6 対戦の前の儀式
「何をしているんだ?」
燐は唖然としていた。美和は、和服の袖を抑えながらゆっくりとした動作で、敷物の上の敷居に座り込む。美和が手招きすると、少女は岡持ちから茶道具を取り出して、湯飲みと急須に茶葉と茶菓子を順々に並べていく。
リングの上は即席の茶会の場に変わってしまった。
美和はゆっくりと茶碗に湯を注ぐ。
その動作は、まるでこの場が試合会場であることを忘れさせるほど静かで、優雅だった。湯気が立ち上り、白梅の香りがリングに広がる。藤崎燐は、その様子を赤コーナーからじっと見つめていた。左手のグローブが、かすかに震えている。苛立ちだっていた。
「藤崎燐さんですね。今回はお招きいただきありがとうございます。あなたとこうして向き合えること、心から嬉しく思います。よろしければ、いかがですか」
美和はそう言うと、湯飲みに茶を注ぎ、燐の方へと差し出した。姪の由香も、緊張した面持ちで燐を見上げている。小さな手に茶菓子の皿を捧げ持っていた。
燐は答えない。ただ、その茶椀をじっと見据えている。試合前の茶会。そんなものを開く格闘家がどこにいる。試合は闘いだ。もてなしなど必要ない。自分は美和のもてなしを受けるためにここに来たのではない。倒すために来たのだ。
「……いらない」
絞り出すような声だった。
「そうですか」
美和は静かに茶椀を引くと、そのまま自分の口へと運んだ。一口含み、ゆっくりと味わう。そして小さく微笑んだ。
「結構なお茶ですわ。由香が選んでくれる茶葉はいつもいいものばかりで」
褒められた少女は、照れたようにうつむいた。
その光景が、燐の神経をさらに逆撫でする。茶葉がどうとか、そんなことはどうでもいい。ここは闘いの場だ。自分は戦いに来ている。なのに、この女はまるで花見にでも来ているかのようだ。
「あんた……」
燐の声は低く、震えていた。
「何しに来たんだ。ここは、闘う場所だぞ」
美和はゆっくりと燐に向き直る。その目は穏やかだったが、同時に、深いところで何かが光っているようにも見えた。
「ええ。そうですよ」
「だったら……!」
「だからこそ、こうしてあなたと向き合っているのです」
美和の声はあくまでも静かだ。しかし、その静けさが、かえって燐の感情を逆なでする。燐は唇を噛みしめた。この余裕。この態度。すべてが腹立たしい。
しかし、美和はそんな燐のことはまるで気にかけていないかのようだ。丁寧に茶道具をしまい終えると、立ち上がる。そして、穏やかな微笑みを浮かべたまま、少女に告げた。
「由香ちゃん、すみませんが、これを外に持っていてもらえますか?」
少女は黙って頷き、畳まれた赤い敷物と茶道具の入った岡持ちを持ち上げた。その小さな身体には少々荷が重そうだが、一生懸命に持ち上げると、リングの外へと向かっていく。
「お姉ちゃん、終わったらお汁粉、食べに行こうね」
「そうね」
美和の声は優しかった。
「ありがとう、由香ちゃん」
「うん!」
少女は満面の笑みを浮かべ、軽やかな足取りで退場口へと消えていった。
リングの上には、美和一人が残された。
燐は、その一連のやり取りを黙って見ていた。茶会、少女とのやり取り、そして茶道具の片付け。一連の時間が燐には長く感じられた。ここは闘いの場のはずだ。なのに、この女はまるで日常を過ごしているかのようだった。本当にこの女が、前の王者を倒したというのだろうか。
「藤崎さん。改めまして、桜井美和と申します。本日はお互い、良き試合となるよう、どうぞよろしくお願いいたします」
美和は静かに頭を下げた。燐はその礼儀正しさに、一瞬戸惑った。だがすぐに眉を寄せる。
「そんな悠長なこと言ってる場合か」
燐は吐き捨てるようにつぶやいた。




