圧の中心
3年生の時間は過ぎるのが早い。
ついこの前まで夏の暑さに文句を言っていたはずなのに、気づけば朝夕の風は冷たく、空気の色まで変わっていた。
すでに9月は終わりを告げ、10月を迎えようとしていた。
校庭の木々は少しずつ色づき始め、夕方になると影が長く伸びる。
季節が確実に前へ進んでいることを、誰もが肌で感じていた。
高校では放課後の補習授業が増え、進学希望の学生たちはひしひしとタイムリミットを感じている。
教室の明かりは日が暮れても消えず、赤ペンの音とため息だけが静かに積み重なっていく。
「あと少し」「まだ間に合う」――そんな言葉が、毎日のように心の中で反芻されていた。
―――口加高校 3-A
そんな中、藤堂は不思議な圧に耐えつつ日々を過ごしていた。
トップ3が消えたことで1位になったという経緯はあるが、その圧にも動じず集中力を増して机に向かう。
だが、たまに机に曲がった腰を伸ばし、窓の外を見つめた。
秋が深まるにつれ、遠くに見える長崎半島の先端がくっきりと見えていた。
(今日も・・・いつもと変わらない・・・やることは同じだ・・・
しかし・・・この圧はなんだ?
夏休み前からずっと感じるこの圧・・・・・・)
藤堂は天井を見上げ、ゆっくりと前方の窓際から廊下側、そして廊下の後方へと視線を動かしていく。
(いつだったか・・・・・・ああ・・・そうだ、門畑良平君が消えた日からだ・・・
あの日・・・安永久美さんから見られてから、こんな日が続いている気がする・・・・・・
監視されているような・・・プレッシャーみたいな・・・)
シャーペンを握る手に汗がにじんでいる。
空調はいつも通り動いている。 なのに、汗がにじんだ。
ふう~~~~・・・
大きく息を吐いて、心を落ち着かせた。
(……この藤堂智久という男……大したものだな……)
――― 3-B
カツカツカカッカツカツ……
教室内に、黒板を殴るかのような勢いでチョークを走らせる教員の音が響く。
その教室の廊下側、後ろから3つめの席に、一人の女生徒が教員の書き殴る黒板をジッと見つめている。
机の横に置かれた鞄には、フルートのケースが覗いていた。
彼女は吹奏楽部に所属し、夏休みのコンクールで引退となり受験モードに入ったが、
最後の文化祭で、3年生の集大成として演奏を控えている。
前の女生徒が振り返って尋ねる。
「ねえ、ヒナ~、ここ意味が分からない。 どういうこと?」
差し出された問題集を覗き込み、「木下陽菜乃」は屈託のない笑顔でシャープペンシルを走らせた。
「化学反応式の係数? 丸暗記はもったいないよ。
左側(反応物)と右側(生成物)の原子の数をパズルみたいに合わせるだけだから。
例えばメタノールの燃焼反応なら・・・
CH3OH + O2 → CO2 + H2O
1. 一番複雑そうな分子(CH3OH)を『1』と仮定する。
2. 炭素(C)が『1』だから、右側のCO2も『1』。
3. 水素(H)が『4』だから、右側のH2Oは『2』になるよね。
4. 最後に酸素(O)を数えると、右側は合計で『4個』。
5. 左側も『4個』にするには、O2を『1.5倍(3/2)』にすればいい。
最後に全部を2倍して整えれば完成。 2 : 3 → 2 : 4
ね? 覚えるより、その場で作っちゃう方が楽だよ」
「おお~、さすが薬学部志望・・・」
「分からないことあったら、また聞いて。」
「サンキュー!」
女生徒はそう言って、自分の机に向きなおした。
木下は、黒板へと視線を戻す。
教員がノートを見ながら、黒板へガツガツと書き写している。
木下の顔が「あっ」という表情となった。
「先生、そこ間違ってます!」
書き写すチョークの音が止まる。
「ん? ・・・・・・」
教員はノートと黒板を見比べた。
