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肉が硬くても腹は減る

 キング・ベアの死体を前にして、俺はしばらく考えた。

 考えた、というより、正確には腹が減りすぎて、思考が半分止まっていた。

「……肉だ」

 目の前には、山みたいな熊の魔物。

  五メートル級。毛皮は硬質。筋肉は塊。脂も乗ってそう。どう見ても美味そうだ。

 問題はただ一つ。

「解体、どうすんだこれ……」

 俺は腰のナイフを抜いて、前脚の付け根あたりに刃を立てた。

 ギッ。

「……ん?」

 嫌な感触がした。

 もう一度、力を込める。

 ギギッ。

 切れない。

 切れないどころか、刃の方が悲鳴を上げていた。

「いやいやいや、嘘だろ」

 角度を変えて、腹。

  次に首。

  ついでに耳の後ろ。

 全部ダメだった。

 ナイフの刃先が、鋼鉄みたいな毛皮の上を虚しく滑るだけだ。

「ふざけんなよ……!」

 思わず叫ぶ。

 三日食ってない。

  水も足りない。

  やっと手に入れたデカい肉の塊が、目の前にあるのに食えない。

 この状況、控えめに言って地獄では?

「倒すまではいけるのに、食う段階で詰むの何なんだよ……!」

 腹が鳴る。

  ぐう、じゃない。もはやゴァァ……みたいな、魔物の断末魔みたいな音だった。

 その時だった。

 頭の奥で、カチ、と何かが切り替わる音がした。

 次の瞬間、妙に明るい声が響いた。

『説明しよう! 結合定数とはーー』

「出たよ、いらない音声機能」

 反射でツッコんでいた。

 たぶん前世の記憶と一緒に流れ込んできた、謎の補助機能だ。

  たまに勝手に起動して、求めてもいない解説を始める。

  しかもだいたい、今じゃないってタイミングで。

『物質を構成する要素同士が、どのくらい強く結びついているかを表す値である!』

「三行で言え」

『今のが一行だ』

「うるせえ」

 空腹時にこいつと会話すると、無性に腹が立つ。

 だが、言っている内容そのものは、たぶん重要だ。

 俺はキング・ベアの前脚を見下ろした。

  硬い。硬すぎる。ナイフが通らない。つまり、切断に必要な何かが高すぎる。

「……要するに、柔らかくすればいいんだろ」

『雑すぎる』

「通じればいいんだよ」

 俺は空中に指を走らせる。

  半透明のコンソールが開く。

  視界の端に、文字列と数式が流れた。

 物質特性。局所指定。対象:キング・ベア外皮、筋繊維、骨格周辺。

「摩擦係数……は後か。まずは……結合定数?」

『もっと慎重に扱うべきパラメータだが?』

「今の俺に慎重さを期待するな」

 空腹で手が震えている。

  だが、目の前に肉がある以上、やるしかない。

 俺は数値欄を雑に掴んで、一気に引き下げた。

「これで、まあ……行けるかな?」

『確認もせずに?』

「実行」

 次の瞬間。

 キング・ベアの前脚がぶるん、と揺れた。

「……え?」

 嫌な予感がした。

 毛皮の輪郭が崩れる。

  筋肉の張りが消える。

  骨格を支えていた何かが、まとめて仕事を放棄したみたいに、巨体の一部がずるりと沈んだ。

「ちょ、待っ――」

 どろっ。

 前脚が、赤茶色のゼリーみたいな何かになって地面へ広がった。

 皮も肉も筋も、区別がつかない。

  さっきまで“熊の脚”だったものが、煮込みすぎたシチューの失敗作みたいな見た目に変わっていた。

「…………」

『物質結合の急激な緩和により、形状保持に失敗したものと思われる』

「それを先に言えよ!」

『先に聞かなかっただろう』

「そうだけど!」

 最悪だ。

 食えそうか食えなさそうかで言えば、ギリギリ食えそうな気もする。

  だが、食いたいかと言われると、かなり嫌だ。

 俺は木の枝でそれをつついた。

 ぷる、と揺れる。

「うわぁ……」

『理論上は可食状態である可能性が高い』

「理論上は、な……」

 問題は、その“理論上”を今の見た目が全力で否定していることだ。

 俺は深く息を吐いた。

  腹は減ってる。頭も痛い。だが、ここで諦めたら三日前の俺に笑われる。

「……一気に下げるのがダメか」

『ようやく学習したか』

「うるさい。じゃあ、次は雑にやらない」

『お前がそれを言うと不安しかない』

 無視した。

 俺はもう一度コンソールを開く。

  今度は全体じゃない。

  皮だけ。

  筋だけ。

  脂肪層はそのまま。

  骨格は据え置き。

 数字も極端に動かさない。

「ゼロはダメ……っと。じゃあ、0.3」

『根拠は?』

「経験則だ」

『経験が浅すぎる』

「黙って見てろ」

 指定。局所。範囲縮小。

  外皮結合定数、段階的低下。

  補助で摩擦係数も微調整。

 前世の俺が泣いてそうな雑実装だったが、今の俺に必要なのは美しい理論じゃない。

  切れる肉だ。

「……実行」

 今度は、変化が穏やかだった。

 毛皮の表面に、ぴしっ、と細い線が走る。

  俺はそこへナイフを当てた。

