第八話 知らされていなかったこと (1)
第八話 知らされていなかったこと
社務所へ戻った藍子と琥珀は、神主から渡された乾いた着物へ着替えていた。
濡れた制服は隣の部屋に干されている。
暖房の前に座った琥珀は、茶を両手で持ち、立ち上る湯気を眺めていた。
その向かいで、藍子は卓上の通話端末を見つめている。
神主が九條家の番号を入力し、受話器を取った。
呼出音は一度鳴っただけで途切れる。
『はい、九條です』
「夜分にすまぬ。四季狐大社の屋島玄斎じゃ」
『玄斎様?』
母の声がわずかに強張った。
「藍子と琥珀は、わしのところで保護しておる。二人とも無事じゃ」
『藍子たちが、そちらに?』
「まずは声を聞かせた方がよかろう」
差し出された受話器を、藍子は両手で受け取った。
「お母さん……?」
『藍子!? 怪我はない? 琥珀ちゃんも一緒なの?』
「うん。二人とも無事。端末が壊れて、連絡できなかったの」
『本当に、二人とも無事なのね?』
「うん」
深く息を吐く音が聞こえた。
『急に連絡が取れなくなって、どれだけ心配したと思っているの』
「ごめんなさい」
『いったい、何があったの?』
答えようとして、神主を見る。
母は怪異を知っていると聞いた。それでも、どこまで話してよいのか分からなかった。
「代わるのじゃ」
受話器を受け取った神主が、声を低くする。
「今夜、山から町へ下りた怪異が現れた。二人はそやつに追われ、ここまで逃げ込んできたのじゃ」
『町にまで……』
「心当たりがあるようじゃな」
『陰陽連盟の方々から、山で異変が起きているため近づかないよう警告を受けていました。
ですが、まさか町へ下りてくるとは……』
「それだけではない」
神主が一度、藍子へ目を向けた。
「《徒桜》が動いた。藍子を乗せてな」
返事が途絶えた。
『……藍子が?』
「そうじゃ」
『藤花ではなく?』
「わしも驚いた。じゃが、青龍が選んだのは藍子じゃ」
藍子は受話器を見つめた。
母は《徒桜》も、青龍も知っている。姉の名前まで出てきた。
自分には、何も話してくれなかったのに。
「お母さん」
神主から受話器を返され、耳へ当てる。
「どうして何も教えてくれなかったの?」
『それは……』
「今日、怪異に追われた。琥珀と二人で、死ぬかもしれなかった。
それなのに、お母さんは全部知っていたの?」
『全部ではないわ。けれど、怪異と陰陽連盟のことは知っていた』
「だったら、どうして――」
『あなたを巻き込みたくなかったの』
続けようとした言葉が止まった。
『藤花は自分で道を選び、京へ行った。でも、あなたにまで同じ道を歩かせるつもりはなかった』
「だから、何も教えなかったの?」
『ええ』
迷いのない返事だった。
何も知らなかったから、今日まで普通に暮らしてこられた。
けれど、追われたときには、何から逃げているのかさえ分からなかった。
「でも、何も知らないまま襲われたんだよ」
母はすぐには答えなかった。
受話器の向こうで、息を吸う音がした。
『……そうね』
その声を聞いても、それでよかったとは思えなかった。
『山にはまだ陰陽連盟の調査が入っているわ。
今夜は夜の山道を移動せず、玄斎様のところにいなさい。明日、迎えに行くから』
「……分かった」
『琥珀ちゃんにも、心配していると伝えて』
暖房の前にいる琥珀へ顔を向ける。
「お母さんが、心配してるって」
「ん。ごめんなさい」
受話器をそちらへ向けると、母が小さく息をついた。
『二人とも、今夜はゆっくり休んでね』
通話が切れた。
受話器を戻しても、藍子はしばらく端末から手を離せなかった。
隣で、琥珀が空になった湯飲みを置く。
そういえば、腹が減ったと言っていた。
聞きたいことは残っている。けれど、今は二人とも、休んだ方がよさそうだった。
「何か、食べるものはありますか?」
神主が二人を見比べる。
「……まずは飯にするかの」
用意されたのは、湯気の立つ鍋焼きうどんだった。
