第11話 裏付けなき延命措置の末路
あの雨の夜、ゴードン先生を頼って人間の農民たちが数千人規模で魔界へ集団転職してきてから、3ヶ月の月日が流れた。
黒鉄の砦の外に広がる広大な開墾地。
そこには、ゴードン先生と農民たちが手塩にかけて育てた大麦が、見事な黄金色の穂を実らせていた。
「ピギャ!」
「ピギィ!」
交代制でいつも元気なゴブリンたちが、楽しそうに大麦の収穫を手伝っている。
その後ろでは、オークたちが台車を押して、刈り取られた大麦を物流センターへと爆速で運んでいく。
魔王軍の食料完全自給自足の進捗は、極めて順調だった。
司令部の執務室。
僕は窓の外の豊かな収穫風景を眺めながら、使い慣れた万年筆で手帳にチェックを入れていた。
「ダイスケ殿」
バルトロが、不思議そうに首を傾げながら僕のデスクに歩み寄ってきた。
「どうしたんだい、バルトロさん」
「人間の農家を丸ごと引き抜いてから、あれから3ヶ月。
我が軍の収穫は上々だ。だが、少し奇妙なのだ」
「何がだい?」
「農民を失った王都だが、未だに暴動が起きたという報告が入らん。
それどころか、残った優秀な上位冒険者たちも、ギルドを辞めずに真面目に働いているようなのだ。
人間どもは飢えに強いのだろうか?」
「まさか。人間だってご飯を食べなきゃ死んでしまうよ」
僕は王都のギルドのガバナンスがどうなっているかの報告書をバルトロに見せた。
「あのギルド長、残った優秀な上位冒険者たちを引き止めるために、特別な『待遇改善』をしたらしいんだ」
「待遇改善? あのケチな侯爵が、冒険者の給料を上げたというのか?」
「そう。ギルドの独自通貨である達成ポイントの報酬を、これまでの五倍に跳ね上げたのさ」
「ご、五倍だと!? そんな莫大な大金、どこから出ているのだ?
ギルドの金庫はすでに財政難のはずだろう」
「お金なんて一銅貨も使っていないよ、バルトロさん。
ただの紙切れだ。あるいは、ただの『数字』さ」
「どういう意味だ?」
「いいかい。少し前に僕たちは王都の雑用をこなす下位冒険者を引き抜いた。
街のドブさらいや薬草の入荷がストップしたね?」
「うむ。街の機能がマヒしたと聞いた」
「さらにその直後、僕たちはゴードン先生を頼ってきた農民たちを丸ごと引き抜いた。
今年の王国の小麦の収穫量は大幅に減ったね?」
「うむ。バルトロの報告でも、大飢饉は確実だとあった」
「つまり、今の王都には物資も食料も、以前の何分の一に激減している状態なんだ。現場の生産物が、圧倒的に足りていない」
「そうだな。それは分かる」
「なのに、あのギルド長は、手元に残った上位冒険者へのポイントだけを五倍に増やしたんだ。
労働者も食料も減っているのに、組織の中に出回るお金の数字だけを増やして、その場を誤魔化したのさ」
「……? 報酬の数字が増えたなら、冒険者たちは喜ぶのではないか?
欲しいものが買えるだろう」
「最初の1ヶ月はね。でも、裏付けのない通貨をいくら刷り続けたところで、組織の寿命が縮むだけなんだよ。歴史が、それを何度も証明している」
バン! と勢いよく執務室のドアが開いた。
王都の諜報網から戻ったばかりの闇商人ガラムが、顔を真っ青にして滑り込んでくる。
その額からは、滝のような冷や汗が流れていた。
「ダ、ダイスケさん! ついに、ついに限界が来やがったぞ!」
「おや、ガラムさん。ちょうどその話をしていたところだ。予定通り、王都の市場はパニックになっているかい?」
「パニックなんて生易しいもんじゃねえ!
2ヶ月目あたりからジワジワ物価が怪しくなっていたが、今月に入って完全に爆発した!」
「物価が、爆発……?」
バルトロがますます困惑した顔になる。ガラムは激しく首を振って説明した。
「いいかバルトロ副長! 市場にはパンも薬草もねえんだ!
なのに、ギルドの最高ランクの冒険者どもが、五倍に増えたギルドのポイントを大量に持って、市場に押し寄せたんだ!」
「……あ。そうか!」
バルトロの大きな目が、ハッと見開かれた。
「手元にあるパンが一つだけで、それを欲しいという奴が百人いたら、どうなる?」
「……値段が、跳ね上がるな」
「その通りだよ、バルトロさん」
僕は万年筆の先で、デスクの上の統計グラフをトントンと叩いた。
「モノがないのに、お金の数字だけを増やしても意味がないんだ。
みんなが大量のポイントを持ち始めたから、商人の側も一斉に商品の値を上げ始めた。
結果として、通貨の信用が完全に崩壊したのさ」
「具体的には、今、王都はどうなっているんだ?」
バルトロの問いに、ガラムが引きつった笑いを浮かべて答える。
「先月まで銅貨3枚で買えたカチカチのパンの耳が、今は金貨50枚出しても買えねえ!
ギルドの発行した手形なんて、今やケツを拭く紙の価値もねえんだよ!」
「なっ! 金貨50枚で、パンの耳だと!?」
「これがハイパーインフレだよ」
僕は静かに手帳を閉じた。
「命懸けで凶暴な魔獣を倒して、大量の報酬ポイントを貰っても、街の酒場でスープ一杯すら買えないんだ。
騙されたと気づいた上位冒険者たちの怒りがどこへ向かうか、分かるよね?」
「経営陣。つまり、ギルド長か」
「その通り。今、王都のギルド本部には、ブチ切れた上位冒険者たちが武器を持って殴り込みをかけてる!
大暴動だ!
ギルドの手下どもと冒険者が街中で殺し合いを始めて、組織は完全に空中分解しちまった!」
ガラムの生々しい報告を聞き、バルトロは背筋に冷たいものが走ったかのように、戦慄した顔で僕を見つめた。
「なんということだ。奴らはこの3ヶ月間、自分で自分の首を絞める延命措置を続けて、勝手に自滅していったというのか……」
「現場を蔑ろにし、数字の帳尻だけを合わせて経営しているフリをした経営陣の、当然の自業自得さ。
バルトロさん、競合が勝手に自爆してくれるなら、わざわざこちらの手を汚して兵を動かす必要なんてなかっただろう?」
「ダイスケ殿。お前は、最初からこの結末が分かっていて、3ヶ月間も静観していたのか?」
「ビジネスの世界じゃ、足元のインフラを失った企業はこうなる運命なんだよ。
これで王都のギルドは完全に破産。優秀な上位冒険者たちも、経営トップへの信頼をゼロにした」
僕は椅子から立ち上がり、最近貰ったお気に入りの上質なコートを羽織った。
「さあ、バルトロさん。お待たせ。外堀は完璧に埋まったよ」
僕は不敵に笑ってみせた。
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