第19話 原価ゼロの価格競争
職人街の改革からさらに数週間。
魔界大街道を通って毎日ピストン輸送される格安の素材により、黒鉄ブランドの包丁や農具は、恐ろしい勢いで商業都市の市場を席巻していった。
日銭という名の現金収入を完全に奪われ、喉元に刃を突きつけられた形となった悪徳大商会。
だが、人間界の市場を長年支配してきた巨頭も、ただ黙って滅びを待つタマではなかった。
彼らはついに、資金力に物を言わせた、なりふり構わない「禁手」を仕掛けてきたのだ。
ある朝、宿場町の中央物流倉庫に、職人街の頑固親父――あの親方が、血相を変えて飛び込んできた。
「ダ、ダイスケの旦那! 大変だ、とんでもねえことになっちまった!」
「おや、親方。そんなに慌ててどうしたんだい?
朝の定期配送の馬車なら、もうすぐそっちの広場に着く頃だけど」
僕が手帳を開いたまま穏やかに尋ねると、親方は机に両手を叩きつけ、髪をかきむしった。
「配送どころじゃねえんだよ!
大商会の奴ら、うちの黒鉄ブランドの製品の、さらに『半額』の値段で、自分たちの倉庫に眠ってた包丁や農具を市場に一斉にバラ撒き始めやがったんだ!」
「……ほう」
僕の背後に控えていたバルトロが、その言葉に太い眉をピクリと動かした。
親方はガタガタと唇を震わせながら、悲鳴のような声を上げる。
「あんな無茶苦茶な安値、うちの工房が合わせたら一瞬で大赤字だ!
かと言って、うちが今の価格のままでいたら、街の連中はみんな大商会の安い道具ばかり買っちまう!
旦那、せっかく立ち上げた分業ラインが、一瞬で在庫の山になっちまうぞ……!」
なるほど。既存の競合他社が、圧倒的な手元資金を切り崩して新規参入者を圧殺しにくる、典型的な「不当廉売」だ。
先に相手の体力を削りきって倒産させ、市場から追い出した後に、再び価格を釣り上げて損失を回収する。
実にお目にかかり慣れた、大手企業の強者の戦術である。
「おのれ大商会、どこまでも汚い真似を……!」
バルトロが怒りに任せて拳を握り締め、僕の顔を覗き込んできた。
「ダイスケ殿! 我が軍も魔王城の本社から緊急予算を引っ張り出そう。
さらにその半額の値段をぶつけて、あの生意気な人間どもを叩き潰すべきでは!?
資金力勝負なら、我が魔王軍も引けは取らんぞ!」
血気盛んなバルトロの主戦論。
しかし、僕は手帳に万年筆を走らせたまま、冷淡にそれを却下した。
「バルトロさん、焦って一緒にその値下げ競争に飛び込むなんて、三流の経営者がやることだよ。
親方、うちの価格は全く下げなくていいです」
「な、なんだって……!?
正気か旦那! 価格を下げなきゃ、うちの道具は一つも売れなくなるんだぞ!?」
「売れなくて結構。
それどころか親方、今のうちに職人たちを総動員して、できるだけ製品を増産し続けてください。
作れば作るだけ、うちが全額で買い取りますから」
僕の突拍子もない指示に、親方だけでなく、バルトロまでもが「正気か!?」と言わんばかりに目を丸くした。
僕は万年筆のキャップをパチンと閉め、手帳をポケットに収めて不敵に笑った。
「いいですか、バルトロさん。
大商会が赤字覚悟で市場に出したその安い道具。
一般の市民に売らせる前に、うちの支配下の王都ギルドを使って、市場にある分を全て買い占めてください」
「……へ? 買い占める、だと?」
「そうさ。大商会はね、高い材料費と余計な中間マージンを上乗せした状態で、意地を張って半額で売っている。
つまり、彼らは製品が売れるごとに、巨額の現金を自らドブに捨てている状態なんだ。
そんな美味しい商品を、見過ごす手はないだろう?」
僕はホワイトボード代わりの羊皮紙に、簡単な物流の図を描いてみせた。
「僕たちが大商会の安売り製品を全て買い占めれば、彼らの金庫からは凄まじいスピードで現金が溶けていく。
一方で、魔王軍には本来の価値より遥かに安い値段で、職人が作った高品質な鉄製品が、大量に手に入ることになる」
「し、しかしダイスケ殿、買い占めた大商会の道具をどうするのだ?
我が軍の倉庫が彼らの製品で溢れかえってしまうぞ」
「バルトロさん、僕たちが作ったこの頑丈な大街道の価値を忘れたのかい?」
僕は窓の外、人間界へ物資を届け終え、空になって魔界へと戻ろうとしている定期便の馬車を指さした。
「大商会から買い占めた大量の道具はね、大街道の戻り便(空の馬車)に乗せて、そのまま魔界のクロムの工房へ逆流させるのさ。
サイクロプスたちがわざわざ鉱山で掘る手間すら省けた、不純物のない最高級の『精錬済み鉄資源』としてね。
それを一瞬で溶かして、次の製品の原材料にリサイクルするんだよ」
「な……ッ!!」
バルトロは言葉を失い、親方は顎が外れそうなほど驚愕して硬直した。
大商会は、自分たちの血を流して作った現金(製品)で、知らず知らずのうちに「魔王軍の次の原材料」をせっせと仕送りさせられているのだ。
価格競争を挑んだはずが、相手のサプライチェーンの一部として、一番重労働な精錬工程を無料で肩代わりさせられているに等しい。
サイクロプスによる原材料費ほぼゼロの生産体制と、大街道による爆速の往復ピストン輸送。
この二つが揃っているからこそ成立する、原価概念の崩壊したデス・ループ。
「大商会は、売っても売っても黒鉄ブランドが倒産しないどころか、市場から一瞬で製品が消えていく恐怖に怯えることになる。
そして、手元の運転資金が完全に底をついた瞬間……彼らは勝手に内側から破産するよ」
僕は親方の肩を叩き、優しく微笑みかけた。
「親方、競合他社が自らの血を流して、うちの次の原材料を安く供給してくれているんだ。
こんなにありがたいお中元はないよ。
職人のみんなには、ボーナスをはずむから、安心してジャンジャン鉄を叩いてくれと伝えてください」
「あ、あ、ああ……分かった、旦那!
職人のみんなに、全力で増産しろって伝えてくる!」
親方は、恐怖と、それ以上の圧倒的な歓喜を顔に浮かべ、脱兎の如く工房へと走っていった。
◇
それから一ヶ月後。
大街道の宿場町には、人間界のフロント企業から「大商会の金庫が完全に空になり、不渡りを出して倒産した」という一報が届いていた。
バルトロは、魔界へ逆流してきてピカピカのインゴット(鉄塊)へと再生された元・大商会の製品を見つめ、心底恐ろしいものを見る目で僕を振り返った。
「ダイスケ殿……本当に、武力を一兵たりとも動かさずに、都市最大の巨頭の息の根を止めてしまったな。
金庫の底を抜くとは、こういうことか……」
「焦って身の丈に合わない値下げ競争を仕掛けてくるからさ。
お疲れ様、大商会。良い原材料をありがとう」
僕は満足して手帳をポケットに収め、ふっと冷徹に笑ってみせた。
邪魔な既存権益は完全に消滅した。
大街道の物流網の終着点であるあの商業都市は今、完全に首謀者を失い、経済の空白地帯となっている。
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