卵と刻んだ葱が載った、簡素なものだ。それでも冷え切った身体には十分ありがたかった。
琥珀は目の前の鍋を見つめる。
「食べていい?」
「そのために出したのじゃ」
「いただきます」
返事を聞くなり、箸を取った。
藍子も手を合わせ、うどんを口へ運ぶ。
温かい出汁が喉を通ると、ようやく身体の震えが治まってきた。
「神主さんが作ったんですか?」
「ほかに誰がおる」
「いえ、普通に料理できるんだなと思って」
「お主は、わしを何だと思っておるのじゃ」
答えず、もう一口食べた。
向かいでは琥珀が黙々と箸を動かしている。見ているうちに、藍子の箸も自然と進んだ。
食事を終える頃には、雨音が弱まっていた。
空になった鍋を横へ置き、神主へ向き直る。
「それで、説明してもらえますか?」
「何から聞きたい」
「全部です」
「それでは夜が明けるぞ」
「では、あの怪異が何だったのかからお願いします」
神主は茶を一口飲んだ。
「怪異とは、人の恐れや負の感情、土地に澱んだ妖気から生まれるものの総称じゃ。
昔から陰陽師や巫女が、人知れず祓ってきた」
「いつでも現れるんですか?」
「いや。怪異を形作る妖気は、日の光がある間は現世に留まりにくい。
姿を現せるのは、日が沈んでからじゃ」
「でも、私たちが襲われたのは夕方でしたよね?」
「十一月も終わりじゃぞ。あの頃には、すでに日は沈んでおったはずじゃ」
雨雲に覆われた空を思い返す。
確かに、街灯は灯っていた。学校を出たときよりも、辺りはずっと暗くなっていた。
「今も、陰陽師や巫女が戦っているんですか?」
「今は陰陽連盟が中心となって対処しておる。お主らの町にも、調査の者が来ておったじゃろう」
「熊を調べている人たち……」
「一般人には、そう説明しておる。怪異の存在を公にすれば、混乱を招くからの」
東雲神社で交わされていた話も、母が受けた警告も、同じ出来事につながっていた。
「怪異は、誰にでも見えるんですか?」
「力の弱いものは、霊力を自覚しておらぬ者には姿すら見えん。
ただし、強まった怪異まで同じとは限らん」
「私にも、霊力があるんでしょうか」
「お主は《徒桜》を動かした。少なくとも、その力は持っておる」
「今まで、感じたこともありません」
「感じられることと、持っておることは別じゃ」
藍子は琥珀を見る。
「さっき、私たちの霊力に引かれたかもしれないって……琥珀にもあるんですか?」
「その可能性を考えたのじゃ。
じゃが、追われたことや、あの相手が見えたことだけでは断言できん。確かめる必要がある」
琥珀が空の鍋を差し出した。
「おかわり」
「話を聞いておったか?」
「聞いてた。私は霊力があるかもしれない」
「分かっておるならよい」
神主は鍋を持って台所へ向かった。
藍子はその背中へ問いかける。
「陰陽連盟が怪異と戦っているなら、どうして神主さんが《徒桜》を持っているんですか?」
「《徒桜》は、陰陽連盟の神機ではない。四季狐大社が守り続けてきた、青龍の力を宿す神機じゃ」
台所で器具の触れ合う音がした。
「青龍は、四神の一柱だと言っていましたよね?」
「青龍、朱雀、白虎、玄武。その四柱じゃ」
「ほかにも、神機があるんですか?」
「四神の力を宿す神機を揃えることが、この大社の役目じゃ。
今、確保できておるのは《徒桜》だけじゃがな」
「どうして揃える必要があるんですか?」
「この先、陰陽連盟だけでは対処しきれぬ災いが起きるかもしれん。そのときのために備えておる」
藍子は箸をそろえたまま、台所の方を見た。
今日のようなことが、また起きるのだろうか。
うどんの煮える音が、しばらく続いた。
二杯目を運んできた神主は、鍋を琥珀の前へ置いた。それから卓上へ四枚の紙札を並べる。
青、赤、白、黒。それぞれ異なる色の印が描かれていた。
「青龍以外は、どこにあるんですか?」
「分からん。すでに誰かの手で機体へ組み込まれておるのか、コアのまま眠っておるのか。
それさえ確かめられておらん」
