補正なら手伝ってやる。俺は理系担当だ』
「……幽霊なのに優しい……」
『幽霊じゃない。南真一だ』
その時。
外界で、カイルの足が砂浜に触れた。
白い砂。
強い日差し。
そして、不自然な静けさの海。
「着いた……! さて、クラーケンはどこかな」
ワクワクしながら海面を覗き込む。
その瞬間。
視界の端で、赤いウィンドウが弾けた。
【警告:海域データとの整合性不良】
【エラー:未定義の巨大質量オブジェクトを検知】
「うわっ、なんだこれ! 画面がうるさい!」
『止まれカイル!!』
レオの声が脳内に響く。
『これクラーケンじゃない! お前が空間削りながら来たせいで、因果が歪んでーー変なもの引き寄せてる!!』
「変なもの?」
次の瞬間。
ドォォォォォォォォン!!
海面が、山のように盛り上がった。
現れたのは、クラーケンではない。
触手の代わりに「巨大な岩の腕」を持ち、
全身が半透明のエネルギーで構成された、存在してはいけない何か。
『……あ、終わった』
レオが乾いた声で呟く。
『暴れ岩蟹に物理バグが融合して、隠しボス化してる……。これ、管理局案件でも最悪クラスだ……』
だが。
カイルの目には、それが全く別のものに見えていた。
「……あれ」
少し首を傾げる。
「あの透き通ってる部分、めちゃくちゃ綺麗な中トロに見えません?」
『見えるか!!』
『いや、屈折率的には高品質タンパク質に見えなくもない』
「ですよね」
即答だった。
「よし、食おう」
カイルの周囲に、魔力が集まる。
形を成すのはーー巨大なフォーク。
『やめろぉぉぉ!!』
レオが絶叫する。
『それ以上物理法則いじるな!! 俺の仕事がどんどん増えるだろうが!』
だが、その声は届かない。
空腹は、あらゆる警告を上書きする。
カイル・エドフォードは。
最高の一口を求めて、神の領域へ踏み込んだ。




