歓迎
荷馬車から降ろされてから、二十分ほどが経った。俺は一人、荒れた道を歩いていた。足枷はもうない。自分の足で地面を踏み、自分の意思で歩いている。それだけのことなのに、不思議な感覚だった。長い間、荷馬車の上から眺めることしかできなかった景色が、今は自分の目の前を流れていく。風が頬を撫でる。土の匂いがする。鳥の鳴き声も聞こえる。俺はそんな何気ないものを感じながら、ひたすら前へ進んでいた。
すると……。
「あれは……家なのか?」
道の先に、一軒の建物が見えてきた。木で作られた小さな家だった。俺は思わず足を止める。ドワーフの国では、町に入るには必ず大きな入場門を通る。町全体が頑丈な壁で囲まれていて、その中に町が存在している。俺が暮らしていたグランヴェルもそうだった。巨大な城壁。大きな門。門を守る兵士。そこを抜けて、ようやく町の中へ入る。それが俺にとっての町だった。だからこそ……。
「……いきなり家があるのか」
目の前にある光景が、どうにも不思議だった。城壁がない。門もない。門番もいない。ただ、道の先に一軒の家が建っている。これがドワーフの国と人間の国の違いなのか?それとも、エメルアという町が特別なのだろうか。そんなことを考えながら、俺は再び歩き始めた。
さらに進む。一軒、また一軒。少し離れた場所に、もう一軒。家と家の間はかなり離れている。その周囲には畑が広がっていた。土を耕している人の姿も見える。 家の横には薪が積まれ、木で作られた簡素な物置もあった。
「……農家なのかな」
俺はそんなことを呟いた。道も酷い。石がところどころ顔を出し、雨が降ったら水が溜まりそうな場所もある。ドヴァルディア王国の道なら、こんな状態にはなっていない。グランヴェルの道は石で舗装され、荷馬車が走りやすいように整備されていた。排水のための溝まであった。だが、ここにはそんなものはない。ただ、人が何度も歩き、荷馬車が何度も通ったことで自然にできたような道が続いている。俺は周囲を見回した。家にはガス灯もない。当然、ガス管など見当たらない。夜になれば、松明や油のランタン、蝋燭の明かりを使うのだろう。水道らしきものも見えない。家の近くには井戸がある。生活に必要な水は、あそこから汲んでいるのだろう。
「……」
俺は黙って歩いた。異世界に来た。そう思っていた。魔物がいる。魔石がある。エルフがいる。ドワーフがいる。そんな世界だ。なのに……目の前に広がっている光景は、前世で見た田舎の風景によく似ていた。
「タイムスリップしたみたいだな……」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。グランヴェルで暮らしていた俺にとって、この光景はあまりにも古かった。俺が住んでいた町は、ドヴァルディア王国の中では中程度の町だった。それでも、道路は整備されていた。夜になれば街にはガス灯が灯る。家には水が通っている。下水設備もある。それが俺にとっての当たり前だった。だがここには、それがない。まるで文明そのものが何世代も前に戻ってしまったような感覚だった。俺はそんなことを考えながら、さらに歩き続けた。そして……。
「……ん?」
少しずつ、景色が変わってきた。家が増えている。一軒だったものが二軒になり、三軒になり、その間隔も少しずつ狭くなっていく。道を歩く人の姿も増えてきた。農作業をしている人だけではない。荷物を抱えて歩いている人。子供の手を引いて歩く親。荷馬車を引く人。家の前で話をしている人。さっきまでほとんど人の姿がなかったのに、いつの間にか人の声が聞こえるようになっていた。
「ここが……町なのか?」
俺は歩きながら周囲を見回した。それでも、まだドヴァルディアの町とは比べ物にならない。建物のほとんどは木造。しかも、どれも簡素だ。二階建ての建物もほとんど見当たらない。店らしい建物も少ない。それでも、人が増えてくるにつれて、少しずつ町というものを感じるようになってきた。そして、さらに二十分ほど歩いた頃。
「……すごいな」
