論外
――― 京都大学 小田切研究室
六月。
まだ三年生になったばかりのこの時期、普通の学生は講義と学生実習に追われ、研究室に足を踏み入れることすらできない。
だが久美は、新薬研究で有名な小田切教授の主宰するゼミに、すでに参加していた。
ズルをして奪い取ったあの推薦入試の特権が、成績はそれほどでもなくても、三年生の春からの「早期特別配属」という破格の待遇をもたらしたのだ。
しかし、実力がまったく足りていない久美にとって、最高峰のラボが交わす高度な議論はあまりにもアウェイだった。
相変わらずの傲慢な性格も災いし、研究室の先輩や同期との交流は皆無。
完全に孤立した久美は、周囲から「実力もないくせに推薦のコネで特等席を横取りした、目障りな存在」として、冷ややかに疎まれていた。
―――
この日、久美は研究室内で先輩や同期たちが集まって行う“研究発表会”――定期ゼミに参加していた。
いつもなら試験管やシャーレ、そして試験管立てが散乱している固定された研究室の大きな机は、綺麗に片づけられ、真っ白な天板があらわになっていた。
その机を囲むように先輩たち(成績優秀)が座り、座れないメンバーは、その周りの研究用棚にある小さなスペースにノートを置き、クリップボードを片手に、ヒントになるような言葉一つ漏らさないように、必死にメモを取っていた。
小田切教授は、ブラインドの下がった窓際の書庫棚の前で、カウンターチェアーに座り、研究室に所属するメンバーの発表レジュメに目を通しながら、説明を聞いていた。
「――以上の手順により、目的物である誘導体、サンプルの『T-28』の合成経路を確立いたしました。
今回、主鎖の選択的還元において、従来の触媒では副生成物の分離が困難でしたが、パラジウム触媒の使用量と反応温度を180°Cから150°Cへと調整したことで、副反応を大幅に抑制できています。
結果として、目的物の単離収率は78%、純度も95%以上を達成いたしました。
現在は、この『T-28』を用いた、標的タンパク質に対する阻害活性試験の準備を進めている段階です。私からは以上です」
「ふむ・・・前回の発表会での不安定な状態よりは、安定しているようだな・・・」
小田切教授は説明を聞き、手元にある資料をめくって確認する。
資料に落とす視線が右に左に動き、時折感心するように頷く。
「現在パラジウムを使っているようだが・・・
今後を考えると、別の触媒も検討すべきだな・・・」
「それは、希少金属以外という事でしょうか?」
「そうだ。 別業界の話に例えると、水素のキャリアにも言える事で、
ただ水素を何かに変換することは、昔から分かっている事をただ行っているだけだ。
アンモニアやMCHに変換する為のエネルギーロスが問題になる。
やらなければならない事は、いかにそのロスを減らすかだ。
それは、我々も同じで、ロスを減らした形を見出すことで見える事もあるぞ。」
「は、はい・・・・・・! ご指摘ありがとうございます。
鉄や銅などの汎用金属を用いた、より低コストかつ高効率な触媒サイクルが組めないか、すぐに既存の文献を洗い直してみます」
発表していた先輩は、小田切教授の金言を一つも漏らすまいと、机のノートに激しい勢いでペンを走らせた。
「前に使ってた、『H-B16』だと、熱反応がもっと良くなかったか?」
机に座っている別の先輩が発言した。 すると、他のメンバーも発言を始める。
「合成前に直接VTIからETIに変更してはどうだ?」
「いや、それだと、エネルギー量が上がり過ぎないか?――」
その様子を見て小田切は、ニヤニヤしながら頷いて議論を見守った。
周囲で壁に寄りかかりながら聞いていた他のメンバーたちも、一斉に手元のノートにその言葉を書き留めていく。
小田切の話は、単に目の前の実験を成功させるだけでなく、将来的な実用化や産業界全体の動向までを見据えた教授の広い視野だった。 それに対して、先輩たちの沸き出てくるアイデアに、誰もが圧倒され、必死に食らいつこうとしていた。
ゼミ室を支配する、学問への純粋な熱量と、一瞬の妥協も許されない心地よい緊張感。
だが、その輪のなかに、久美の居場所はなかった。
(・・・・・・何言ってるのよ、この人たち・・・
アイデアを教えてあげるとか意味がわからない・・・)
水素キャリアがどうとか、エネルギーロスがどうとか、そんな話は今の久美には遠い世界の絵空事にしか聞こえない。
ズルをして推薦を奪い取り、基礎的な実力や研究への深い情熱がすっぽりと抜け落ちている久美にとって、この部屋で飛び交う高度な議論は、自分の思想とかけ離れ、馴れ合いのように見え、それは非常に苦痛な時間でしかなかった。
「よし、では次にいくぞ・・・次は・・・早川君か・・・
・・・ん? あまりいい結果が出てないようだな。」
小田切教授は、後ろの書庫棚に並べてある次のレジュメを手に取り、ペラペラとめくって、口を開いた。
その指摘に早川は、眉間にしわを寄せながら補足説明する。
「はい、教授の言うとおりです。 スキーム3に示しました最後の縮合反応において、期待していた立体選択性が得られず、目的の対掌体の収率が10%以下に留まっております。
スクリーニングした溶媒の極性が影響していると考え、現在は塩化メチレンからアセトニトリルに変更して、再度条件検討を行っている最中ですが・・・、現時点では明確な改善のデータは得られておりません。
次回までに、塩基の検討も含めた新たなアプローチを試みる予定です。」
「現状を聞く限りだと、溶媒を限定するのはよくないかもしれんな・・・」
「といいますと?」
小田切はレジュメのグラフを見比べながら、自分の考えを伝える。
「現時点で、過去のデータにそれなりの数値は出ているが、効率のいいパターンが見受けられない。
アプローチの数を増やして、反応パターンを見比べた方がよいかもしれん。
まずは、様々な条件のデータを集めた方が、ブレイクスルーが見つかるかもしれないぞ。」
早川は自分のレジュメをジッと見つめ、なにやらブツブツ…とつぶやいている。
そして、レジュメを“パンッ!”と指ではたき、小田切の方へ顔を上げた。
「分かりました。
自分としてはかなり後戻りする感じですが・・・焦っても結果は出ませんよね。」
「そうだ! その通りだ!! ここにいる全員に言っておく!
