第04話 兵とは詭道なり
詭道とは、策略や騙し合いの道である。孫子の兵法において、戦争は単なる力の衝突ではなく、知恵と策略が重要な役割を果たすことを示している。詭道は孫臏の専門とも言える。相手を騙すという言葉に、日本人ならば嫌悪を示すかもしれない。しかし、戦争においては、相手を欺くことが勝利への鍵となる。減竈計略、空城の計、反間の計など、孫子の兵法には多くの詭道が記されている。相手の思考を読み、その思考をそのまま利用する。相手の欲しい情報を小出しにすれば、相手はその情報を過大評価し、誤った判断を下す。これが詭道の基本である。
ベジタリアンとは何か、と孫臏は考えたが特に答えは出ない。肉や魚を喰わないことに何か意味があるのかと問うてみたかったが、亜子は拒否した。特に理由はない。いや、実は理由はあるのかもしれないが、亜子の感情からは何も読み取れない。
亜子は、おむすびをもうひとつ食べながら言った。
「どうも、すみません。なんと、こんなことになるなんて…」
「いや、亜子さんのことだから、こんなことになるんじゃないかなぁと思って備えておいたので大丈夫ですよ。サーバー機はまあ、3つに分散させているからね。どれが欠けても大丈夫です」
「それだと無駄になりませんか?」
「いや、無駄にはなりませんよ。バックアップ用に1台、キャッシュ用に1台、メインに1台用意していますので、ここで1台倒れたとしてもすぐに復旧はできますからね。たとえ、サーバーの裏にある LAN ケーブルを切られたところで、問題はありません。さらに、1台持って行かれたとしても、あと2台が正常に動いているから、問題がでないのです。それがシステムエンジニアの仕事ですからね」
「なるほど、そういうことですか、でもたくさんのウィンドウが開いていて大変そうな気がしたんですが」
「それはですね、さっきの亜子さんが閉じたウィンドウも半分以上はダミーなんです。すべてが完全に動いているわけではありません。ちょっと仕事をしている振りをするためのウィンドウであったり、情報をちょっと表示するためのものだったり、本来はバックグラウンドで動いているのだけど、動いていることがわかるように全面でちかちかしているだけだったりと、そういうウィンドウがほとんどなのですよ」
つまりダミーウィンドウだ。ここには、開発者の身内もいれば、派遣社員もいる。さらに、顧客から派遣されてきた品質保証の社員もいる。彼は、本当に仕事をしているかどうかを監視している。隠密のようなものだ。時々、小さなメモ帳にメモをとっていることでわかる。そう鉛筆でメモをしているのでバレる。いまだったら、スマホに音声入力かフリックを使うのが普通だろう。いまどき、鉛筆でメモをとるなんて、時代遅れもいいところだ。と言いつつ、私も鉛筆でメモをとっているのだが。
亜子にサーバーの解説をしてくれたのは、システムエンジニアの曹さんである。曹さんは、私よりも年上で、40歳ぐらいだろうか。彼は、システムエンジニアとしてはベテランであり、私が入社したときにはすでにこの会社にいた。彼は、私にとっては兄貴分のような存在であり、仕事のことをいろいろと教えてくれた。曹さんは、いつも冷静であり、どんな状況でも動じない。彼のその冷静さが、システムエンジニアとしての成功の秘訣だろう。ひょっとしたら裏切りをするかもしれない。いや、それは物語の話だ。
曹は言葉を続ける。
「ひとまず、開発サーバーの復旧はできたとして、開発のスプリントはいつだったでしょうか、ええと確か」と曹は壁のカレンダーを捲りながらこう言った。
「あった、今週の末ですね。あと3日しかないけど大丈夫ですか?」
「・・・ええ、大丈夫です。進捗状態としては問題はありませんから」
と、亜子は言った。
スプリントとは何か、と孫臏は思ったが、特に答えは出ない。亜子ができると言っているのだからできるのだろう。開発プロジェクトが戦場であれば、突発的な事故は事故とは思わない。常に備えておかねばならぬ奇襲に過ぎない。奇襲も事前にわかっていれば、相手の駒に対抗するだけだ。あらかじめ用意した兵士を差し向ければよい。孫臏はできるだけあらゆる戦場を想定していてそれぞれの将軍に伝えておく。相手の思考が解れば手が読めてくる。相手が同じように指すように自軍を配置させればよい。自軍を配置させた上で、別の手を駒台に残しておけばよいのだ。
亜子は改めてモニタを眺めた。
プロジェクトの進捗状態が右下がりで示されている。普通の進捗は右上がりになるところだが、チケットやバックログのタスクを消化していくたびに下がっているグラフにしてある。バーンタウンチャートと言う。いわゆる、鎮火状態になればOKという具合だ。右上がりほど達成感はないものの、すべてのタスクが完了した、食い尽くした、燃え尽きた、という達成感はある。いや、燃え尽き症候群では困るのだが、燃え尽きるほど仕事をしたという達成感、俺は灰になったぜ、状態にもなれる。果たして、それから先にしあわせがあるかどうかは不明だが、開発プロジェクトが終われば、再び次の開発プロジェクトが始まるのである。日が沈めば、再び日が昇るのだ。
「これが進捗ぐらふですね」と曹はは言った。
「私は、この開発サーバーのメンテナンスを任されているだけなので、開発自体には関わっていないの詳しくはわからないのですが、このグラフからみると今週末がぎりぎりというところじゃないんでしょうか?」
「ええ、まあ、そうですね。ぎりぎりです。でも、なんとかなると思います」
「でも、亜子さん、先ほど過労で倒れていたし、皆さん疲労がたまっている状態じゃないでしょうか? あの差し出がましいですが」
「まあ、そうですね。疲れはいるんですが、今週末を乗り切ればなんとかなるので、倒れるというほどではないですね、私の場合はちょっと別件で寝不足のところがあったので・・・」
「なるほど、寝不足ですか。まあ、寝不足はよくないですね。睡眠は大事に」
「ありがとうございます」
周りのプログラマは、それぞれの昼食を終えて、再びモニタを食い入るように見つめていた。カタカタとしたキーボードの音だけが響く。開発が詰まっているとはいえ、土日は休んでおきたいと思うのは開発者とて同じだ。亜子も同じである。スケジュールが押していれば、ちょっとだけ昼休みに食い込んでもコードを書いておくのもやむを得ない。ここで、少しだけ我慢しておけば、土日が十分に休めるのである。場合によっては、夕方に2時間ほど残業をしたってかまわない。今週の締め切りが重要なことは皆よく知っているところだ。文句はない、だれもが一丸となってプロジェクトを成功させるために頑張っているのである。
亜子はそっと思った。大丈夫。そう大丈夫。締め切りは来週の末なのだから。
【つづく】




