第七話 徒桜 (2)
怪異の四本の腕が持ち上がる。
藍子は逃れようと操縦桿を動かしたが、《徒桜》の右手は怪異の脚をつかんだまま離れない。
「手が動かない!」
『力が入りすぎておる! 一度、操縦桿から手を離せ!』
握った指を、無理に開いた。
《徒桜》の指が緩み、怪異の脚が解放される。
だが、立ち上がるには遅すぎた。
振り下ろされる腕から逃れようと、身体をひねった。
《徒桜》が地面を転がり、二本の腕がすぐ脇へ突き刺さる。
残る二本が肩と脇腹を捉えた。
巨体が地面へ押しつけられ、警告音が操縦席に響く。
「動いて……!」
操縦桿を押しても、怪異を押し返せない。
正面の映像を、黒い殻に覆われた顔が埋め尽くした。
濁った目が、こちらを見ている。
息が苦しい。
操縦席にいるだけなのに、機体を押さえつける重さが自分の身体へ重なってくる。
『右手へ武器を呼べ!』
「こんな状態で、どうやって……!」
『機体の手を感じるのじゃ。先ほどと同じように!』
右手へ意識を向けた。
何も起こらない。
怖い。
ここから逃げたい。
どうして自分が、こんなものと戦わなければならないのか。
考えがまとまらず、呼吸ばかりが速くなる。
怪異の顔がわずかに動いた。
その向こうに、白い髪が見える。
琥珀だった。
崩れた通路口の内側で、神主とともにこちらを見上げていた。
入口の前を二体の巨体が塞ぎ、外へ出られない。
「どうして、まだそこにいるの……」
怪異が通路へ顔を向けた。
肩を押さえていた腕が離れ、二人の方へ伸びる。
「やめて!」
藍子は操縦桿を強く握った。
《徒桜》の瞳が青く輝く。
地面へ投げ出されていた右手に光が集まり、機体の脇で薙刀が形を結んだ。
伸びていく腕を止めたかった。
考えるより先に、操縦桿を突き出す。
《徒桜》が薙刀を斜めに持ち上げ、その柄を怪異の胸元へ押し当てた。
黒い巨体が傾く。
脇腹への重みが緩んだ。
『今じゃ! 立て!』
踏板を押し込む。
上体は起きたが、引き寄せた膝が泥を滑った。視界が傾き、藍子は慌てて操縦桿を引く。
『薙刀を支えにせよ!』
柄へ左手を添え、刃先を地面へ突き立てた。
両腕に機体の重みがかかる。
歯を食いしばり、踏板を押し続けた。《徒桜》の片脚が身体の下へ入り、足裏が地面を捉える。
腕で薙刀を押し、ようやく腰が持ち上がった。
立ち上がった勢いで上体が揺れる。片足を踏み直し、怪異と通路の間へ踏みとどまった。
地面から引き抜いた刃に、泥がついていた。
それを持つ両手が震えている。
機体の震えなのか、自分の震えなのか、もう分からなかった。
怪異が四本の腕を広げる。
薙刀を向けようとしても、切っ先が定まらない。
『腰を落とせ! 柄を正面へ!』
踏板を浅く踏み、薙刀を身体の前へ戻そうとした。
その途中で、怪異が突進してきた。
二本の腕が柄へぶつかる。
《徒桜》の足が地面を滑った。
怪異は残る二本を地面へ突き、さらに身体を押し込んでくる。
柄が胸元へ迫る。
藍子は踏板を強く踏んだ。足が泥を削り、沈み込んだところで止まる。
「させない……!」
押し返せない。
曲がった肘を伸ばそうとしても、黒い腕は離れなかった。
『右へ払え!』
操縦桿を横へ倒した。
柄が引っかかる。
さらに身体をねじると、《徒桜》の上体も傾いた。
薙刀が二本の腕を横へ押しずらし、怪異の巨体がつられて崩れる。
地面についていた腕が浮いた。
こちらへ向いた胸の継ぎ目で、濁った光が明滅している。
『あの光が霊核じゃ! 胸を狙え!』
切っ先を向けようとした。
怪異の腕が薙刀を打つ。
刃先が逸れ、次の腕が目の前へ迫った。
「あっ……!」
柄を持ち上げた途端、衝撃が走る。
受け止めた腕を押し戻す間もなく、三本の腕が薙刀をつかんだ。
柄が機体の胸元へ押し込まれる。
残る一本が、頭上へ持ち上がった。
また、引き倒される。
藍子は薙刀を離そうと、操縦桿を握る指を緩めた。
《徒桜》の手が柄を離す。
押し合っていた支えが失われ、怪異が前へ倒れ込んだ。
濁った目が近づく。
来ないで。
右手を突き出した。