良いか! 君たちのやっている基礎実験部分は、芽が出るか、出ないか、分からない。
そして、ほとんどが無駄になることが多い。
すべてにおいて実験が思い通りに進むことなど、ほぼないんだ。
そんな実験を繰り返すんだ!
それは、今後、大学を卒業して研究者になったとしても同じだ。
何事も、一足飛びに進むことはない。 時には、一度後戻りすることも必要だ!
君たちは、そういう世界に進もうとしていることを、きちんと把握しなくてはいけない!
わかったかな?」
「はい。」
「わかりました。」
研究室のメンバーが返事をして答えた。
久美はそんな様子を見て、首を傾げて、納得できない様子だった。
(・・・・・・この人達は何を言ってるんだろう?
結果は出た方がいいに決まってる。 無駄な実験はできるだけやらない方がいいに決まってるじゃない)
「さて・・・次のレジュメは・・・」
その後も研究室に所属するメンバーのレジュメの評価が続いていく。
―――
あるレジュメの評価が終わったタイミングで、小田切が自分の腕時計を確認する。
「今日はここまでだな・・・」
そう呟いた後、全員の方に顔を向ける。
「いい時間だ。今日はここまでにしよう。
次回までにいい研究結果を待ってるぞ。」
小田切がそう言うと、ガタガタと全員が片付けを始めた。
その時だった。
「教授!」
久美が手を挙げた。
小田切は椅子から降りて、書籍棚の上に置かれたレジュメを片付けていた時だった。
振り返って久美の方を見る。
「あ~~・・・え~~っと・・・君は~~・・・」
「安永久美です。」
「ああ、安永さん。 先月から参加した特別枠の・・・・・・
で、なにか質問かな?」
「私の提出したレジュメはいかがでしたでしょうか?」
久美が発言した瞬間、研究室の空気がピリッと張りつめ、メンバーたちのあいだにざわめきが走った。
小田切の表情も先ほどまでの優しい顔ではなく、眉間にしわを寄せ、ジッと久美を見つめた。
「君は・・・まだ参加して間もない・・・ルールもよく知らないと思うから説明するが・・・
この研究室では、自分で取った実測データに基づく内容を重視している。
君はこの研究室に来て、何かを成したのかね?」
久美は目をパチパチと瞬きさせて戸惑う。
「・・・・・・いえ、特には・・・
ですが、自分自身の論理をレジュメにまとめてみたのですが・・・
それに対するご意見を頂きたいと思ったんですが・・・」
小田切は「はぁ~っ・・・」とため息を吐く。
書籍棚に載っているレジュメの中から久美の提出したレジュメを取り出す。
「・・・一度、目は通したが・・・・・・・・・」
そう言って、パラパラと目を通していく。
「論外だ!」
「は!?」
久美はあまりの評価に驚く。
周りにいる同期のメンバーがクスクスと笑った。
「ど、どういう――」
「まず、結論ありき・・・」
そう言って、手に持ってたレジュメを、机の上に「バサッ」と投げ落とし、続ける。
「検証も立証も何もかも不十分。
結論に向かって、論理を書いているだけだな。
こんなレジュメを読むのは、はっきり言って時間の無駄だ。
何をもって、こんなものを書いたんだ?
思いつきか?」
「ツッ・・・思いつきなどでは・・・・・・」
「では、何をやったんだ? 何を見つけたんだ? その作業工程は? 再現性は?
この添付画像はなんだ? ネットから拾ってきたのか?
いいか、こんな物に私が『いい!』と言うとでも思ったのか?
こんないい加減な物を私が推奨して、今後もこの研究を続けさせてみろ、
はっきり言って、学会で笑われてしまうわ!!」
小田切にメチャクチャに言われ、久美は唇を噛み、強く握りしめた手がブルブルと震えた。
「安永くん、君のレジュメは、嘘を並べ立てて博士号をかすめ取った女のやり方にそっくりだ。
昨今のAIを使った論文や、データ捏造、論文撤回――そうした不誠実な仕事は、学会全体の信用を傷つける。
皆も気をつけろよ。
そんなものに私は名前を貸さんし、発表もさせんからな!」
「わかってまーす。」
「了解でーす。」
「ははは・・・ダサー」「いつも偉そうにしてアレかよ」
ザワザワと研究室内が騒めくなか、同期のメンバーの笑いが“クスクス…”とこぼれた。
全員が研究室を後にする中、久美はその場に立ち尽くしていた。
うな垂れ、長い髪が床へ向かって真っすぐと伸び、表情が見えない。
だが、握り締めたこぶしが、肩が、フルフルと震えていた。
「どいつも、こいつも・・・バカにしやがって・・・クソが!!」




