スタート
気づけば、もう夕方になっていた。俺は昼飯を取ることも忘れて、ひたすら記録帳を読み漁っていた。ただ読むだけではない。実際に工房に置かれている道具を一つずつ手に取り、記録帳の説明と見比べる。
「これが金床……」
金床は鉄を置いて叩くための台。実際に手で触れてみる。
「これが鉄鎚……」
鉄鎚は鉄を叩く道具。持ち上げて、その重さを確かめる。
「火箸は……こうやって持つのか」
火箸は熱した鉄を掴む道具。
道具を手に取るたびに、昨日まで何も知らなかった自分との違いを感じた。何度も記録帳を開いては道具を触る。道具を触っては、また記録帳を読む。それを何度も繰り返した。本来、ドワーフの鍛冶師は五年ほどの時間をかけて、師の仕事を見て、真似して、身体で覚えていく。その五年分の経験を、たった一日で身につけられるはずがない。記録帳に書かれているのは、あくまで知識だ。実際に鉄を叩くのは俺自身。結局は手に伝わる感覚も、音も、熱も、全部自分で覚えなければならない。これから長い道のりになることは間違いないだろう。俺はさらに別の記録帳を開く。表紙には、簡潔にこう書かれていた。『鍛冶技術・基礎編』その文字を見ただけで、胸が高鳴る。俺は記録帳を読み進めた。最初に書かれていたのは、もっとも基本的な鍛冶だった。鉄を熱する。金床に置く。鉄鎚で叩く。そして、鉄を平らにする。
「よし、試してみるか!」
もちろん、簡単ではないことは分かっている。けれど、剣を作るわけじゃない。鎧を作るわけでもない。まずは、ただ鉄を平らにする。それが最初の一歩だった。俺は記録帳を閉じた。
「……やってみるか」
炉に火を入れる。薪に火が移り、徐々に炎が大きくなっていく。俺は記録帳を開き、手順を確認する。鉄を炉に入れる。十分に熱する。火箸で取り出す。金床へ運ぶ。そして、鉄鎚で叩く。
俺は鉄片を炉の中へ入れた。しばらく待つ。鉄の色が少しずつ変わっていく。記録帳を見る。もう少し。さらに待つ。
「……そろそろか?」
俺は火箸を握った。昨日までなら、この道具の名前すら知らなかった。だが、今日は違う。俺は記録帳に書かれていた通りに鉄を掴んだ。
「熱っ……!」
思わず手を引く。火箸を使っていても、完全に熱を感じなくなるわけではない。
「……なるほど。持ち方も重要なのか」
もう一度握り直す。今度は安定した。俺は熱せられた鉄を金床へ運び、そっと置いた。そして、鉄鎚を握る。
「……これで叩く」
記録帳には、力任せに叩くのではなく、狙った場所へ正確に打ち込むことが重要だと書かれている。俺は鉄鎚を持ち上げた。
「……いくぞ」
振り下ろす。
ガンッ!
「うわっ!」
衝撃で腕が跳ね返された。鉄鎚が思った方向へ飛んでいかない。鉄を見る。ほとんど変わっていなかった。
「……もう一回」
再び構える。今度は狙いを少し変える。振り下ろす。
ガンッ!
「……端に当たった」
鉄の端がわずかに潰れただけだった。
「難しい……」
記録帳を開く。姿勢。足の位置。鉄鎚の握り方。振り下ろす角度。狙う位置。書いてあることは理解できる。頭では分かる。なのに、身体がその通りに動かない。
「……もう一度」
鉄を炉へ戻す。熱する。取り出す。金床へ置く。叩く。
ガンッ!
ガンッ!
ガンッ!
「違う!」
思った場所に当たらない。 ようやく当たったと思えば、今度は力が足りない。力を込めれば、鉄鎚が跳ねる。鉄は少しずつ形を変えていく。けれど、思い通りにはならない。
「また熱し直しか……」
俺は鉄を炉へ戻した。そして、また待つ。熱する。叩く。失敗する。また熱する。また叩く。何度も繰り返した。最初は、ただの鉄片だった。それが少しずつ平たくなっていく。だが、厚さは均一ではない。端は歪んでいる。表面には、叩いた跡がいくつも残っている。
「……全然きれいじゃない」
俺は鉄を見つめた。これは、とても鉄板とは呼べない。ただ何度も叩かれて、形を変えただけの鉄の塊だ。それでも……。
「……もう一回」
俺は再び炉へ入れた。今度は、さっきよりも少しだけ狙いを意識する。鉄が熱くなる。取り出す。金床へ置く。そして、叩く。
ガンッ!
今度は中央に当たった。
「……!」
わずかに鉄が平らになる。もう一度。
ガンッ!
また少しだけ平らになる。さらにもう一度。
ガンッ!
叩く。熱する。叩く。
少しずつ形を整えていく。何度も何度も繰り返す。失敗するたびに記録帳を開く。姿勢を直す。 握り方を変える。叩く位置を変える。そうしているうちに、少しずつ鉄の形が整っていった。そして……。
「……できた」
俺は金床の上に置かれた鉄を見つめた。完全に綺麗というわけではない。表面にはまだ叩いた跡が残っている。端にも多少の歪みがある。それでも、最初に作ったものとは明らかに違っていた。鉄は平らになっている。薄く、広く、板状になっている。
「……鉄の板だ」
俺はそれを手に取った。ただの鉄の板。それだけだ。剣でもない。鎧でもない。ましてや、誰かに売れるようなものでもない。それでも……俺にとっては、特別なものだった。初めて、自分の手で鉄を加工した。記録帳に書かれている知識を読み、それを自分の身体で試して、失敗して、何度もやり直して。そして、最後には自分の力で形にした。
「……できた」
もう一度、呟く。自然と笑みがこぼれた。嬉しい。たった一枚の鉄板なのに、どうしようもなく嬉しかった。
「鍛冶って……こんなに面白いのか」
俺は完成した鉄板を眺めながら、そう呟いた。まだ何も始まっていない。俺はようやく、鍛冶の入口に立ったばかりだ。それでも今日、俺は初めて、自分の手で鉄を鍛えた記念すべき日になったのだ。