「ああ、ここか・・・助かる、木下。」
そう言うと、教員は化学式の数字を指でこすって消し、白く痕が残る場所に新たに正しい数字を書き込んだ。
教室が少しザワザワとした。
教員は一度黒板から生徒側へ向きなおし、生徒たちに伝える。
「すまん、すまん! お前たちも書き写すだけじゃなく、式の意味を理解していけよ~」
「いやいや、木下さんには出来るかもしれんけど、オレの頭じゃ無理~」
教室に少しだが笑いが漏れた。
学校に漂う圧が、生徒に笑う余裕を与えない。
(………フッ…面白い……)
そんな中、木下が不思議な顔をした。
そして、教室をきょろきょろと確認するように首を左右に振って見まわす。
(あれ?・・・急に気持ちが軽くなった・・・)
先ほど質問してきた女生徒の背中をたたく。
女生徒が振り返って言う。
「言っとくけど、ヒナが分からないことは分からないよ。」
それを聞いて、木下は笑う。
「ちがうよ・・・ねえ、なんかいつもの空気が変わった気がしない?」
「いつもの空気って?」
「ほら、なんか押しつぶすような空気感。」
女生徒の顔が歪む。
そして、不満そうな声でしゃべる。
「ああ・・・この嫌な感じのことね・・・ホント嫌よね・・・」
「え? 今も感じる?」
「感じるわよ・・・学校にいる間、ず~っとこの空気じゃない・・・
早く授業終わらせてほしい・・・帰りたいわ。」
そう言って、女生徒は顔を戻した。
木下はもう一度他の生徒を見まわして、様子を伺う。
他の生徒は、授業に集中しているようだが、なにかに恐怖しているような表情をしている。
(・・・もしかして・・・私だけ・・・なの・・・?)
木下は、軽くなった自分の体を再確認し、不思議な顔をした。
――― 3-D
久美は一番後ろの席で、鼻歌を歌うように授業を受けている。
他の生徒たちは、皆同様に圧に苦しそうな顔をたたえている。
その姿は対照的だった。
余裕のように見えるその授業態度が、隣の男子生徒をイラつかせる。
チラチラと久美を流し目で確認する。
それに気づいた久美が隣を向いて尋ねる。
「何かしら?」
「ずいぶんと余裕・・・この空気平気なのかよ?」
「空気? なにそれ?」
久美は人差し指に長い髪を巻き付けながら尋ねた。
「この空気感だよ。 わからないのか?」
「?? わからないけど~・・・
だからって、その脂ぎった顔で睨まないでくれる?」
「んだと!?」
声が大きくなり、教師が気づいて顔を上げる。
「おい、後ろ!! 何しゃべっとる!! 授業に集中せんか!!」
「は~~~い。」
「す、すみません・・・」
その声で教師は再び授業へ戻る。
(安永のやつ、最近、授業態度が軽くなった・・・? いや、他が重くなってるのか?)
教師はエアコンの吹き出し口を見あげる。
(・・・・・・エアコン動いているよな?)
壁にあるエアコンの操作パネルを見る。
【冷房(25度)】と設定されている。
(なんなんだ、この暑さ・・・いや・・・これは暑さじゃない・・・のか・・・?)
教師は額にあふれる汗をシャツの肩口で拭う。
拭った後、生徒たちに目を配る。
右手の奥に、何かがいる気配を感じる。
「えっ?」
その気配を確かめる。
そこには久美が、こちらを見ていただけだった。
「先生、なにか?」
「い、いや・・・なんでもない・・・」
ドッ…ドッ…ドッ…
教師の動悸があがっていく。
(な、なんだ・・・今笑っていたような・・・)
動悸が収まらない。
胸を押さえて苦しくなってくる。
教師の授業が止まり、生徒が尋ねる。
「せんせい・・・どがんかしたとですか?」
「す、すまん・・・ちょっと体調が悪くなった。
水分補給してくるんで・・・しばらく自習しておいてくれ・・・」
そう言って、教師は逃げ出すように3-Dを出て行った。