《徒桜》が一歩を踏み込み、空いた手を怪異の胸元へ押しつける。
止めきれず、肘が曲がった。
「離れて……!」
踏板を踏み、操縦桿を押し込む。
足が地面を掻いた。傾いた上体を戻そうとする力が右腕へかかり、怪異の胸を押す。
黒い殻が軋んだ。
息を詰めたまま、腕を突っ張り続ける。
手の下で殻が割れた。
亀裂の奥に、赤黒い霊核が露出する。
怪異が後ろへよろめいた。
『もう一度、武器を呼べ!』
胸から離れた右手を引き、意識を向けた。
怪異が足を踏み直す。その腕が伸びてきた。
右手に青い光が灯る。
地面へ落ちた薙刀が光の粒となってほどけ、機体の手へ集まった。
「戻った……」
『切っ先を胸へ!』
低く垂れた刃を、慌てて持ち上げる。
その先で、赤黒い光が明滅していた。
腕が届く前に、右の操縦桿を押す。
《徒桜》が薙刀を突き出した。
切っ先が亀裂へ入り込む。
甲高い音が響いた。
だが、刃は霊核の表面で止まる。
「刺さらない……!」
『押し込め!』
柄へ左手を添え、踏板を踏んだ。
《徒桜》が前へ進む。
怪異は四本の腕で柄をつかみ、切っ先を押し戻そうとした。
青い刃と霊核の間で光が散る。
進んだはずの機体が止まった。
肘が曲がり、柄が押し戻されてくる。
その向こうで、濁った目が近づいた。
「このままじゃ……!」
操縦桿を引きたい。
この顔から離れたい。
握った手が震えた。後ろ足が滑り、通路口が近づく。
あそこには、琥珀がいる。
「そんなの……絶対に嫌!」
震える足で、再び踏板を踏み込んだ。
《徒桜》の胸部で青龍コアが強く輝く。
青い光が腕を伝い、薙刀へ流れ込んだ。
『青龍が……!』
刃を包む光が勢いを増す。
押し戻されていた薙刀が止まった。
けれど、怪異は離れない。
四本の腕が柄を締めつけ、機体の上体が揺れる。後ろ足がまた泥を滑った。
『踏ん張れ!』
藍子は踏板を踏み直した。
《徒桜》の足が深く沈み、後退が止まる。
滑りそうになった手で、操縦桿を握り直した。
「ここから先には……行かせない!」
機体が腰を押し出す。
泥に埋まった片足を引き上げ、前へ踏みつけた。
切っ先が霊核へ食い込み、亀裂が走る。
怪異が大きく身を震わせた。
柄を押さえていた二本の腕が外れ、機体の肩へぶつかる。
視界が跳ねた。
薙刀を押し戻す残りの二本と、肩に当たる腕が、機体を後ろへ押してくる。
藍子は歯を食いしばった。
これ以上、下がれない。
『あと少しじゃ!』
「これで……終わって!」
踏板を踏み込み、操縦桿を前へ押した。
《徒桜》が肩に当たる腕を押し返し、身体ごと薙刀を押し込む。
霊核が砕けた。
赤黒い光が一度だけ強く明滅し、刃がその奥へ突き抜ける。
抵抗が消えた。
機体が前へつんのめり、藍子は慌てて踏板から足を浮かせる。
怪異の四本の腕が垂れ下がった。
黒い殻が端から崩れ始める。
薙刀を引き抜くと、巨体は形を失い、黒い靄となって雨の中へ消えていった。
「……倒したの?」
『そうじゃ。終わったぞ』
声を聞いても、すぐには手を離せなかった。
怪異の姿は、もうない。
崩れ落ちた殻の欠片が、地面で少しずつ薄れていく。
また何かが動くのではないかと、正面から目を離せない。
雨が降り続いていた。
「私が……戦ったんだ……」
声にした途端、肩が震えた。
勝ったという実感よりも、今さら押し寄せてきた恐怖の方が大きかった。
薙刀を包んでいた光が薄れ、武器そのものが光の粒となって消える。
機体の全身を走っていた光も、弱まり始めた。
「え……?」
『もうよい。力を抜け』
「どうやって……止めるんですか」
『踏板から足を離し、操縦桿を中央へ戻せ』
震える足を踏板から離し、左右の操縦桿を元の位置へ戻した。
《徒桜》がゆっくりと片膝をつく。
機体が止まると、身体を固定していた器具が外れ、操縦席の前面が開いた。
冷たい雨が吹き込み、火照った頬を濡らす。
『昇降台を使って降りてこい』
座席から立ち上がろうとして、足がもつれた。
縁へ手をつき、ようやく身体を起こす。
胸元に止まっていた昇降台へ乗り、手元の印に触れた。