 すっ。

「……お?」

 刃が入った。

 抵抗が、ある。

  でも通る。

  ちゃんと“切ってる”感触だ。

「いける……!」

 調子に乗って、そのまま腹側を裂く。

  厚い皮が開き、その下から赤い肉が顔を出した。

 肉だ。

 ちゃんと肉だった。

 さっきのドロドロじゃない。

  形がある。厚みがある。脂が乗ってる。めちゃくちゃ美味そうだ。

「よっしゃあああ……!」

『成功率の向上を確認。なお、手法は相変わらず荒っぽい』

「結果がすべてだ」

 そこからは早かった。

 切れると分かれば、もうこっちのもんだ。

  分厚い腿肉を切り出し、余分な皮を剥ぎ、適当な枝に刺す。

 火は……まあ、最悪いつものアレでいい。

 俺は空中に指を走らせ、周囲の熱分布をいじる。

  乾いた枝の先に、局所的に発火点を超える熱を置く。

 ぼっ、と火がついた。

「便利すぎるだろ」

『なお、脳への負荷』

「今だけは黙れ」

 焼ける音がした。

 じゅう、と脂が落ちる。

  香ばしい匂いが立ち上る。

  それだけで頭がくらっとする。空腹のせいか、幸福のせいか分からない。

 表面がこんがり色づいたところで、俺は待ちきれずにかぶりついた。

「……っ」

 熱い。

  でも、うまい。

 噛んだ瞬間、肉汁が溢れた。

  繊維はしっかりしてるのに硬すぎず、脂は多いのにしつこくない。

  野性味はあるのに臭みがない。

  なんかもう、意味が分からないくらいうまい。

「なんだこれ……」

 二口目。

  三口目。

 止まらない。

「なんか理屈は分からんけど美味い!」

『結合状態の最適化により、食感および熱伝導効率が改善された可能性が――』

「うまい! でいいだろ!」

『雑だな』

「料理なんてだいたいそんなもんだ!」

 気づけば、俺は笑っていた。

 森の中心。

  空は変な方向に落ちてるし、木は斜めだし、たぶん普通に考えれば遭難もいいところだ。

 でも今この瞬間だけは、全部どうでもよかった。

 生き延びた。

  食えた。

  しかも、めちゃくちゃうまい。

 それで十分だ。

 俺は焼き上がった肉をもう一枚火にかけながら、ぼそっと呟く。

「……これ、下手な街の飯よりうまくないか?」

『比較対象が少なすぎるため断定は――』

「お前、友達いないってよく言われない?」

『音声ガイドに交友関係は不要である』

「ちょっと可哀想になってきたな」

 その時。

 視界の端に、見慣れた赤いウィンドウがぴこん、と開いた。

【警告:ローカル物性値の不正変更を確認】

【警告:生体由来素材への再帰的干渉を確認】

【警告:調理工程として処理できません】

「最後のやつは知らねえよ」

 俺は鬱陶しい通知を指で払った。

  ウィンドウは消える。

 代わりに、焼けた肉の匂いだけが残った。

「……よし。おかわりいくか」

 その頃。

 世界の裏側、とある管理領域では。

 青白い光に満ちた空間の中央で、一人の管理者が硬直していた。

「……おい」

 別の管理者がログ画面を覗き込む。

「どうした」

「見ろ」

 そこに表示されていたのは、ありえない権限アクセスの履歴だった。

  対象:エテルナ中央森域

  内容:局所物性値書き換え

  内容:結合定数調整

  内容:熱分布の手動再配置

  備考:調理目的の可能性

 沈黙。

 数秒後、三人目が言った。

「……あいつ、結合定数いじったぞ」

「は?」

「しかも魔物の肉に対して」

「何のために?」

 少し間があいて、最初の管理者が乾いた声で答えた。

「腹が減ってたんだろ」

 また沈黙した。

「誰だあんな権限渡したの」

「渡してない」

「は?」

「だから、渡してない」

 ログを遡る。

  認証なし。

  承認なし。

  発行履歴なし。

 なのに使われている。

 しかも用途が、討伐でも封印でも世界改変でもなく、なぜか解体と調理だ。

「……ロールバックは」

「無理だ」

「修正は」

「できない。あれ、本人の認識経由で世界側に馴染んでる」

「最悪じゃないか」

「最悪だよ」

 モニターの向こうでは、問題の少年がうまそうに肉を食っていた。

 管理者の一人が、頭を抱える。

「世界の法則をハックできる個体が、やったことが飯の最適化って何なんだ……」

「まだマシかもしれん」

「どこがだ」

「飢えてる間は、たぶん機嫌が悪い」

「今も十分悪いだろ」

「満腹になったあと、もっと変なことを思いつかなければいいが……」

 その言葉に、誰も返事をしなかった。

 ただログ画面の端で、新しい警告が静かに点滅している。

【要注意個体:監視優先度を引き上げました】

【備考:料理の成功体験により、再実行率上昇の見込み】

 管理者たちは、揃って遠い目をした。

 そして一人が、諦めたように呟く。

「……せめて、次は戦闘に使ってくれ」


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