俺は思わず呟いた。人が多い。道の両脇には露店が並んでいた。木箱を台の代わりにして、その上に野菜を並べている店。籠いっぱいに果物を入れて売っている店。焼いた肉やパンのような食べ物を売っている店。簡素な布を広げ、その上に服を並べている店。
「いらっしゃい!」
「今日は新鮮な野菜が入ってるよ!」
「焼きたてだよ!」
あちこちから声が聞こえる。子供たちが走り回り、大人たちが店の前で値段を交渉している。さっきまでの静かな田舎の風景が嘘のようだった。文明の水準は低い。建物や道路も、ドヴァルディアと比べれば驚くほど簡素だ。けれど、町としての活気があり、町民たちがいきいきとしている。
「……エメルア」
俺は周囲を見回した。ここが、ラグナード王国の最果てにある町エメルア。俺がこれから暮らす場所だ。しかし……。
「困ったな……」
俺は立ち止まった。町に入ったはいい。だが、どこへ行けばいいのか分からない。ドワーフの町なら、入口には必ず門があり、わからないことがあれば門番に聞けばいい。でも、ここには門すらなかった。俺は移住希望者として、この町で暮らすことになっている。まずは町の役所か、住民登録をする場所を探さなければならない。だけど……。
「……どこにあるんだ?」
俺は周囲を見回した。露店の店主に聞くしかない。鍛冶工房を探したい気持ちはある。ここに来るまで、ずっとそれだけを考えていた。でも、今はそれより先にやるべきことがある。勝手に鍛冶工房を探し回るより、まずは移住者としての手続きをしなければならない。
「……あの」
俺は、近くで野菜を売っている女性に声をかけた。
「はい?」
「すみません。僕、この町に移住したいのですけど……」
女性は俺の姿を上から下まで見る。そして、ぱっと表情を明るくした。
「若くて、ガタイも良くて……男前ね。あなたみたいな子が移住してくれるなんて助かるわ」
「えっ……」
思わず声が漏れた。まさか、いきなりそんなことを言われるとは思わなかった。
「ありがとうございます」
俺は少し照れながら頭を下げた。男前かどうかは、自分では分からない。たぶん、お世辞だろう。俺はドワーフの中では細マッチョの部類だが、人間の若者と比べれば確かに筋肉質に見えるのかもしれない。それにしても、歓迎されるとは思わなかった。モルから聞いた話を思い出す。エメルアでは、若者が都会の生活に憧れ、王都へ出ていく者が多いらしい。そのため、町では移住者を募集していると……。だが、実際に若い移住者がやって来ることは、ほとんどないそうだ。
「それで、僕はどこへ行けばいいのでしょうか?」
「町役場へ行くといいわ」
女性が道の先を指差す。
「あそこを真っ直ぐ行って、広場を右に曲がれば見えてくるよ。大きな木造の建物だから、すぐ分かると思う」
「ありがとうございます」
「いいえ」
女性は笑顔で俺を見る。
「エメルアへようこそ」
「……」
胸の奥が、じんと熱くなった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺は深く頭を下げた。ドヴァルディア王国では、鍛冶の道を否定した異端として、国から追放された。帰る場所もない。頼れる家族もいない。俺を待っている人もいない。そんな俺を……。この町の人は、何も知らずに歓迎してくれた。
「……嬉しいな」
小さく呟く。たった一言。ただの挨拶だった。それでも、今の俺には、その一言が何より嬉しかった。ここでは、俺を必要としてくれる人がいる。そう思えることで俺は心が躍る。
「よし……」
俺は顔を上げる。教えてもらった道を見る。まずは町役場だ。そこで移住の手続きをする。そして、俺は拳を軽く握った。この町で、生きていく。それだけじゃない。俺には、やらなければいけないことがある。それは鍛冶だ。俺をドヴァルディア王国から追放し、母さんを死刑にしたあの国を、俺は絶対に許さない。胸の奥で、熱い炎が燃え上がる。鍛冶を続ける。そして、いつか必ず……。
俺は女性にもう一度頭を下げると、町役場へ向かって歩き始めた。




