7 解き放たれた闘士
リングアナウンサーがマイクを握りしめる。高らかな声が会場を切り裂く。
「只今から―、藤崎燐VS桜井美和、時間無制限一本勝負を行います―!」
燐、美和、それぞれのコーナーから、ゴングを待つように控えている。
「赤コーナー。ふじさきー、りーんー!」
燐はリング中央に進み出ると、拳を握りしめて天に向かって突き上げる。鋭い眼光が、リングを射抜く。燐は全身から闘志をみなぎらせて、この時を待っていた。
「青コーナー。さくらぃ、みわー!」
一方、美和は落ち着いた表情で前に出て、そして頭を下げる。
「よろしくお願いします」
美和の声が響く。
「おい、お前、まさか、そんなひらひらした格好で闘うつもりか!?」
燐はそう言うと、誇らしそうに自分の腕を掲げて見せた。凛々しい筋肉が隆起している。黒のスポーツブラに包まれた胸も豊かに揺れている。黒のショーツがその健康的な肉体をぴったりと包み込んでいた。
美和は淡々と答える。
美和の声は静かだったが、はっきりとしていた。
「いいえ。そんなわけありませんよ」
その声は静かだったが、はっきりとしていた。燐は思わず身を乗り出す。
「試合に向けて準備はしていますので」
美和は微笑むと、リングの片隅に行き、まずは草履を脱ぎ始めた。
その動作は緩やかだが、どこか流れるような優雅さがある。まるで舞踊の一節のように自然で、美しい。
「……」
燐は息を呑んだ。
草履が床に落ちる乾いた音がしたかと思うと、次に美和は和服の袴の紐を解きはじめる。
衣擦れの音が静寂の中に響いた。
美和の身体がわずかに沈む。膝を曲げるようにしてしゃがみ込み、腰にまとわりついていた着物の裾が滑り落ちる。足首が露わになり、それから素足が徐々に現れる。
そこまでは着替えのための動きと思えたが、次の行動に観衆がざわめいた。
美和は右手を頭に伸ばす。髪飾りを外したのだ。桜の模様をあしらったそれは、音もなくリング上に転がった。
その途端――
黒髪がふわりと宙を舞う。
艶のある長い髪が重力に逆らい、解放されて大きく広がった。
美和は左腕で髪を押さえつつ立ち上がりながら、額にかかる前髪を払う。濡れたように光る黒髪が陽光に輝きながら流れていくさまは、一幅の絵画のようだった。
肩越しに垂れた髪が背中の曲線をなぞる。その仕草一つひとつに、計算された美しさがあった。
そして次は帯だ。
腰に巻かれた太い帯の結び目に手がかかり――
しゅるっ
布地が解かれる音とともに、一気に帯がほどかれる。
緩んだ隙間から和服が割れて――
下から現れたのは、淡い紫色の友禅染めのハイレグワンピース水着だった。
白い肌に映える紫の布地には、繊細な桜模様が散りばめられている。その意匠は上品で華やかだったが、包み込んでいる身体はまったく別の印象を与えていた。
肩から腕、腹部、腰、そして脚へ。
全身に無駄な脂肪はほとんどなく、しなやかな筋肉が均整の取れた輪郭を描いている。
美和はゆっくりと姿勢を正した。
長い黒髪が背中を流れ落ちる。
わずかに背を反らすだけで、鎖骨から肩へ続く線が鮮明に浮かび上がり、呼吸に合わせて胸元が静かに上下する。
腰をひねれば、水着越しにも鍛え上げられた体幹の強さが伝わってくる。
それは単なる美しさではなかった。
長年の鍛錬によって磨き上げられた格闘家の身体。
柔らかさと強さを同時に備えた、完成された戦士の肉体だった。
美和は足元に落ちた和服から静かに離れる。
先ほどまで花見に向かう淑女のようだった人物が、今はリングの中央へ歩み出ている。その変化は劇的でありながら、不思議なほど自然だった。まるで最初からそこに存在していた本来の姿が現れただけのように。
燐は思わず息を呑む。目の前の光景を理解しようとしても、思考が追いつかない。
(これが……桜井美和)
和装の女性と、今目の前にいる闘士。本来なら結びつくはずのない二つの姿が、一人の人間の中で矛盾なく共存している。
その事実だけが、燐の胸に強い違和感として残った。
「お待たせしました、藤崎さん。これで心置きなくお相手できますね」
その言葉は洗練されており、少しも隙がなかった。
「最初からその姿で来ればよかったんだ」
燐は冷笑する。
「少なくとも今は、格闘家に見える」
「ありがとうございます。藤崎さんが納得してくださってよかったです」
美和の声は変わらず落ち着いた調子だ。
燐は改めて美和の全身を眺めた。
今、目の前にいるのは、自分と同じくリングの上で勝負を挑む一人の格闘家だった。
見かけ倒しではない。むしろ、長年の経験を積んだ選手特有の落ち着きさえ感じられる。
だが、それで何だというのだ。そんなものは格闘家なら持っていて当たり前だ。
茶を点てる。子供を連れてくる。お汁粉の約束をする。試合を前にしてそんなことをする人間が、自分と同じ場所に立っているのが許せない。燐の胸の奥で燻っていた苛立ちが、一気に燃え上がる。
(叩き潰す)
(この女だけは、絶対に認めない)




