8 開始
レフリーが試合前の確認をしていく。まずは燐から。彼女バンテージを巻いた拳や、それにシューズを履いた足などを念入りにチェックする。次に美和の方を向く。美和は素手の腕、裸足の足を上げたり下げたりして、レフリーに確認させていた。
レフリーがOKのサインを出すと、美和は一歩下がると、軽く腕を動かしたり、飛び跳ねたりしていた。動きやすくなった身体を試しているようだ。
「始め!」
ゴングが鳴る。美和が一礼した。燐はそれに答えずに、猛然とダッシュした。勢いよく踏み込んだ燐の足が、美和の裸足をかすめるように踏みつけた。
「あぐっ……!」
不意を衝かれた美和が思わず顔をしかめる。その隙を逃さず、燐は攻撃に入った。先制をとられた美和は受け手に回るしかなかった。燐は、あふれる闘志と怒りを美和にぶつける。
「これが格闘技だ! これが闘いだ! 茶会じゃねえんだよ!」
燐の声がリングに響く。蹴りが美和のわき腹をえぐり、パンチが肩を打つ。美和は防戦一方で、なんとかガードを固めようとするが、燐の勢いを止められない。
「うっ……!」
美和の口から苦悶の声が漏れる。
「どうした! その程度か! 王者を倒したんだろうが!」
燐は止まらない。美和を押し込めるように前進しながら、体重を乗せた連打を浴びせ続けた。ステップワークを使いながらの素早いコンビネーションだ。肩から肘、そして拳へと力が伝わり、一発一発が重く響く。
美和はジリジリと後退していく。顔には苦痛の色が浮かんでいた。それでも防御は崩さない。両腕をしっかり構え、最小限の動きで被弾を避けようと努めている。だが、完全に防ぎきることは不可能だった。燐の容赦ない連打がじわじわと効いてきていた。
「どうした! 着物も髪飾りも、リングの上じゃ通用しないんだよ! 最後はこうして、自分の身体一つで勝負するしかないんだ!」
燐は嗤う。その言葉通り、美和の美しい水着姿は既に汗に濡れ始めていた。長い黒髪も大きく乱れ、こめかみを伝った汗が頬へ流れ落ちる。それまでの余裕は影を潜め、明らかな疲労の色が顔に浮かんでいた。
「ハァ……ハァ……」
美和は浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか態勢を立て直そうと足を踏ん張る。しかし、燐の勢いは衰えない。美和がふらついた隙を逃さず、燐はロープ際に追い詰める。
「終わりだ!」
燐は短く叫ぶと、左のボディブローを狙いすました一撃を見舞った。
「うっ……!」
美和が苦悶の声を漏らす。反射的に動きの止まった美和を見て燐は腰に組み付くと、そのまま持ち上げて投げ飛ばす。
「ぐはっ!?」
美和の口から肺の空気が抜け落ちる。
その勢いに乗じて燐は巧みにキャメルクラッチへと移行した。
捕まえた。美和の身体が大きく反り返る。首と背中に負荷が集中する。逃げ場はない。
「ぐうぅ……あぁ……」
美和が呻き声を上げる。耐えきれずのけ反りながら喘ぐ姿は、さすがに堪えているとしか言いようがない。額には玉のような汗が浮かんでいる。美和は反り返ろうとするが力任せで反対方向へ引っ張られるのでその度に悲鳴を上げてしまう。
「ううあっ!!……あっ……」
さらに抵抗しようとするも上手く行かず苦しげな吐息だけが漏れ続けた。明らかに苦痛の色を浮かべる美和を見て、燐はさらに力を込めた。
「どうした! ギブアップしろ!」
しかし美和は苦痛に顔をゆがませつつ首を振る。
燐はさらに締め上げる。またも首を振る。そして息も絶え絶えになりながら言った。
「ノ……ノー……ギブアップなんて……」
美和の声は掠れて聞き取りにくかったが確かに拒否していることがわかる。それにしてもここまでされてなお粘るのはかなり精神力があるといってもいいだろう。燐はその根性に驚きを覚えながらもさらに力を込めていった。
「もう終わりだ! 降参しろ!」
さらに一層強烈な圧力が加わったことで今度こそ完全に折れてしまうと思われた瞬間だった。
「…あっ」
一瞬、身体から力が抜けるのを感じた。落ちた。そう思った。
しかし、次の瞬間、美和の身体がしなやかに捻れ、燐の腕の拘束から逃れていく。
「な……!」
驚く燐の重心がわずかに浮いた。その一瞬の隙を、美和は見逃さなかった。
「っ!」
気合いとともに、美和は燐の身体を押し倒す。マットに背中を打ちつけられ、燐はすぐさま立ち上がった。美和も素早く距離を取る。
二人は再び構え合った。さっきまで苦痛に歪んでいた美和の表情が、一変している。
穏やかな微笑みは消えていた。代わりに浮かんでいるのは、研ぎ澄まされた刃のような鋭さ。その瞳は、燐をじっと見据えている。
(この目……)
燐は息を呑んだ。
これは、遊びで格闘技をしている人間の目ではない。幾度も人を叩きのめし、勝ち抜いてきた者の目だ。
(やはりこいつは、王者を倒した女だ。侮れる相手ではない……!)




