町役場
女性に教えてもらった道を、俺は真っ直ぐに進んだ。そして、広場を右に曲がると……。
「あれか」
少し先に、周囲の建物とは明らかに違う建物が見えてきた。二階建ての木造建築。エメルアの町にあるほとんどの家は平屋だ。だから、二階まであるその建物は遠くからでも目立っていた。 建物の正面には大きな木製の看板が掲げられている。
『エメルア町役場』
その下には、さらに大きな文字で、
『移住希望者大歓迎!』
と書かれていた。
「……本当に歓迎してるんだな」
思わず笑ってしまう。 俺は木製の扉の前まで歩く。扉には簡素な取っ手がついている。俺はそれを握った。
ギィィ……。
少し軋んだ音を立てながら扉が開く。
「失礼します」
中へ入った。まず感じたのは、思っていたより広いということだった。外から見た建物よりも奥行きがある。一階は町役場の窓口になっているらしく、木製の机がいくつも並んでいた。壁際には書類を入れる棚。その横には町の地図らしき大きな紙が貼られている。天井には照明器具が吊るされているが、もちろんガス灯ではない。油を入れるためのランタンだった。窓から差し込む昼間の光と、ランタンの光が混ざり合っている。町役場だけあって、一般の家よりはかなり広い。それでも、ドヴァルディアの役所と比べれば驚くほど簡素だった。
町役場の仕事は、町の住民に関する手続きや管理だ。住民の登録。移住者の受け入れ。土地や家に関する手続き。税の管理。町の道路や井戸などの管理。農家や商人の届け出。困りごとの相談。そして、町で何か問題が起きたときの対応。そういった町の生活に必要な仕事を、ここで行っているのだろう。だが……。
「……」
だが……。俺は少しだけ首を傾げた。暇そうだった。木製の机に向かい、書類を書いている職員はいる。しかし、慌ただしく走り回っている者はいない。誰かが怒鳴り込んでくるわけでもなければ、窓口で手続きを待つ住民の姿もなかった。役場の中にいるのは、職員だけだった。一階には六人の職員がいた。女性が二人、男性が四人。全員が木製の机に座り、それぞれの仕事を進めている。中には書類をめくりながら、のんびりとペンを動かしている者もいた。窓口にも人影はない。誰かが訪れるのを待っているのか、それとも今はたまたま来客がないだけなのか。少なくとも、俺の目には、町役場はずいぶんとのんびりした場所に見えた。そんな静かな役場の中に、俺が入ってきた。
すると……。
「おっ!」
入口に一番近い机に座っていた男性が、こちらに気づいた。五十歳くらいだろうか。少しふっくらとした体型で、腹も出ている。髪は茶色に白髪が混じり、丸い顔には人の良さそうな笑みが浮かんでいた。役場の職員らしい簡素な服装だが、どこか親しみやすい雰囲気がある。男性は椅子から立ち上がると、明るい声を響かせた。
「いらっしゃい! どのようなご用件でしょうか!」
元気な声に、他の職員たちもこちらを見る。俺は少し緊張しながら答えた。
「すみません。僕、この町に移住したいんですけど……」
「……え?」
男性の動きが止まった。次の瞬間。
「移住希望者ですか!?」
「はい」
「本当ですか!?」
男性の声がさらに大きくなった。周囲の職員たちも一斉に顔を上げる。
「移住者?」
「若い人じゃないか」
「本当に?」
小さなざわめきが広がっていく。男性は俺の前まで駆け寄ってきた。
「いやぁ! ようこそエメルアへ!」
まるで久しぶりに大切な客が来たかのような喜びようだった。
「ありがとうございます」
「これは嬉しい! 若い人が来てくれるなんて、いつ以来だろう!」
男性は嬉しそうに俺の肩を叩いた。少し力が強い。
「それにしても……君、若いのにガタイがいいね!」
「あ、ありがとうございます」
「いやぁ、助かるよ!」
男性は満面の笑みを浮かべる。
「私は普段、住民登録や税の書類なんかを担当しているんだが、移住者の受付も兼任しているんだ。最近は移住者なんてほとんど来ないからね!僕の名はギルバートだ。よろしく!」
「よろしくお願いします」
「それじゃあ、すぐに町長をお呼びします!」
「町長?」
「もちろん!」
ギルバートと名乗った男性は、まるで大事件でも起きたかのように張り切っていた。
「こんな若い移住者を、町長が直接迎えないわけにはいかない!」
そう言うと、彼は二階へ続く階段を指差した。
「町長室は二階です。すぐ呼んできますから、少々お待ちください!」
「はい」
ギルバートが階段を上っていく。その直後、一人の女性職員が俺のところへ歩いてきた。二十代前半くらいだろうか。長い茶色の髪を後ろでまとめ、清潔感のある服装をしている。整った顔立ちで、笑顔がよく似合う女性だった。
「こちらへどうぞ」
彼女は近くの椅子を指した。
「立ったままでは疲れるでしょうから、こちらにお掛けになってください」
「ありがとうございます」
俺は言われるまま椅子に腰を下ろした。
「しばらくお待ちくださいね」
女性は笑顔でそう言うと、自分の机へ戻っていった。……なんだか、ものすごく待遇がいい。移住者というだけで、こんなに歓迎されるものなのだろうか。俺がそんなことを考えていると五分も経たないうちに、二階から大きな音が聞こえてきた。
ドン!