「どうやって探すんですか?」
「各地の霊脈や怪異の出現記録を調べ、四神に近い反応を一つずつ確かめる。
陰陽連盟にも協力を求めておるが、まだ確かな手掛かりはない」
琥珀が再び箸を動かし始めた。
藍子は青い印の札へ目を落とす。
「《徒桜》も、そうやって見つけたんですか?」
「見つけたのは青龍のコアじゃ。それを《徒桜》へ納めた。
陰陽連盟の巫女や、《朧》の優秀な乗り手にも起動を試してもらったのじゃがな」
「それで、お姉ちゃんにも?」
「九條藤花ならば、適合する可能性があると考えた。それで、九條家の当主へ文を送ったのじゃ」
以前、母が受け取っていた手紙が思い浮かんだ。
「四季狐大社から来ていた、あの手紙ですか?」
「そうじゃ。藤花をこちらへ寄越してほしいと頼んでおいた」
母と姉は、あのときも自分の知らない話をしていたのだろうか。
姉が京で何を学んでいるのかも、本当は何も知らなかった。
「まさか返事を待つより先に、妹の方が来るとは思わなんだがな」
「怪異に追われて、偶然たどり着いただけです」
「そうじゃな」
神主が青い札へ指を置いた。
藍子はその指先を見つめる。
「青龍が私を選んだと聞きましたけど……どうして、青龍が選んだと分かるんですか?
コアは機体を動かすものなんですよね?」
「ただの動力源ではないのじゃ。その違いを知るには、まず霊核について話さねばならん」
「霊核……」
「すべての怪異が持つ、力の源じゃ。お主が薙刀で貫いた、赤黒く光るものを覚えておるか」
切っ先が止まったときの衝撃を思い出し、指がわずかに強張った。
「あれが砕けたから、倒せたんですね」
「そうじゃ。霊核を失い、妖殻を維持できなくなった。
力の弱い怪異であれば、倒されたあとに霊核も朽ちて消える」
「では、コアというのは?」
「長い年月をかけて霊気や妖気を蓄えた、強大な怪異の霊核が結晶化したものじゃ。
命を失ったときや、力ごと封じられたときに、ごくまれに形を残す」
「青龍も、元は怪異だったんですか?」
「人ならざる霊的な存在という意味ではな。神獣と呼ばれるものも、妖と呼ばれるものも、根は同じじゃ。人に恵みをもたらしたか、災いをもたらしたかで、呼び方が分かれたにすぎん」
札から指を離し、言葉を続ける。
「結晶化したコアには、力だけでなく、元となった存在の意思も残る。
青龍は、誰の力となるかを自ら選んでおるのじゃ」
「だから、私が乗ったときに……」
「そうじゃ。何を認めたのかまでは分からん。じゃが、今夜、お主に力を貸したことは確かじゃ」
藍子は膝の上で手を重ねた。
あのとき機体を動かしていたのは、自分一人ではなかった。
青龍が力を貸してくれなければ、琥珀を守ることもできなかったのだろう。
「まずは、こうした事情を知っておいてほしい。お主の返事を聞くのは、そのあとでよい」
藍子は小さく頷いた。
「陰陽連盟にも《朧》があるんですよね。今夜は、間に合わなかったんですか?」
「到着を待っておれば、先に地下への入口を破られておった。
あの場で動かせる神機は、《徒桜》しかなかったのじゃ」
神主に急かされたときは、何も分からないまま戦わされるのが怖かった。
けれど、今考えても、あそこでほかにどうすればよかったのかは思いつかなかった。
「近頃は、怪異の出現が明らかに増えておる。
これまで現れなかった場所でも、立て続けに確認されるようになった」
「今日の怪異も、その一つ……?」
「おそらくな。じゃが、数が増えただけなのかは、まだ分からん」
神主は四枚の紙札を重ねた。
「今夜の相手は、魑魅魍魎にしては力が強すぎた。なぜあれほどの力を持ったのか、調べる必要がある」
琥珀が箸を止める。
「また来る?」
「来ぬとは言い切れん」
藍子は隣を見た。
琥珀も、神主へ顔を向けていた。
「ただの活動期であればよい。じゃが、より大きな災いの前触れである可能性も捨てきれん」
札を懐へ戻し、神主は静かに答えた。
「何かが起きてからでは、遅いのでな」