台がゆっくりと下り始める。
腕にも脚にも、ほとんど力が残っていなかった。
地上へ着いた途端、膝が折れる。
「藍子」
駆け寄ってきた琥珀が、倒れかけた身体を支えた。
「大丈夫」
「震えてる」
「これは……寒いだけ」
そう答えても、手は小さく震えていた。
琥珀は何も言わず、その手を両手で包む。
温かかった。
藍子は目の前の顔を見た。
「琥珀は? 怪我してない?」
「ん。藍子が守ってくれたから」
「……本当に?」
「ん」
白い髪も、いつもの表情も、すぐそばにある。
伸びていった黒い腕は、届かなかった。
「よかった……」
ようやく息を吐いた。
握られた手を、自分から握り返す。
今度は、力を緩めることができた。
◇
神主は怪異が消えた場所へ向かった。
残っていた殻の欠片が、雨に打たれて薄れていく。
その一つへ指を触れ、眉を寄せた。
「魑魅魍魎にしては、力が強すぎるのう……」
「どういうことですか?」
「調べねばならんことがある。じゃが、今はお主らを休ませる方が先じゃ」
神主が戻ってくる。
「中へ入るぞ。そのままでは風邪を引く」
促され、藍子は琥珀に支えられて歩き出した。
「母に連絡させてください。これだけ遅くなっていたら、きっと心配しています」
「無論じゃ。九條家には、わしからも事情を話そう」
制服のポケットから端末を取り出す。
電源を入れようとしても、画面は映らなかった。
「壊れてる……」
「大社の通信機を使えばよい」
「怪異や《徒桜》のことまで話すんですか?」
「九條家ならば、怪異の存在そのものは知っておる」
藍子は神主を見た。
「母も?」
「そうじゃ。お主が何も聞かされておらんことも含め、まずは事情を確かめねばならん」
母は知っていた。
自分たちを追いかけてきた、あの化け物のことを。
歩く足が遅くなる。
振り返ると、《徒桜》が片膝をついていた。
つい先ほどまで動いていた巨体は、静かに沈黙している。
「青龍は、どうして私を選んだんですか?」
神主も歩調を緩めた。
「理由までは、わしにも分からん。じゃが、お主を認めて力を貸したことは確かじゃ」
「認めたって……」
藍子は足を止めた。
「それは、これからも私に戦えということですか?」
神主が向き直る。
「わしは、お主に力を貸してほしいと思っておる」
「無理です」
即座に答えた。
「さっきは、琥珀を守らなければと思ったから動けただけです。
次も同じように戦えるかなんて分かりません」
手には、操縦桿を握り締めていた感触が残っている。
黒い顔が近づいてくる。
機体が倒れ、腕が振り下ろされる。
思い出しただけで、呼吸が浅くなった。
「私は、戦うための訓練も受けていません。それなのに……」
言葉が続かなかった。
琥珀の手を握る。
神主はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「選ばれたからといって、お主の返事まで決まったわけではない。今すぐ答えを出せとは言わん」
藍子はその顔を見つめた。
「……今は、決めなくていいんですね」
「よい。まずは休め。話は、それからじゃ」
神主が社務所へ向き直る。
「藍子」
琥珀に呼ばれ、顔を向けた。
「行こう。寒い」
「……そうだね」
二人で神主の後を追った。
数歩進んだところで、琥珀が足を止める。
「藍子」
「今度は何?」
「お腹すいた」
あまりにも普段どおりの言葉に、しばらく返事ができなかった。
「こんなときまで……」
「走ったから」
「分かった。何か食べるものがないか、あとで聞いてみよう」
「ん」
琥珀が歩き出す。
つないだ手も、その声も、いつもと同じだった。
藍子の強張っていた表情が、ほんの少しだけ緩む。
二人が社務所へ入るのを見届けたあと、神主は一人で足を止めた。
雨の中、片膝をついた《徒桜》を振り返る。
胸部の奥では、青龍コアが今も淡い光を放っていた。
「青龍、ついに目覚めたか」
神主の目から、先ほどまでの穏やかさが消える。
「これで、一つ――」
呟きは雨音に紛れ、誰の耳にも届かなかった。