ドン!
ドン!
「……?」
階段を誰かが勢いよく下りてくる。そして姿を現したのは、一人の男性だった。五十代くらい。身長は高く、肩幅も広い。体型は年齢相応に恰幅があるが、腹が出ているというより、長年鍛えられた身体に多少の貫禄が加わったような印象だった。黒に近い髪には白髪が混じっている。そして、最も目を引くのは、きれいに整えられた顎髭だった。口元には穏やかな笑み。鋭すぎないが、しっかりとした目。服装も町長らしく、他の職員より少しだけ上等なものを身につけている。それでも派手さはない。この町に馴染んだ、落ち着いた男だった。男性は階段を下り切ると、俺を見つけた。
「君が移住希望者か!」
大きな声が役場中に響き渡った。
「はい!」
俺は慌てて立ち上がった。男性は俺の姿を見て、目を大きく見開く。そして……。
「本当に来たのか!」
信じられないものを見るような顔をした。その表情は、まるで長年待ち続けていた人間が突然目の前に現れたかのようだった。
「私はエメルアの町長、グレゴール・ハーヴェルだ!」
グレゴールは大股で俺のところまで歩いてくる。
「ようこそ、エメルアへ!」
「ありがとうございます」
「いやぁ、本当に嬉しい!」
グレゴールは俺の両肩を掴みそうな勢いで近づいてきた。
「君みたいな若くてガタイの良い子が、こんな最果ての町へ来てくれるなんて!」
町長の顔には、心の底からの喜びが浮かんでいた。
「大歓迎だよ!」
俺は少し戸惑いながらも、頷いた。
「ありがとうございます」
「さあ、席にかけたまえ!」
「はい」
俺が再び椅子に座ると、グレゴールも向かいの椅子へ腰を下ろした。
「君のような若者が来てくれたんだ。住む場所もすぐに用意しよう。仕事だってすぐに紹介しよう」
「仕事……ですか?」
「もちろん!」
グレゴールは嬉しそうに指を一本立てた。
「君の体格なら、まず農作業を手伝うのもいい。畑仕事は人手が足りないところが多いからね」
さらに指を一本。
「荷運びの仕事もある。商人の手伝いや、倉庫の荷物運びだ」
さらに一本。
「木材を扱う仕事もある。薪を集めたり、建築を手伝ったりする仕事もある」
グレゴールは俺の身体を見ながら、次々と仕事を挙げていく。
「力仕事ならいくらでもあるよ。若くてガタイの良い君なら、みんな大喜びだよ」
「……」
俺は黙って町長の話を聞いていた。どの仕事も、この町には必要なのだろう。そして、俺を本気で歓迎してくれていることも伝わってくる。だからこそ俺は、はっきりと告げた。
「僕は、鍛冶工房で働きたいです」
「…………」
その瞬間。町役場から、音が消えた。さっきまで聞こえていた紙をめくる音もない。椅子の軋む音もない。誰かが話す声もない。完全な静寂だった。グレゴールの顔から、笑顔が消えた。血の気が引いていく。みるみるうちに、その顔が青ざめていく。
「…………」
町長は何も言わない。周囲の職員たちも、互いの顔を見合わせている。
「……え?」
誰かが小さく呟いた。
「鍛冶……?」
別の職員が聞き返す。
ざわ……。
ざわざわ……。
さっきまで静かだった役場の中に、今度は小さなざわめきが広がった。グレゴールは俺を見つめている。まるで、聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような顔だった。
「……君」
町長がゆっくりと口を開く。
「もう一度、言ってくれないか」
その声には、先ほどまでの明るさがなかった。俺は不思議に思いながらも、もう一度はっきりと答えた。
「僕は、鍛冶をしたいです」
グレゴールの顔が、さらに青ざめた。役場にいた職員たちも、誰一人として笑っていない。歓迎ムードに包まれていた町役場が俺の一言で、まるで何か恐ろしいものが現れたかのように凍りついていた。




